第四章 誰がためのばしゃら⑤



 どうやらふたりは恋仲になったらしい。なんだか覗き見をしているような気持ちになって罪悪感が沸いてくる。けれど、

(すごく柔らかな、あったかい気持ちになった)

 だからだろうか。冷えていたはずの指先が暖かい。走りながら斧をしっかと握り直したあまねの前に──それは、現れた。


「こんばんは、よすが。何をしてるの?」

「誰だっ!」


 周は足を止めて、暗闇の中で声の主を探すよう視線を巡らせた。よすがと知って、こんな親しげに声を掛けてくる村人はいやしない。


「俺は地の御遣みつかい。ひかみ、だっけ? 雷獣である彼の対だよ」

「──っ!?」


 すぐ真後ろから響いた声に、全身に鳥肌を立てながら周は勢いよく振り返った。慌てて後ずさって距離を取る。気配がなく、今の今まで全く気がつかなかった。

(こいつが、ふたりが言ってた……)

 木犀もくせい柘榴ざくろから、話は聞いていた。ひとではない人影に、ずっと前に追いかけ回されたこと。それが今回、ひかみを捕らえていると。そして、特筆すべきはその顔かたち。

(ほんとにひかみちゃんとそっくり……)

 違うのは、色合いくらいのものだった。

 夜闇にぽっかりと浮かび上がる程に髪や肌は真白く、その瞳だけが赤い。年齢は自分と同じくらいだろうか、背は周よりも頭ひとつ分は高く、ひかみが成長したらこんな風になるのかと思わせた。だがそれも一瞬だ、ひかみはこんな、くらい光を瞳に宿してはいない。


「──邪魔を、しないでくれ」


 この御遣いがここにいると云うことは、ひかみはどうしているのだろう。不安がよぎるが、今周がすべきはこの場を切り抜けて縁切りを続けることだ。


「ちょっと待ちなよ、よすが。よく考えて? 今からでも儀式に戻ろう。異変に気づいてない村人の方が多いし、まだやり直せる。なるべく痛くはしないし、よすがの役目を果たせば天の御遣いとずっと一緒に居られるんだよ?」

「死んだ私の亡骸を運ぶなんてこと、あの子にさせられない」


 首を横に振って、その提案を一蹴する。物言いは柔らかいが、その実言っている内容は優しさの欠片もない。

 この男にとっては、今までの幾人もいたよすがも周も同一の贄と云う存在でしかない。こんな男に殺されていった幾つもの命を思うと、悔しくてならない。唇を噛んで、叫び出したくなる怒りを堪える。

 御遣いはそんな周の感情に気づく素振りも見せずに、頭を掻いた。困ったように笑うその表情は優しげで、余計に腹が立つ。


「……天の御遣いは天に帰るのが道理。それでいいの? もう二度と逢えないんだよ? それに、村人全員との縁を切るつもりみたいだけど──独りで、生きていくつもり?」

「──名前を」

「は?」

「周、って、呼んでくれた。私自身が忘れてた名前を。それだけで──誰の記憶に残ってなくても、」


──私は、生きていける。


 声は、震えてはいなかっただろうか。御遣いに指摘されて、そうだ、ひかみは天に帰してやらなけばならないのだとはっきりと自覚する。一緒に生きるとあの子は言ってくれたけれど、ひかみのしあわせはきっと龍神の側近く。


「──うざったいなぁ!!」

「っ!?」


 突然上がった大声に、周の肩がびくりと跳ねる。舌を打った御遣いは、けれどすぐにへらりと相好を崩した。


「あぁ、怒鳴ってごめんね? 雨のことだよ」

「……」

「ひとの記憶から龍神伝承が消えれば、よすがの存在意義は消え、それは龍神の御遣いも同義」


──そこに雷獣が、天の御遣いが、存在する理由はない。


「ひかみは龍神に二度と逢えない。それどころか、存在そのものが消える可能性すらある」

「っ……!」



 周の喉が、半端にひきつった。自分のことならばいざ知らず、ひかみが消える、それに対する覚悟はしていない。ひかみの犠牲なぞ望んでいない。周の動揺を悟った御遣いが、笑みを深めた。


「まぁ、龍神はね。存在自体が雨を司る役割があるからひとの言い伝えに左右はされても消えることはないだろうけど、雷獣のひかみは違う。ひかみの役割はよすがの存在ありき、最早そういう存在に成り果てた。よすががいないのならばひかみの存在は意味はない──まぁ、俺もだけど」


 さぁ、どう出るよすが。

 震える周を前にした御遣いは自らの勝ちを確信しながら、強くなる雨空を睨めつけた。


        ◆◆◆


 一面が、ただ白かった。

 上から、下から、雪のような白い胞子が降っては昇り、静かに舞い続ける空間のその中心に、黒色のみすぼらしい獣がうずくまっていた。

 獣は──ひかみは、そこかしこに浮かぶ幾つものまなこから逃れたくて、固く目を閉じて身体を丸める。


「悪かった、すまない、ごめんなさい」 


 いくら謝っても謝り切れないことなぞわかっている。それでも、それ以外にできることは何もなくて。

 耳鳴りがする程の無音、白い白い空間で、ただ静かにひかみは謝罪を繰り返す。

 永遠に続くかと思われる時間の中で、ある瞬間ふっとひとつの声が降ってきた。


  『あまねってよんでくれた

   それだけで 

   だれのきおくにのこってなくても

   わたしはいきていける』


「──……」


 聞き間違えるはずのない、それはひかみの、最愛の声。

 ただ、名前を呼んだだけ。

 ほんの少しの間そばにいただけ。

 その実態はよすが殺しの血塗れの雷獣であることなぞ、もう知っているだろうに。

──どこまでもどこまでも健気なその心が吐き出す言葉は、ひかみに降り積もっていく。

 そうしてやがて、ひかみの視界が歪んだ。

 だって、どうして。

(──どうして)

(僕のことには、動揺するんだ)

(本当に)


「本当に馬鹿で──こんなに愛しい」


 ぽろりと、ひかみの瞳から涙が零れる。

 ぽろ、ぽろ、ぽろ。

 涙が硬い毛を濡らす。泣く資格なんてないことはわかっている。周、あまね。

 ごめん、ごめんな、許されないことをした僕は、そばに行けない。こんなに愛しいのに、そばに行けない。それは死したよすがたちだって同じで、彼らはもう家族に会えない。だのに自分だけ許してほしいなんて懇願こんがんできない。

 でも、頼む。どうか、お前だけはどうか生き延びて。

 ゆらゆらと揺らぐ白闇が少しずつ少しずつ近づいて、ひかみを飲み込む。

 抗う術もなく、ひかみはその意識を失った。


        ◆◆◆


 沈黙は僅か、数秒のことだった。よすがが静かに顔を上げ、御遣いを見つめる。


「……誰かが、話せばいいんだよな?」

「なに?」

「私が、ひかみちゃんのこと忘れないから。ずっと話し続けるから」

「……」


 想像していたよりも頭が弱い女の様子に、嫌いな雨に降られていることも相まって苛立ちが募る。

 さっさと邸に戻りたい。雨が降っていないならその途中経過も楽しむけれど、生憎の天候だ、よすがの最期に立ち会えればもうそれでいい。


「きみさぁ、」


 目の前のこのよすがは今夜死ぬのだから、話し続けるも何もない。まさかその部分から理解していないとは。嘆息混じりに説こうとした御遣いだったが、続いた言葉にふと口をつぐんだ。


「私がきみと一緒に、いるから。よすがとしてで、構わないから」


──だから、この儀式は今日で終わりにする。二度とよすがは生み出さない。

 それが、よすがの言い分だった。


「無理だって言うなら──どんな手を使っても、きみを殺す」


 強い眼差しには、確かな殺意が宿っていた。それは御遣いの、好みの色だ。途端に興味が沸いた。馬鹿で弱いひとの子。今まで通り、ただ通り過ぎていくよすがのひとりだと思っていたが──

(俺と一緒にいる……? 俺のことが怖くないのか?)

 瞬きをひとつふたつして、御遣いはずいとよすがへ近づいた。その腕を掴んで、身を屈めて顔を下から覗き込む。しばしの間探るようによすがの表情を観察して──御遣いは、にやぁあと口角を上げた。


 あああああああああ、ぁは!


 違う、違う! この女は俺を怖がっている。そのくせ、そばにいると言っている。

 掴んだ腕が震えて、恐怖が瞳に滲む。それは、御遣いにとってはひどく美味しい香りを放つ。

 今までのよすがは、御遣いに怯えるばかりだった。それでいいのだけれど、それもとても力になるのだけれど。


「……どうするの。私は本気だ」


 そう言って、斧を握る腕は細い。女の細腕。それでも、よすがの提案を一蹴すればこの女は言葉の通り殺しにかかってくるだろう。覚悟は、伝わっている。

──怯えているくせに、俺を真っ直ぐに見るその双眸。俺と共にいると言ったその唇。ぞわぞわと全身をかけ上がるのは愉悦か、歓喜か。

(おもしろい。おもしろい)

(ずっとそばで──俺のそばで、怯え続けて)

 蒼弦そうげんとは長く一緒にいたけれど、最近は反応も薄く、どうしたものかと考えていた。だから、ちょうどいい。これからは、今夜からは、このよすがが俺のもの。


「い、った……!」


 垂れそうになるよだれを拭い、御遣いはよすがの顔を掴んで、無理矢理に上を向かせた。


「──契約だ」


 契約をしよう。


「いいよ、きみの提案を、飲もう」


 ほっとしたようによすがの表情が安堵に緩んだ。間髪入れずに衿元を崩してむき出しの首筋に歯を立てる。


「っ……痛、!」

「我慢して」


 肩を跳ねさせるから動きを封じるように強く押さえつけて、破れた皮膚から溢れた血を舌で舐めとる。悪くない。

 次いで、口に含ませた唾液を傷口へ塗り込むようゆっくりと舌を動かせば、よすがが身体を震わせた。


「っ、……ぁ」

「いい子だね、そのままだよ」


 よすがが逃げ出さないよう拘束を強め、そのまましばらくの間首筋の傷の周りを噛んだり舐めたりを繰り返す。その方が、契約の印が早く馴染むはずだから。

──端から見ればまるで仲睦まじい恋仲のように見えるだろう、天の御遣いに、後で見せてやろうか。なんなら共有してやってもいい、だって俺たちは対の存在だ。

 やがて、よすがの首筋には赤黒い痣が浮かび上がった。つたのような形のそれはひくひくと不規則に脈打ち、頬を紅潮させたよすがが不安げにそこに触れる。


「これが、契約……?」

「そうだよ、可愛くなった。──俺の好みだ」


 髪を結ぶ組紐を指先で撫でてやれば、勢いよく突き飛ばされる。けれど、怒りは感じない。自分のものには、いくらでも寛大になれる。


「──行っておいで。好きにするといい。後で迎えに行くからね」



──龍神、龍神、龍神様。

 お前はきっと、ひとが好きなんだろう。ひとの地にわざわざおりてくるくらいだもの。けれど、そんなお前のせいで始まったこの伝承。

 天上には、今幾つの骸が転がっているんだろうなぁ。楽しいな、楽しいな。

 地の御遣いの俺にはその様子が見れない、それだけが残念でならないけれど。

 けども今夜、今夜からはよすがと新しい伝承が築けるかもしれない。久方ぶりに、胸が高鳴る。

 よろけながらも走り出したよすがの背中を見送って、御遣いは長く長く、笑った。木々が、震える。

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