第四章 誰がためのばしゃら④



 鼻歌混じりに部屋の中を楽しげに歩き回っていた御遣みつかいが、ふと立ち止まった。


「あ……? 何して……?」


 探るように外へと視線を向けて、ぼそりと呟く──未だ、誰ひとりとしてよすがの縁を切っていない? 儀式が始まって既に三十分は経過している。だのになぜ。


「なにしてるんだか……ちょっと、行ってこようかな」


 御遣いは小さく肩を竦めると、ひかみに背を向けた。そのまま部屋を出ようとする御遣いの背に、ひかみの声がぶつかる。


「──っおい、どこに行く!?」

「よすがのところぉ」

「待て! あまねに手出しをするな!! 見守るとか抜かしたのはお前だろうが!!」

「それは儀式が無事に終わることが前提だよ。……あ?」


 にべもないその返答にひかみが激昂するが、御遣いはやれやれと言った風に首を振って次いで、瞠目どうもくをした。

──虫籠窓むしこまどの、扉の、そこここの隙間から、真白い靄が滲み出始めていた。まるで意志を持って、部屋の中央へと集まってくる。ひかみの瞳はまだ、それを捉えない。


「ふーん……本当、余計なものまで起こしやがる」


 苛立ちを多分に含んだあまりに小さなその声を、ひかみは拾えなかった。だから──殺すならば、今。背を向けている今、部屋を出る瞬間を狙う。けれど、その目論見は破綻した。


「天の御遣い。俺はよすがのとこに行かなきゃいけないから──ちょっと変わっててくれる?」


 くるりと身体の向きを変えた御遣いが、にこりと笑った。


「変わっててくれる?」


──なんだ、どういう意味だ?


「俺に、変わってて」


 ひかみの疑問に応えるように御遣いはそう言って、ひかみの頬に自身の頬を擦り当てた。その部分からひかみが白く染まり始めるがまだひかみに自覚はなく、まるで動物の挨拶のようなそれに寒気を覚えていた。


「触るな!」

「はは、やっぱり拘束解けてるんだ。通りで囲いが弱まってると思ったよ。おかげで入ってきてるじゃん?ほら」


 あまりの気色悪さに思わず短刀を握る腕を振り上げるが、御遣いにその腕を取られた。そのまま放り出され、床にぶつかるかと思った身体は柔らかい何かに包まれた。真白い、もや


「……お前、たちは」


 ひかみは気づく。真白い靄の只中に、幾つものまなこが浮かんでいることに。それらはじっ……と、じっとひかみを見つめていた。

──よすが。

──それは今までのよすがたちだと、すぐにわかった。だって。


「じゃあ、任せたよ~死なないでね」


 ひらりと軽やかに手を振る御遣いの存在なぞ、最早目に入らない。真白い靄の中、まなこから微かに靄が晴れて幾人もの顔が表れた。肌は皆一様に土気色で、浮かぶのは苦悶の表情。奪われた命の痛みを思えば、当たり前。


「……っ」


 たった今、この瞬間まで。

 ひかみは思っていたのだ。悪いのは村長むらおさ蒼弦そうげんと御遣いだ、と。

 けれど。けれど──違う。

 だって、ひかみはこの顔を知っている。この場にいる誰の顔をも、知っている。だって運んだ。天へと。龍神の元へと。確かに触れた。その亡骸に。何の想いも、沸くことはなかったけれど。


「ぁ……あぁぁああ!!」


 扉が閉まる寸前、ひかみが叫ぶ。囲いの効力は弱まったが、そも壁の厚いこの部屋は扉さえ閉めてしまえば外に声が漏れることもない。御遣いは浮かべた笑みもそのままに、一度も振り返ることなくよすがの気配をたどり始めた。


        ◆◆◆


──胎内には、三匹の蟲がいる。

 それは誰しもが例外ではなく、生まれつきのものだ。そしてその蟲は夜間に天へと上り、天帝へと日頃の行いを報告すると言われている。

 それを阻止するため、集落では夜通し火を焚き太鼓を叩いて踊り明かすのだ。蟲祭りは常の通り、恙無く進んでいく。



(……あの女の人は、誰なんだろう……?)

 落ちてきた女性を助け、草履を貸してやり、ふたりで集落へと戻った男女。集落に行けば、会えるだろうか。なぜ祠に草履が祀られていたのだろう、彼女は何かを知っているのだろうか。話したい。

 そう思いはするが、やはり今は縁切りを進めていくのが先だ。蟲祭り最中にいきなりよすがが乱入すれば混乱を招くだろうし、そうでなくとも村人は順番に、祠を回るよすがを縁切りのために待つのだから、向こうから顔を出す可能性も高い。

(けどあれ、誰の目線なんだろう)

 声で男だと云うのはわかった。けれど顔はわからず、そちらに関しては手掛かりがない。なんとなくその声を、どこかで聞いた気はするのだけれど。

──ふたつ目の祠に着く少し手前で、待っていた数人の村人の縁を切る。降り続ける小雨の中、水を含んだ着物は徐々に重くなっていく。それでも脱ぐ訳にいかないのは、村人たちに儀式への反乱を悟られる訳にはいかないからだ。

 斧を握る手が、滑りそうにもなる。怪我など、ただのひとりにもさせる訳にはいかない。神経を使い、疲れもする。



『よすがのために納屋を作るぅ? 気ぃでも狂ったか?』

『聞かなかったことにしてくれて構わないよ。てかじーさんが勝手に見に来たんだろ』

『言われんでもそうするわ。蒼弦様に目をつけられるのは御免だ──ほい』

『あんだよ』

『ごみだ、捨てておいてくれな』

『わざわざここに捨ててく必要ないだろ!?……野草書? 食べたら危険な野草、痛み止めに使える野草……はは、素直じゃないなぁ』



──それでも。

 重くなる足を止めない理由が、あった。優しさと恐怖が繋がって今があるなら、そのすべてを断ち切ることこそが周にできる最大の恩返しだった。

 ふたつ目の祠の中にあったのは、しおりだった。

 青い小花がおされた手作りのそれは、紙が少し草臥れて色褪せてしまっている。火傷はしないともうわかっていたから臆することなく腕を伸ばせば、やはり先と同じく炎は上がった。そして──

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