第三章 天地の御使い⑤
ふたりがよすがを見つけたのは、偶然だった。いつも通り散策しながらよすがのもとへ向かおうとしていれば急な雨に降られ、慌てて雨宿りのため木の根本に避難する。
雨久しぶりだね。うれしいね。そんな会話を交わしながら雨が止むのを待って、濡れた袂を雑に振った
草履が汚れるのを厭うて足を踏み出す位置を選んでいる内に脇道に逸れ、普段はあまり行くことのない野っ原へと出た。
奥に進むと傾斜がきついが、斜面の下には青色の小花が咲いている場所だ。あとは岬くらいにしか咲いていないから、よすがに少し摘んでいこうか。きっと喜んでくれる。
傾斜を身軽に駆け下りていけば、すぐにひとつの人影に気づく。うずくまるその人は──
「よすがだ! こんなところで何してるの? 今ね、よすがのとこ行こうとしてて、」
柘榴がはしゃいだ声を上げて、よすがへと駆け寄った。木犀も表情を綻ばせてゆっくりとその後に続くが、柘榴の慌てたような悲鳴に眉を寄せる。
「──大変! よすが濡れちゃってるよ? 風邪引いちゃう! よすがってば!……よすが……?」
「柘榴……? どうしたの?」
泣きそうに震える声音を訝しんで問えば、口元を歪ませた柘榴が勢いよく顔を上げた。
「木犀! なに、なんで……? よすが、私たちのこと」
──見えてない。
「見えてない、って……」
柘榴の言葉の意味を捉え損ね困惑した様子を見せた木犀だったが、すがりついてくる柘榴の背中を撫でてやりながらよすがの前に膝をつく。
「よすが?」
名を呼ぶが返答はなく、ずぶ濡れたままのよすがはじっと地面を見つめたまま。
よすがと出会ってからそこまでの日数は経っていないが、無視されたことなどない。濡れて頬に貼りつく髪と、組紐。組紐はいつもはよすがの首に巻かれているものだが、今日は髪に結ばれている。愛らしい。
何とはなしに伸ばした指は、組紐を揺らした。触れることはできるようだ。
「……」
ついと身動いだよすがが、組紐を押さえた。風に吹かれたでも思ったのか、その瞳に木犀と柘榴が映ることはついぞなく、よすがはゆらりと立ち上がった。なぜか洞窟を一度だけ振り返ったよすがだったが、そのままふらふらとした足取りで歩き出す。家に戻るのだろう。
「ていうか、あいつはどこ行ったのよ!?」
よすがの両隣に寄り添ってふらつく身体を支えながらの道中、柘榴は周囲を見回してそう何度も声を荒げていた。
数日前に、よすががどこからか連れてきた、自分たちよりも少し年上の男の子。なんだか気持ちのいい匂いのする男の子だったから、木犀も柘榴も、よすがのそばにいることを許したのに。
「何か、何か……あったんだよ。あの場所で」
「何かってなに? 毎日楽しいのに。私と、木犀がいて。よすがと、よすがが言うならあいつもいいよ。みんなでずっと、鬼ごっこしたり川遊びしたりごはん食べて、ずっと!」
家に着いて、よすがはすぐに部屋の隅に座り込んでしまった。せめて濡れた着物を脱がしたかったが、叶わない。
小さく震えているのは寒さ故か、別の理由か。頬を伝う涙に気づきながら、言及ができない。よすがが泣くところを初めて見て、動揺を隠せないのは柘榴ばかりではない。
──と、よすがが何事かを呟いた。初めは自分たちに話しかけてくれたのかと思ったが、違う。
「……大丈夫。大丈夫。私がちゃんと
「
「ひかみ、ちゃん」
まるで自身に言い聞かせるように、何度も何度も、そう。その中の、ひとつの単語に、双子はびくりと身体をすくませた。
──縁の儀。
どこかで聞いた覚えがある。ぞくりと臓腑が冷えた心地がした。縁の儀は、よくないものだ。そして──思い出したのは、柘榴が先だった。
「あああ……! どうしよう……よすががいなくなっちゃう。死んじゃう」
「また、会えなくなる」
「もう、お別れなんてしたくないのに!」
「柘榴、何言って……──ぁ」
柘榴の震える言葉に引きずられるように、木犀の脳髄に溢れ出した記憶。それはこの身に宿る、数百年の月日のそれ。
そうだ、自分たちは、よすがとお別れをしたことがある。でもそれは、目の前のよすがではなくて。
「──……っ!!」
柘榴の身体をとっさに掻き抱く。そうだ、俺たちは、たったふたりの兄妹。よすが以外の誰にも認識されない存在──世界から忘れ去られた、ふたりぽっちの存在。
木犀も柘榴も、とうの昔に死した身だ。ようやっと、思い出した。
遥か昔のあの日、ふたり一緒に病に倒れ伏したあの日。どうしてもやり残したことがあって、気づけば木犀と柘榴は地上に留まる存在となっていた。蟲は三匹、肉体の死と同時に喪っている。故にふたりの姿は誰にも認知されることなく、文字通り、ただ島をさ迷う亡霊と成り果てた。そんなある時、ふたりの姿が見えるものでが現れた。
──よすが。
少しばかり年上の、弱々しく微笑む少女の名前が、よすがだった。
「あのね、集落にね、会いたい人がいるの!」
「声が伝わらなくて……代わりに伝えてほしいんだ」
見慣れない双子の突然の願いによすがは戸惑って、けれど決して邪険にされることはなかった。願いを聞いてくれることもなかったけれど。
「ごめんね、わたしはもう集落には戻れないから」
足があるのに、なぜ。
その問いによすがは曖昧に笑うだけで答えてはくれず、木犀と柘榴はうんうんと唸って考えた結界、山の果実や魚を手土産に持っていくことにした。
なぜかよすがは洞窟内で夜を明かしていて、ご飯もろくに食べていない。きっと喜んで、一緒に集落に行ってくれる。
「……あり、がとう……っごめん、でもわたし、集落には行けないの……」
ぽろぽろと涙を溢すよすがに動揺したふたりは、そんなことはいいからと、よすがに果実を勧めた。幼いふたりには、出会ったばかりの少女の悲しみの理由がわからない。できるのは、両隣に座って寄り添うことだけ。
ふたりは結局、よすがの涙の理由を知ることはなかった。それから数日後、朝日が上っていつもの洞窟に行けば、そこによすがの姿はなかった。
その日を境によすがの顔を見なくなり意気消沈していれば、どれくらいの時間が経ったのか、またよすがの名を持つ人間と出会った。男の子。そのよすがにもふたりの姿は見え、けれど最初のよすがとは違い一言も口を利いてくれることはなく、そのままそのよすがも姿を消した。
よすがと出会い、しばらくしたらよすががいなくなる日々を何度か繰り返し、木犀と柘榴は首をひねった。蟲を喪った影響か当初、柘榴は耳が、木犀は目が機能しておらず、ふたりで知り得た情報を繋ぎ合わせてようやっと理解する。
──よすがは贄だ、龍神への。
「──……」
言葉を、なくした。
間違った考えが間違った行動を引き起こし、ついには伝承となってこの島を縛りつけている。原因の発端が自分たちにあることを、ふたりは知っている。だからこそ、だからこそ。
──けれど、長い年月が過ぎ去る間に木犀も柘榴も本来の目的を見失い、やがて救うべき存在であるはずのよすがを森で見つけても身を隠すのが常となる。
それはひとつの白い影に追いかけられ、手酷く痛めつけられたことが原因だった。その時の言葉が、頭から離れない。
「よすがのせいだよ」
「全部、この島の不幸は全部よすがのせいだ。きみ達が何者かなんてしらないけれど、二度とあの人に近づくな。恨むなら、よすがをね」
そうしてふたり揃って山中の湖に投げ捨てられた。
肉体が死して尚、怪我をする、腹が空く、この身が憎い。意識のない柘榴を抱えてどうにか湖から這い出たが、寒さに震えて身動きができない。
季節は冬。しばらくすると雪が降り始め、真白い雪は少しずつ少しずつふたりの身体に積もり、次に目覚めたのは春の日差しに雪解けが訪れた日だった。柘榴が目覚めたのは木犀よりも随分遅くて、柘榴の身体を抱きすくめて目覚めを祈る木犀の思考は、怒りに黒く塗り潰される。
──助けたいと思っているのに。
──どうして話を聞いてくれない。
その身勝手な怒りはよすがに向かった。絶望の淵にいるよすがに、そんな余裕があるはずないと、今ならわかる。
部屋の隅で膝を抱えて丸くなるよすがを見やる。
あなたは、名前を思い出したんだね。よすがの名を捨ててくれたんだね。おかげで、僕たちも思い出せたから。だから、この身にできる精一杯を。
「柘榴。もう少しだけ、一緒に頑張ろう。あの人を助けなくちゃ」
よすがのごはんが好き。
よすがの笑顔が好き。
撫でてくれる手のひらの暖かさが好き。名前を呼んでくれる声が好き。柔らかく見つめてくれる瞳が好き。
それはきっと、よすがじゃなければ、本当のあなたならば、もっと素敵。
木犀と柘榴は、よすがの両頬にそれぞれ唇を落とした。約束。あなたが未来を夢見れるよう、あの時から続く呪い染みた時間を壊す。
──そのために、やらなくちゃいけないことがある。
◆◆◆
雷の子どもは、よすがの本当の名前を教えてくれました。よすがは、男の子ではありません。可愛い可愛い女の子でした。そして、よすがは忘れていたお母さんとお父さんのことを思い出します。よすがのことを、世界の誰よりも愛していたふたりです。愛している、ふたりです。
ずっと、ずぅっと、愛している──
「あま、ね……っ!」
「
「わかってる。……
「恨んでるように見えます? もし周にあなたが恨まれるのならその時は私も一緒ですから、ほら、怖がらないで。周と一緒にいられる時間は限られています。私たちは、私たちに今できることをしましょう! 大丈夫、周は今日も可愛いんですから」
「……お前も、可愛いよ」
「ふふ」
──虫のお祭りの夜には、闇夜がよすがを──、いや、周を襲ってきます。
でも、怖がらないで。きっと大丈夫だから。周は勇気のある女の子です。雷の子どもと手をつないで、眠る龍神様の喉元を抱き締めて。雨上がりの朝を、晴れ空の雷光を、周は目指します。
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