断章② 想いを告げた、時のこと。
【娘──
多くを語ることはなかったが、島の誰も知らないならば本島の人間なのだろう。本島は離れてはいるが船を使えば島に渡れる。事実、集落には何人か本島から渡って来た者がいて、集落の大切な一員となっていた。
名前もなく、自らの出自も話したがらない娘に名前を与え、家に住まわせたのは婆がそうしてやれ、行くところもなく可哀想だろうと言ったからだ。深い意味はない。
「手鞠、戻ったぞ」
深い意味はない──はず、だった。だのに。
いつからだろう、手鞠。その名前を呼ぶ声に熱がこもっているのを自覚したのは。気になって、視界にいなければ探すのが常だ。目が合えば笑うから、知らず頬が緩む。馴染みの友が、お前そんな顔できたんだねとしみじみ笑う程。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
ほら、また。なぜかいつだって楽しそうにしているけれど、話しかければ深くなる笑顔が愛らしい。
洗濯をしていたらしく、泡のついた手をはたはたと振りながら手鞠は顔を上げる。少し前までは一日おきに降っていた雨の割合は増えて、晴れ間は三日に一度程。洗濯物が溜まってしまうと集落の女たちはため息をついている。手鞠は雨空が好きなようで、雨模様の時には軒先から飽きもせず空を見上げているのが常だった。
「果実が生っていたから、多く採ってきたぞ」
「! わぁい、これこないだおいしかったやつ? うれしい、ありがとう」
手鞠は肉を食うことを嫌う質で、果実や野菜ばかりを口にした。細いから心配になるが、こればかりは強制できるものでもない。
「あ、破けてる。繕います! こないだばぁばに教えてもらったの」
「助かる」
木の枝にでも引っかけたのだろう、見れば確かに袂が僅かばかり破けていた。手鞠が針と糸を取りに背を向けている間に着物を脱ごうとすれば、気づいた手鞠が静止の声を上げた。
「着たままで。その方が熟練者のそれで格好いいです」
「お前初心者だろう?」
「ふふふ」
結局繕い物は着衣状態で行うことになり、真剣な眼差しで針を持つ手鞠を見下ろし始めて早数十分。肌に針が何度刺さろうが表情を動かさず、やがて──手鞠が誇らしげに顔を上げた。
「できた!」
見て見てと言わんばかりに袂を揺らされ、視線の先では白色の糸が歪な線を描いていた。青地の着物に対してよく目立つそれが、なんともまぁ愛しくて笑ってしまう。彼女が自分のために使ってくれた時間を、他の男に同様に与えてほしくはなくて。
「──ともに、生きたい」
だから、その言葉はほろりと口からこぼれ落ちた。今言うつもりはなかったけれど、いずれ伝えたであろう自覚があったからそのまま返答を待つ。
手鞠はしばらくぼんやりとして──瞬間、一気に顔を赤く染め上げた。わたわたと針と糸を持つ手を意味なく振って、何かに思い至ったかのように意気込んだ。
「っ少し、返事は待って! 探してくるから!」
「……何を?」
「似合うの、探してくるから。青いの。──待っててね」
意味はわからなかったけれど、待てと言われたら頷くしかない。
そうして数日の後、雨の中手鞠に手を引かれて向かったのは、野っ原の広がる洞窟の前。果物もなく狩る獣もいないため男はあまり来ない場所だ、子どものための遊べ場。久しく来ていなかったけれど、あまり変わっていない。
「これ、あげるね」
「ん……?」
そう言って手渡されたのは、小さな紙片──否、しおりだった。白地に青い色が散っている。よくよく見ればそれは押し花にされた青い小花で、花弁が半端に切れてしまっている部分もあった。
「ばぁばに作り方教えてもらって……初めて作ったからちょっと下手だけど──あげる」
「……? ありがとう」
好いた女の手作りの品だ、無論大切にするが──なぜ今、しおりを? 先の返事がもらえると思って緊張しながらここまで来たせいもあり、ほんの少し肩透かしをくらった気分だ。
そして下りるしばしの沈黙。手鞠が首を傾けて、しょっぱい表情をした。
「さては伝わってないな……? あのね」
手鞠が唐傘を手離し、しおりを持つ手のひらを上からそっと両手で包んだ。額を当てて、瞳を閉じる。
「っおい、濡れるぞ……!」
「──生涯、あなたが私のしるべとなりますように」
しおりは、枝折る。山道などで帰り道のしるべになるよう、痛まないよう気をつけながら枝を少しだけ折ることが語源。
──導きとなるよう、祈る言葉。
──ならばこのしおりの含む、意味は。
手鞠が濡れないよう傾けていた唐傘が地面に落ちて初めて、手鞠を抱き締めている自身に気づく。ああ、濡れてしまう、離してやらねば、傘を差してやらねば──けれど。
「大切に、する」
「……うん」
腕の中、頷く手鞠をすぐには離してやれる気がしない。せめて濡れないようにと上体で庇っていれば、手鞠が微笑んだ。
「あなたには青が似合うから、ここが似合うね」
島の中でも、青い小花が咲く場所は限られている。雨粒を受け止めながらたくさんの青い小花が揺れる様はまるで、ふたりを祝福してくれているようだった】
──想いを告げた、時のこと。
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