第四章 誰がためのばしゃら⑥



 怖い時には、誰を呼ぶの?

──お父さん。

 困った時には、誰を呼ぶの?

──お母さん。

 お父さんもお母さんもいないて、怖くて困った時には、誰を呼ぶの?


「……?」


──誰の名前を、呼べばいいんだっけ。


 忘れてしまった、誰かの名前。あまねのその疑問に、答えてくれる者はいない。


        ***


 おくるみに触れて見えたのは、想像はしていたけれど、子どもが産まれた時の情景だった。

 可愛らしい、双子の嬰児えいじ。その顔立ちには見覚えがあって、まさかと思っていれば夫婦はふたりの名前を「木犀もくせい」「柘榴ざくろ」と名づけた。

 愛おしげに名前を呼び、慈しげに抱き上げる。視覚だけしか共有できない周には感じ取れないはずの体温が、まるで伝わってくるようなひだまりの風景だった。

 いつまでも続けばいいと願いたくなるこの風景が続かないことを、周は知ってしまっている。続いているなら、周は木犀と柘榴とそも出逢っていない。

 なぜこんな暖かい家族がばらばらになってしまったのか、その答えはすぐに知れた。


──手鞠てまりが、天へと還ったのだ。彼女は、龍神だった。


 祠にあった髪飾りは、不器用な男が婆に教わって手作りしたもので、手鞠は嬉しそうにいつも髪に挿していた。それでも天に還る際に置いていったのは、私を忘れないでと願ったから。



【──私を忘れないでね。

 なんて馬鹿なことを言うのだろうと思った。忘れることなんて、天地が逆さまになっても無理だと云うのに。


 雨が、続いていた。このところ、もう五十日程。

 晴れ間はただの一瞬たりともない。作物は徐々に枯れ始め、最初は楽観視していた村人たちも不安と戸惑いを隠せなくなってきていた。

 不安は苛立ちを生む。村人同士の諍いも多くなって、女子どもは息をひそめるように家にこもって時間を過ごすようになった。


「ごめんなさい……」

「──どうした?」


 暗い表情をすることが多くなった手鞠。夜中に泣いていることもある。何かを口にしかけては、躊躇って言葉を止める手鞠がその日ついに、泣きながらこちらの袂を握ってきた。

 聞いては駄目だと、わかっていた。聞けば、彼女は──



──島のために還ると、そう告げるだろうことは容易に想像がついたから。

 でも、好いた女の話を無視するなんてこと、出来やしない。


「私、龍神なの。龍神になったから、ひとを見に来たの……すぐに還るつもりだった。だけど、あなたに逢えたから」


 離れたくなくなった。あなたとの子どもが欲しくなった。一緒に生きていきたくなった──好きになってごめんなさいなんて、言われて嬉しくない男はいないだろうに。つらそうな顔ばかりしないでほしい。


「──知っていたよ」

「……っ!」


 抱き締めてそう伝えれば、つむぎはさらに大粒の涙をこぼした。

 いつからかは、わからない。けれど、一緒に湯浴みをしていればその身体の輪郭がぼやけることもあった。ひとではないのだろうとわかってからも、些末なことだった。共に歩みたい、と、願いはそれだけで。


『龍神に向いてない。龍神なんかやめて、そばにいてほしい』


 そう懇願すれば、手鞠は還ることを止めるだろうか。思うけれど、困らせてこれ以上泣かせることなんてできなかった。


「いつでも見てるよ。見守ってる。空から、見てる」

「あぁ、見ててくれ。木犀と柘榴はしっかり育ててみせる──愛しているよ」

「……私も、ずっと好き」


 部屋の奥から、双子の泣く声が聞こえる。いつも泣き出すのは柘榴が先で、今日みたいに木犀が先に泣く時は柘榴に何かあった時だった。熱でも出たのだろうか。

 子どもたちの部屋へ向かおうと歩き出した背中に掛けられた、たった一言。


「ばいばい」

「──」


 振り向いたその先には、もう誰もいなかった。雨音が止む。戸の向こうでは、微かに日の光が射し込んでいるのがわかって──


「……止ませるのが、早いんだよ」


 これでは雨だと言って、誤魔化すことも出来やしない。子どもたちのもとへ向かう視界がぼやけて仕方なくて、爪が食い込む程にきつく拳を握った。──笑わ、なくては】



 髪飾りを壊さないように、丁寧な手つきで懐にしまう。返さなくていけない物だから、決して壊してしまわないように。


「……」


──残る祠はあとひとつ。

 子どもたちはそもよすがの存在を知らないから問題はないとして、村人の縁も順調に切っている。そして残りの村人は──あと、ふたり。


「よすが。遅かったな」

「早くしろ」


 右目の上に傷がある男と、無精髭の男。よすがを何より嫌うから、最後まで残っていたのだろうか。


「……? ひとりか? 案内役はどうした?」

「お前、どうして怪我をしていないんだ?」


 村人の多くは、えにしの儀を嫌悪していた。よすがに何かをしたいと考えていた。縁を切って見えた村人の思いは、よすがの胸を明るく照らしてくれた。

 けれど、このふたりは違うのだろう。よすがを嫌う、このふたりは。

(考えたって、無駄なんだよね、きっと)

 身体が恐怖を思い出す前にと、周は斧を振った。予想外の事態に動きを止める男たちの縁は、呆気なく切れた。



蒼弦そうげん様! 蒼弦様、頼む……! なぜうちの子がよすがに──大和やまとなんだ、よすがじゃあない!』

『殺さないでくれ、頼む、こんなことに何の意味がある……?』

『……いや、意味はある、じゃなきゃ、あの子は一体何のために死んだんだ? 意味はある。あるんだ。よすがは贄だ、大切な』



『父さん、母さん、春菜はるなは? どこ?』

『なぁ、いないよ。どこにもいないんだ──縁の儀……?』

『兄なのに、何もしてあげられなかった──蒼弦様に一矢報いることも。ひとりは、寂しいだろ? でも大丈夫だ、これからもよすがは、生まれ続ける』



 ぼんやりと座り込むふたりの頬を伝うものは──雨か、涙か。いや、縁を切った者に雨は降りかからない、から、これは。

 周はゆっくりと膝を折って、ふたりの男の顔を見つめた。いつも怖くて、しっかりとその顔を見ることはなかったから知らなかった。こんなに──苦しげな表情を浮かべていたことなんて。


「……周と、言います」

「よすがじゃ、ないんです。私は、周と言います」


──考えても意味がないなんて、嘘だ。話したかった。伝えなきゃいけなかった。たとえ、聞いてくれなくたって。

 話して欲しかった。聞きたかった。あなたの子どもの話。あなたの妹の話。縁の儀のこと、よすがのこと。

 話せていたら、何かが違った?


「あなたたちにいつか──安らぎが訪れることを、祈ります」


 過去は変わらない。命は戻らない。時は止まらない。だからこそ今、周は走る。その脳裏を巡る、男の不可思議な言葉。


『──

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