第三章 天地の御使い④
目を開ければ、薄暗く広い部屋の中央にいることが知れた。身体に幾重にも巻かれた布はひかみの腕を後ろ手に拘束し、天井へと続いている。それ以外にも、この部屋には天井からいくつもの布が垂れ下がっていて、ひかみはその薄気味悪さに表情を歪めた。
「……」
無駄と知りつつ身動ぐが、拘束が緩む気配はない。それどころか──
(風が吹かない、短刀も……出ないか)
おそらくは、部屋中の布地が何らかの効力で持ってひかみの力を封じている。全身にちくちくと、棘が刺さるような痛みが絶えず訪れているのはそのせいだろう。
雨音がする。周はどうしただろうか。早く戻ってやらなくては。布地がきつく食い込むことも気にせずに歯噛みしながら暴れていれば──軋んだ音を立てながら、扉が開かれた。
「誰だ。
警戒しつつ問うが、違うことはわかっていた。そこに立つ人影は、蒼弦より明らかに背が低い。周と同じ位だろうか。
人影が近づいてくる。扉の向こうに見えた景色で、ここが集落の一部であると知れた。ひときわ大きな屋敷が見えるが、あれが村長の棲みかだろうか。
「──はじめまして。俺はお前だよ。龍神様の
「……?」
人影は、ひかみの前で立ち止まった。すぐ目の前、話しかけられる位置にいて尚、どうにも顔立ちがはっきりしない。逆行になっている訳でもないのに。
「俺の話聞いてる? 天の御遣いがお前なら、地の御遣いが俺だよ。俺は村長の
「意味がわからない。それよりも、ならば蒼弦をここに呼べ。話がある」
にべもなく切ってすてれば、男──顔立ちはわからないが声で判断した──が肩を竦めたような仕草を見せた。
「蒼弦様を呼び捨てにするなよ。叱られるぞ。まぁ……忘れてるなら、思い出させてやるよ」
人影の腕が伸び、その指先がひかみの額に触れる。頭を振って払い退けようとするが、結った髪を強く掴まれて顔を固定された。
「ッ離せ──あ?」
触れた親指が幾度か額を撫で、そのまま──指が、額に突っ込まれた。臓器をかき混ぜられるような痛みに、見開いた瞳には生理的な涙が浮かぶ。人影はただ笑って、ひかみを見つめていた。
「ぁ、っああああ!」
魂切る悲鳴が、木霊する。
***
──天上は、風の多い大地だった。
何柱かいる龍神にはそれぞれ雷獣が付き従う決まりがあって、ここの雷獣は生まれつき、雷よりも風を扱う方が得意な質であった。故に、名を■■と云う。
もとより風の多い天上ではあったが、確かに■■が生まれてからはより風が豊かになった。それを笑う他の雷獣もいるが──どうでもいい。
「龍神様」
「なぁに?」
「お役目を、果たして参ります」
「……そう。気をつけて」
彩雲の小鳥と戯れていた龍神にそう声を掛ければ、龍神は動きを止めた後、ややあって■■の頭を撫でた。■■は一礼をして、
眼下には広がる大海と、ぽつんと浮かぶ小さな島がある。龍神がずっと、見守っている島だ。
定期的にひとの儀式があって、その度に■■は島へと降りていた。島の儀式は龍神を祀るためのもので、捧げられた供物を受け取って■■は天上へと戻る。
供物はひとの形をしていた。息絶えた骸は重かったが、獣よりは面積があるのは好感が持てる。龍神は肉を食わないが、供物の大きさはひとが龍神を敬っている証のようで誇らしかった。
「ただいま戻りました」
「■■……」
「供物です。いつもの所に飾っておきます」
屋敷を出て離れへと向かった瑞風は、中央の卓の上に供物を置いた。供物は小綺麗な装束を纏ってはいたが、腹が血で汚れていた。口からも血が垂れて肌を汚しているから、何とはなしに拭ってやる。龍神は、あまり血が得意ではない。
棚を見やれば、いくつもの骨が綺麗に整理され置かれていた。そばには彩雲で手作りされた花が飾られていて、龍神が普段からここに出入りしていることを物語っている。──と、床に龍神の胸飾りが落ちていることに気づいて、■■はそれを手拭いでくるむと足早に龍神の元へ戻った。
ゆっくりと扉を開けた先で龍神は寝所に顔を伏せており、眠っているのならと出直そうとした■■はしかし、呻くような声を耳にして足を止めた。慌てて寝所に入って龍神に駆け寄れば、龍神の両の瞳からはぼたぼたと雫が滴っていた。
「龍神様……? どこか、痛いですか? それとも僕は、何かを間違えましたか?」
「……っ、ううん! ■■は、いいの。私のこと思ってくれてるの、わかってるから」
■■は感情が薄く、表情があまり変わらないと揶揄されることもある。それでも龍神は■■をよく見て、汲み取ってくれる存在だった。汲み取れないのは、頭の足らない自分の方で。
「守ってあげられなくて、ごめんね……っ!」
強く掻き抱かれる理由がわからない。どうしていいのかわからず龍神の腕の中で身動き取れないでいれば、やがて雫を拭った龍神が「果実でも取りに行こっか」そう笑ってくれたから、ほっと胸を撫で下ろした。
それから、いくつの供物を龍神に届けただろう。離れに増えていく骨の数と比例して、龍神が雫を溢す回数は増えていく。
そして──何がきっかけとなったのか。
ある日、龍神は泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けながら──娑婆へとその身を投げた。慌てて■■もその後を追うが、
***
響く荒い呼吸が、自身のものであると自覚することはできなかった。流れ込んできた記憶は途方もなくて、がんがんと痛む頭を抱えたいけれど、拘束のせいで叶わない。
「──思い出した?」
あごを掴まれて、目線がかち合う。ぼんやりとしていた顔立ちが、徐々にその輪郭をはっきりしたものに変えていく。
「……っ」
「俺とお前は、何度も会ってんじゃん」
──その顔が、記憶と重なる。まるで、自身と生き写しの顔立ちがにまりと笑う。違うのは色合いくらいもので、黒色のひかみに相対するように髪も着物も
縛られている両手に、重みが加わった、気がした。息絶えた骸の重み。魂ひとつ分が喪われた冷たい骸を、確かに目の前の男から受け取った。
「俺がよすがを殺して、お前がそれを天へ届ける。そうゆうお役目だろ? 思い出した?」
震えていた身体は、笑いを含んだその愉しげな声を受けてぴたりと動きを止めた。今、こいつはなんて言った。
──よすが、を、殺す。
──
「……あいつに手出ししてみろ──殺すぞ」
その瞬間、ひかみによく似た相貌の男は、凄絶な光を宿すひかみの双眸の鋭さにぞわりと背筋を凍らせた。知らず一歩後退り、けれどすぐに口角を吊り上げた。目の据わったひかみに見えるよう、わざとらしく肩を竦める。
「よすがは贄だ、龍神様への。あのよすがひとりだけ助けるなんて、そんな特別扱いは出来ない。わかるでしょ?」
「あいつはよすがじゃない、周だ。二度とあいつをよすがと呼ぶな」
はぁ……と、男から洩れたのはため息だ。片眉を下げながら雑に頭を掻いて、下がる布地を指先で揺らして遊ばせる。
「……そも、なんでお前が地上にいる訳?」
「お前に関係あるか。この拘束を解け」
「解いたらよすがのところに行く気でしょ。駄目だよ、もうすぐ蟲祭りだし。安心して、縁の儀が終わればいつも通りよすがの遺体をきみに渡すよ」
「ッふざけ、!」
「いい加減、騒ぐのは止めろよ。騒がしいのは嫌いなんだ」
口を手で塞がれ、直ぐ様噛んでやれば男は短い悲鳴を上げた。涙目で一枚の布を引っ張ったかと思うと、ひかみの口にその布の先を押し込める。
「んぐ、ぅ……!」
「ったく──よすがにとって、お前と俺は死の神だよ。それが現実。現実は、受け入れるためにあるんだから」
男はため息交じりにそう言うと瞳を細めてにこりと笑った。細い指でひかみの髪を柔らかく撫でながら、「ほら、少し眠りなよ」優しく囁く。
抗うひかみの意識は無理矢理に落とされ、る、寸前。
──暗闇の中でひとりきり、声を殺して泣く周の姿がよぎった。
泣くな、すぐにそばに行ってやるから。
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