第四章 誰がためのばしゃら③
よすがのいる納屋へと向かうのは、共に今年三十を迎える夫婦だった。
手には唐傘と提灯を持っている。
「私の縁を切ってください」とよすがに懇願させるそのおぞましさ。
そうして手渡された斧で村人はよすがに傷を負わす。よすがは礼を述べ斧を預かり、また出会った村人に縁を切るよう頼むのだ──なんて、胸糞の悪い。
よすがは外から来た子どもだ。集落の誰の家の子どもでもないから。その親の記憶は、夫婦にはない。それまではなかった
身寄りもない、どうやら記憶も曖昧な外の子ども。村人の大半は憐れみの視線をよすがに向けながらも、安堵の息を吐いていた。
──うちの子じゃあなくてよかった、と。
おかしい、と思う。生まれてから死ぬまで、この狭い島の中で怯えるしかないなんて。
「……」
それでも、
──禁足地に入るのは久しぶりのことだ。周囲を見回す余裕もなく、よすがのこれからを憂う夫婦の足取りは重い。迎えの役割は、村長がその度に適当に決めているようだった。名指しされたのは今朝方のことで、胸中のわだかまりが晴れることはない。
「……ん? 鳥、か?」
もう少しで納屋が見えるだろう場所まで来たところで、立ち止まる。頭上の枝が大きく揺れた気がした。提灯をかざして見るが、何も見えない。
互いに首をひねりながら、震える手をどちらからともなく繋いで、ゆっくりと歩き出す。
このままたどり着かなければいいのに。どこかに逃げてくれていればいいのに。そんな逃避染みた思いを馳せるふたりは気づかない──木の上の
「失礼します」
「……え?」
頭上から、降ってわいた声。反射的に空を仰けば、そこには。
──夜闇を裂くように、紫の羽織が翻る。
──金糸がきらりきらりと揺れ、可憐な鈴の音が雨音に混じり空気を震わす。
──丁度頭上を真横に一閃、大きく斧が振るわれた。まるで、見えない何かを断ち切るように。
不思議と、怖くはなかった。憑き物が落ちたような心地がして、力が抜ける。
『──なぁ、納屋を建てようと思うんだ』
『納屋? どこに?』
『禁足地に。よすがが……小さな子どもが、山の中でひとり過ごすのなんか、大変に決まってるだろうから』
『……なら、お薬とか食器とか、生活するのに必要なものは私が準備しようかね』
『いつか、いつかこんなしきたりがなくなることを祈るしかできないのは……情け、ないなぁ……』
縁を切ったと同時に流れ込んできたのは──あまりに暖かい言葉、で、周は斧を握る手に知らず力を込めた。
これは、この人たちの記憶だろうか。今よりも随分と若いふたりが手を繋ぎながら、眉を下げて切なげに笑い合う。
すべてが終わるまで、泣かないと決めていたのだ、周は。けれど、けれどこれは。
「……ぅ、っあ」
目元を拭うが、涙は勝手に溢れて零れていく。
(あぁ、あの納屋は──)
この人が、よすがのために作ってくれたものだったのか。どうすることも出来ず、でも、何かをしたくて。
禁足地に入ったことが気づかれれば、ただではすまないだろうことくらい簡単に予想がつくだろうに。なのに、どれだけの時間を掛けてくれたのだろう。
「──あなたのおかげで、暑さを凌げました。布団、が、心地よくて。私の、ふたつめの家でした。ありがとうございました……!」
夫婦の前で、周は深く深く頭を下げた。守られていることすら知らずに、その優しさを享受していた自分。この人たちには子どもがいるのだろうか。万が一にもこの人たちの子どもが、孫が、よすがになることがないよう私が、私が今夜必ず。
──縁を強制的に断ち切ると云うのは、身体的精神的に負担をかけるらしい。ぼんやりと座り込む夫婦は眠たげに瞳を細めていて、やがて寄り添い合いながら眠りについた。
転がってしまった唐傘を手に戻り、周は僅かに逡巡した。このまま放って行けば雨に濡れてしまう。納屋に運ぶべきか、旦那さんの方は身体が大きいから少々しんどいな。急がないと。そんなことを考えていれば、ふと気づく。
(雨が、当たらない?)
相変わらずの小雨の中、眠る夫婦にだけは雨粒が当たっていない。どう云った原理かはわからないが──龍神様の加護だと思っておこう──これならば大丈夫だろう。提灯が濡れないよう唐傘をかざして、周は最後にもう一度だけ頭を下げると、ひとつ目の祠へ向けて走り出した。
***
『村人たちとの、縁を切るんだ』
『縁を切る……?』
具体的に何をどうすればいいのか。それがわからない周に方法を与えてくれたのは、
『伝承って云うのは、ひとの畏怖や恐怖心、信仰心が形作るんだ。この島の間違った龍神伝説を、よすがの習わしを断ち切るためには縁を切って、ひとから忘れさせるしかない。俺たちで、縁を見えるようにはできるから』
任せて! そう頷いた
『ただ……無理やり縁を切るから、相手はよすがの儀式のことだけじゃなくて周自身のことも忘れちゃうと思うんだ』
──それでも、やる?
泣きそうなその表情は、周を慮ってのものだ。優しい双子。ひとつの魂を分け合って生まれたこのふたりは、他人を思いやる心が他よりも強い。
堪らずに木犀と柘榴を抱き寄せた周は、これ以上ふたりが気に病まないよう笑って願った。
『うん。お願い。私は大丈夫だから』
『……わかった』
涙声で頷いた木犀はそのまま、自身の親指の腹を噛み切った。柘榴は躊躇いが見えて、すぐに気づいた木犀が手を取って噛み切ってやっていた。そうして血の滲む親指をそれぞれ、周の両の目尻に滑らせて血の呪いをかける。
『これで、縁が見えるようになったよ』
そう言われて瞬きをすれば確かに、木犀と柘榴を繋ぐ水色の糸のようなものが見えた。それは周の方にも伸びて、柔らかく巻きついている。暖かい。
──周は、記憶のすべてが戻った訳ではなかった。自分の名前と、両親との少しの思い出。それ以外は思い出せておらず、このまま一生こうなのかもしれない。それは寂しい、気もするけれど。
一生。そんな単語を自然と思い浮かべることができるのだ、今の自分は。今夜、を乗り切りさえすれば、未来が拓ける。何よりも今は、前を向いて走る。過去を失ったと嘆くのは、もっとずっと後でいい。ひょっこり全部、思い出すかもしれないし。
『私たちは、周のこと忘れないよ』
そんな風に言ってくれる、小さな友達が周にはいるのだから。
──周は、祠の前で立ち止まった。小さな祠だ、
「……」
村人たちとの縁切りが目的だから、祠は無視していいのかも知れない。けれど何か気になって、手を合わせた後に周は観音開きの小さな扉をゆっくりと開き──中に、草履が置かれているのが見える。手を伸ばしてその草履に触れた瞬間。
「ぎゃあぁ!?」
草履を中心として、炎が上がった。周の全身が、赤銅色の熱に包まれる。
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