第四章 誰がためのばしゃら①
夜半、屋敷の廊下を歩いているのは地の
御使いはひととは少し違うから食の必要はなく、けれど蒼弦はそうはいかない。
灯りの少ない廊下は薄暗いが、目のいい御使いには十分すぎる光量であった。眩しさに瞳を眇ながら、蒼弦の部屋の扉に手を掛ける。
「──蒼弦様、夕餉の時間ですよ」
返事はないが、それはいつものことだ。気にすることなく中に入れば、湿気を含んだ空気が流れていて目を丸くする。
「蒼弦様?」
見れば、蒼弦は開け放った
「蒼弦様、濡れちゃいますから。閉めますよ?」
「……」
蒼弦からの応えはない。御使いは蒼弦の腕を雑に引いた。庇に遮られて濡れてはいないが、その指先は冷えきってしまっている。
蒼弦に断りを入れて月見窓を閉めれば雨音がほんの少し小さくなって、御使いは安心したように息を吐いた。
ただでさえ雨は嫌いだと云うのに。
「──ほら、夕餉にしましょう。今日は蒼弦様の好きな木苺もありますよ」
「……あぁ」
その言葉にようやっと、蒼弦は顔を上げた。ゆっくりとした足取りで膳の前へと移動しのろのろと箸を手に取るが、箸は冷えた蒼弦の手を嫌って床へと転がった。乾いた音が小さく響く。
御使いは拾った箸を手拭いでくるむと脇へと放った。膳には予備の箸がもう一膳乗っているから問題はないだろう。蒼弦は箸をよく落とす。
「夕餉が済んだら、すぐに湯浴みしましょうか。寒いでしょ」
蒼弦は他者よりも体温が低く、日光浴や湯浴みで暖を取らせることも多い。だのに当の本人が窓を開け放って部屋を涼しくしているのだから頭が痛い。
氷のように冷たい蒼弦の指を取って、御使いは唇を寄せた。指先が暖まるように息を吹きかける。何度かそれを繰り返しながら両手でにぎにぎと擦れば、ややあって白い指先がほんの少し色を取り戻した。
「──ん、これで少しは暖まりました?」
長身の蒼弦は座っていても頭が位置が高いから、自然と見上げる形になる。視線の先、蒼弦はぼんやりとした眼でこちらを見下ろしていて、指を気にする素振りもなく口を開いた。
「……さむい」
「……だから、空なんか見るの止めろって言ってんの。雨空見て何が楽しいんだよ」
いつまでも始まらない夕餉にいい加減苛立ってきた御使いは、自業自得だろうと呆れ混じりに吐き捨てる。(いっそ屋敷の窓全部目張りしてやろうか──)などと鼻を鳴らしていれば、ふいに腕を引かれたせいで体勢を崩して蒼弦の肩口へと顔を突っ込む羽目になった。
「っ、おい! いい加減に──、」
「さむい」
言葉と同時に、身体が抱き竦められる。暖を取りたいのだろう、蒼弦の身体は震えていて、耳朶のすぐそばで吐かれる息もひんやりとしている。
打った鼻先を押さえていた御使いはやがてため息をひとつこぼしてから、身体の力を抜いて蒼弦の頭をゆるゆると抱えてやる。
「……ほら、暖めてやるから。暖まったらさっさと飯食って湯浴みして寝ろよ。俺には、あんたがいなきゃ困るんだ──」
そう、それは言葉の通りの意味。
「俺をひとりに、しないでね」
蒼弦の頬に自身の頬を当てて体温を分けてやりながら吐く言葉は、蒼弦を縛る楔だ。ずっと、ずぅっと、そばにいて。
──地の御使いは、自分ひとりきりで存在できはしないのだから。
◆◆◆
ひどく揺さぶられ、ひかみの意識はゆるゆると引き上げられた。
「起きて!」
「ぅ……?」
頬を強く叩かれ、息を飲んで刮目する。また、あいつが来たのか。地の御遣い、ひかみの対。けれど、すぐにその警戒心は霧散した。目の前にいたのは──幼い
「お前たち、どうやってここへ……?
思わぬ闖入者に呆けたのも一瞬で慌てて問えば、ふたりは互いの顔を見合せ曖昧に頷いた。
一先ずは安堵の息を吐いたひかみだったが、続いた柘榴の言葉に表情を強張らせた。
「けどもう、時間がないの」
「……今はいつだ? 何時だ?」
言葉を引き継いだのは木犀。よすがの元で出会った時のぽんやりとした雰囲気は鳴りを潜め、しっかとした力強い声がひかみの耳に届く。
「今日はもう蟲祭りなんだ。日が沈めば、すぐに儀式が始まる」
期せず、全員の目線が
「囲いが強くて、時間かかっちゃって……どうせあの真っ白おばけの仕業でしょ」
そうだ、一体どうやってこのふたりは侵入してきたのだろう。囲いの役目をする布地は、おそらくは蒼弦や地の御遣い以外にはその効力を発揮するよう作られている。
「その怪我……」
何とはなしに双子の手元、を見やったひかみは瞠目し絶句した。自身よりも小さな手のひらが、赤黒い火傷を負ってぼろぼろになっている。
ひかみの腕を拘束する布地の結び目に悪戦苦闘するふたりをよくよく見れば、羽織や袴も所々焼け焦げていた。
「──どうか、願いを聞いて」
木犀と柘榴の、声が重なる。同時に拘束が弛み、数日ぶりに床へと尻をつけた心地に身体が弛緩したひかみの手が──しっかと握られた。
爪の欠けた、指の腹が焼けて皮膚が硬くなっている幼子の手のひら。
「よすがを助けて。もう二度と、誰も犠牲にならないように」
「どうか未来をつなげて。誰の涙も、もう見たくないんだ」
魂切るような静かな祈りは、ひかみの心にしんと積もる。
「私たちもがんばるから! 始まりの、責任があるもの」
「お前たちは、なぜ……」
少し大人びた表情に虚をつかれたひかみが言葉に詰まっていれば、砂利を踏む足音が小さく響いた。場に緊張が走る。一番に我に返ったのはひかみで、木犀と柘榴に声を掛ける。
「──おい、逃げろ。あとは自分でどうにかする。周のことを頼む」
「一緒に行かないの!?」
「今ここから逃げれば、すぐに周の元に行ったとわかるだろう。儀式を省略されて周を殺されたら堪らない。隙を見て、あいつを殺す」
当然のように一緒に逃げるだろうと思っていたため驚きに目を瞠った柘榴に声をひそめるよう目で制止し、ひかみは自身の髪を括る組紐をほどくとそれを手渡した。
「これを周に」
ややあって、こくり、とふたりが頷く。そうして、扉とは反対方向へと足音を立てないよう慎重に走り出した。どう逃げるつもりなのかと心配していたが、杞憂だった。するりと壁を通り抜けた姿に去来する思いはやはり──
(やはり、ひとではないのか)
些末なことだと思う。彼らがどんな存在であるのかをひかみは知らない。なぜ協力してくれるのか、始まりの責任とは一体何のことなのかはわからない。けれど、今はすがるしか。
扉が開くよりも早く、腕の拘束を偽装する。丁度扉が開き、顔を見せたのは地の御遣いだった。室内を見回して、首を傾ける。
「……んー? 何かいた、か……? いや、蒼弦様でも来たのか。珍しいな」
「──あぁ。目隠しは外してくれたぞ」
「へぇ」
咄嗟についた嘘だったが、深く突っ込まれることもなかったのは幸いだ。先日見た時よりも覇気がないように思えるのは気のせいだろうか──と、雨が地面を叩く音が広がり始めた。御遣いが、表情を歪め舌を打つ。
「雨……嫌いなんだけどなぁ」
首裏をがりがりと掻いていたが、その時、ひときわ大きく響き始めた鐘の音に表情を一変させた。菓子を与えられた子どものように嬉しげに、その口元が弛む。
「──ほら、蟲祭りが始まるよ。よすがが世界と縁を切る日だ。祝ってあげよう。俺たちは、水先案内人なんだから」
「黙れ」
「俺たちは、廻る世界を見守るしかないんだ。──そうだろ?」
ひかみの前に腰を下ろした御遣いは楽しげに愉しげに、笑う。嗤った。
これから周の身に何が起こるのか、ひかみは詳しくは知らない。それでも、笑えるようなものでないことくらい予想はつく。御遣いを強く睨めつけながら、思うのはひとりの少女。
(周……お前がお前を諦めたら、すべてが終わってしまうんだ……!)
──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます