第三章 天地の御使い③
「──……! これが、龍神、様……?」
遠回りにはなったが、なだらかな道を選んで丘の下側へと回ったひかみと周。その奥に大きく口を開ける洞窟の、目に見えるすぐのその場所に、その存在は、いた。
(本当に、いた……)
決して、決してひかみを疑っていた訳ではないけれど。
蛇のように長い肢体の、尾がこちらを向いていた。びっしりと鱗に覆われる身体は全体が蒼白く、淡くその輪郭を光らせている。思わず息を飲んで、周は言葉を失った。
──そのあまりの
龍神の身体は洞窟の半分を隠す程に大きく、背や尾にはたっぷりとした艶やかな真白い毛が生えている。硬そうな鱗一枚一枚は隆起しており、陽の光を浴びて時折反射していた。
思わず手を伸ばしかけて、触れる寸前で慌てて動きを止める。相手は神だ、何が失礼にあたるかもわからない。
「──龍神様! ひかみです! お迎えに上がりました……!」
そんな周の横を抜け、ひかみがそっと龍神の身体に触れた。けれど、何も起こらない。龍神は目覚めない。
「……ひかみちゃん。ひかみって私がつけた名前だから、龍神様、わからないんじゃ……」
「それもそうか……僕は中に入ってみる。お顔は奥を向いているようだし」
背中に向けて声を掛けるより、確かにその方がいいのかもしれない。もしかしたら、ここからは見えない場所に怪我をしている可能性もある。
「周はどうする? ここで待ってるか?」
「え、っと……」
洞窟自体の横幅はそこまでなく、中に入るにしても足元に気をつけながらになるだろう。周自身運動神経は悪くないと自認しているが、踏みつけてしまいそうで気が引ける。数瞬考えて首を横に振ろうとした周だったが、その時──
「誰だ……?」
その時、周でもひかみでも、無論龍神でもない第三者の声がその場に落とされた。
「──っ!?」
ここは禁足地だ、よほどのことがない限り村人はここには来ない。来る、可能性があるとするなら、それはたったひとり──。
「よすがか。何をしている?」
(
年の頃は三十代後半、眠たそうに細められた双眸からは感情が感じられない。花色を基調とした衣服は一目で高価なものとわかる品のあるもので、首からはふたつの巾着が提げられていた。畑仕事とは縁のない、綺麗な指先。彼に必要なのは、命令を下す言葉だけだ。
集落の絶対的覇者にして、周をよすがに為した張本人。集落では、全てが彼の鶴の一声で決まる。
(なんでここに……!? 龍神様がいることを知って……?)
伝承では、龍神は天上にいることになっている。ひかみの言葉を聞くに、龍神が地上に降りたのは予定調和外の出来事に思えた。いつから龍神がここにいるのかはわからないが、ひかみが来てまだ数日。そんなに前のこととは思えない。それを、どうやって──
「言葉は話せたと思ったが……さて」
こてん、と首を傾げる蒼弦の視線が洞窟に向くことはなく、ただ周を見下ろしていた。
(見えて、ない……?)
唖然としながら蒼弦を見返せば、その腕が静かに振り上げられ──乾いた音が耳を打つ。地面に身体を打った痛みに、遅れて頬を張られたことに気がついた。
「よすがの役目を忘れたか……?」
「ぁ……」
蒼弦に、暴力を振られた記憶はない。どちらかと言えばあまり他者に興味を示す性質でないこの長は、周がよすがとして存在することに逆らわなければこちらを見ることもしない。
「──周!」
「あまね……? 名は、随分前に棄てさせたはずだが……よすがに名などない。贄の務めのみ果たせ。許すのは最低限の呼吸だけだ」
「──っ! 貴様……!」
激昂したひかみは声を荒げた。
あの時の男たちとは違い、蒼弦と呼ばれたこの男からは周に対する敵意や殺意が感じられなかった。だからこそすぐに引き離すことはしなかったが──悔やまれる。すぐに握った短刀を蒼弦の首元めがけ振りかぶるが、その刃が届くことはなかった。
「な……っ!?」
蒼弦が、避けたのではない。どころか彼は一歩も動くことなく、ひかみは背後から殴られ地面に膝をついた。頭がぐらつき、顔をあげることができない。
──なんだ? 今、何が起きた……?
この場にいるのは、龍神を含めなければ三人。ひかみに攻撃を与える者など、どこに──
「……がっ!? く、そ……」
「ひか、ちゃ……!」
うなじに感じた衝撃に、ぐらりとひかみの身体が傾ぐ。無理矢理に視線を後ろにやっても、見えるのは泣きそうに表情を歪める周だけ。逃げろ。そう伝えたかったが、音になる前にひかみの意識は黒く塗り潰された。
「……と云うか誰だ、お前は?──なんだ、連れて行くのか?」
僅かに眉を寄せて記憶をたどるような様子を見せた蒼弦だったが、ふと視線を落とし誰かにそう尋ねた。一言二言簡単に言葉を交わす素振りの後、徐にひかみを肩に担ぎ上げた。
「ひか、……っ」
立ち上がりかけた周はしかし、蒼弦に視線をやられ動きを止めた。震える身体は、顔を逸らさないのが精一杯で。
「よすがとして、残りの時間を生きろ」
よすが。その音をどこか懐かしく感じてしまうのは、ひかみが、まるで上書きをする周の名前をたくさん呼んでくれるからで。
「よすがの役目を果たさないのであれば、こいつの命の保証はしない」
言い捨て、蒼弦は集落へと向けて踵を返した。ゆったりと歩く背の高いその隣、ひとつの影が寄り添っていることにうつむく周は気づけない。
──雨が、降り始めた。小さな雨粒はどんどんとその勢いを増して大地を叩き、島に潤いを与え含ませる。
残された周は、雨に打たれながら長い時間その場に座り込んでいた。
周がおとなしくしていないと、ひかみは殺される。あの優しい子どもが、殺される。蒼弦は、有言実行の男だった。集落をまとめあげるのにその決断力と実行力は不可欠なものであったが、その分慈悲と容赦がない。周は両手で顔を覆い、唇を歪ませた。
(──あの子が無事なら、それで、いい)
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