第三章 天地の御使い②

 初めてだったから不安だったが、編んだ草履はあまねの足に合ったらしい。歩く姿に違和感はなく、体力も戻ったようだ。朝餉もきちんと食べていたし、昨夜周が作った砂糖漬けの木苺は初めて食べたが美味だった。

(帰ったら、また食べよう)

 木犀もくせい柘榴ざくろが来るかもしれないからと、双子の分はそれぞれ小瓶に分けてある。ひかみの分もまだ残っているが、顔を見せないようならそちらも食べてしまおう。木苺はまた取りに行けばいい。

 洞窟へと向かう前に墓参りに行きたいと言う周は、今は野っ原で幾つかの花を摘んでいる。木の幹に背を預けそれを見つめながら、ひかみはつらつらと思考を巡らせていた。

──ひかみが思い出したのは龍神のことや古墨こぼくの獣といったほんの少しの世界の成り立ちだけで、自身については思い出せていない。

 ひかみが追ってきたのは、龍神だ。ならば、地上へと落ちた龍神を追う自分は何者なのだろう。周は雷獣だと言うが、ひかみは違うと思っている。ひかみが扱えるのは風であり、雷ではない。

 ひと、でないことだけは確かだ。古墨の獣がひかみを追ってきたのが何よりの証拠であった。

──古墨の獣。周の父はそう名付けたようだが、本来の名称はない。呼ぶ者がいないからだ。

 あの獣の役割はただひとつ。

 聖獣、神人、精霊と云った『ひとでないもの』が本来の境界を越えた場合に於いて、それを連れ戻す役目が課された境界の番犬。まともな自我はなく、故に生命体ですらない。

 本来ならば目的を果たすまで戻ることのない存在であるはずだが、周の機転に因って助かった。周が言うには、古墨の獣や雷の子どもの話を父が寝物語で語ってくれていたと言う。想像で、と一蹴してしまうにはあまりにも類似点が多く、先見の明でも持ち合わせていたのかと勘ぐってしまう。

──あぁ、でも。僕は雷獣ではない。どんな存在であるのか、わからない。周の両親が望んでいるのが雷獣であるなら、叶えられなくて申し訳ないと思う。


「──ひかみちゃん、ごめんね。お待たせ。行こう」

「あぁ」


 それでも、周の傍らにいることは譲れない。何者でなくても、ひかみには名がある。周がくれた名が。

 自身の存在証明がすぐにはできなくても、守るべきは目の前の少女だから。


        ◆◆◆


「──両親……の墓にしては多いな」


 薄紅染うすべにぞめの湖について辺りを見回せば、白く小さな石が幾つも並んでいた。湖の水でもかかったのか、所々が薄紅色に変色しているおり、それが花びらのように墓石を彩っている。


「あー……父さんと母さんのお遺骨とかないんだ」

「……災禍さいか、だったか」


 こくり、と周は静かに頷いた。


「災禍のせいで死ぬと、消えちゃうんだ。衝撃、っていうか爆発みたいなの起きて家も壊れちゃったし……記憶もね、なくなっちゃったから……すぐ家の中探したらもう少し持ち出せた物もあったかもなんだけど」


 首に巻かれた組紐を撫でながら周は眉を下げて小さく笑んだ。


「だから、あの絵、ありがとうね」


 おかげで大切なことを思い出せたと瞳を細める周の眼球は、ひどく綺麗だ。自身の真っ黒なそれと同様の色合いなのに、ほんのりとした暖かさを感じるような。

 その眩しさに目を瞬かせるひかみの脇を抜け、周は抱えた花を一輪一輪墓石の前に供え始めた。


「ここ、よすがたちのお墓なんだ」

「よすがたちの……?」

「お遺骨がある訳でもないし、数も適当なんだけどね」


 日当たりもいい場所だからと、周がせっせと見つけた石をここに運んだらしい。顔も名前も知らないよすがのために。


「……周の」

「ん?」

「周のそういう所が好きだ」

「──……ひかみちゃんはお水を! 汲んできて! もらえますか!!」

「?わかった」


 ぱちり、と瞠目した後、周はすぐにうつむいた。その耳が赤いから不審に思って顔を覗き込もうとするが、背中を押され湖の方へと追いやられる。

 首を傾げながらも、墓石に置かれている胡桃の殼ひとつひとつに湖の水を入れていく。

 墓石は三十と少し。その全てに花と水を供え、ふたりで並んで手を合わせる。

 今までのよすがたちも、周と同じ年の頃だったのだろうか。名を奪われ、暴力に晒され、ひとりきり、山の中で放置されて過ごし──命を、奪われる。

──助けてやれなくてすまない。

 そんな思いで唇を噛み、ちらりと薄目で隣の周を見やる。ひかみはよく覚えてないけれど、初めて会ったのがこの場所だ。よすがになってから、周は何度この場所で、ひとりで鎮魂の祈りを捧げてきたのだろう。諦めと恐怖に軋んだ心が、今は穏やかであることを願うばかりだ。

 ふと、周が瞳を開けて空を仰いだ。じっと晴れ空を見つめる周を受けて、ひかみは首を傾けながら静かに問うた。


「──空に何かあるか?」

「いや、いい天気だなって。最近、雨降ってないから。……子どもの頃はさ、よく雷見てた気がする」

「雷?」

「うん、雷雨じゃなくて、晴れの日にね。雷が走るんだ──青空に白い光が散って星みたいで、綺麗で好きだったなぁ……って」

「ふぅん」


 ひかみは雷獣じゃない。だから雷獣を褒めるような言葉には興味がなくて聞き流せば、


「ひかみちゃんの目ぇみたいで、綺麗だなって」

「……僕は雷獣じゃないぞ」


 はにかむ周へ唇を尖らせてみるが、それでも、なぜだろう。なんだかこそばゆい。


「わかってるってば。でも、ひかみって名前、きみに似合ってるよ」

「名付け親の感性が良くて助かるよ。──そういえば、なぁ」

「何?」

「歌」

「ん?」

「歌ってなかったか? 初めて会った時」


 その時の記憶は、ひかみにはない。けれど微かに、耳が覚えているような気がして。高い高いその場所で、歌う少女の歌声を。


「……気のせいではー?」


 よくそんなあからさまに視線を逸らしながら言えたものだ。


「周の歌が聞きたいなぁ」

「……っそれ、ずるい……。笑わないでよ……?」

「願ってる身で笑うか」


 顔を覆っていた周が恥ずかしげに口にした言葉を一蹴してから、ひかみは周の身体を担いで大木のひときわ太い枝葉へと駆け登った。周を枝葉に座らせて、再び願う。


「ほら。──聞かせて」


 少しの間もごもごと口を動かしていた周だったが、やがて小さく息を吸った。そして──


 迎える朝焼け

 色とりどりの鳥たち 

 雲に紛れ 

 空を動かす

 夜闇の王が 

 姿を隠す 

 舞う、瑞風みずかぜ

 長く永く 

 続くように


 長く永く

──花を贈ろう


「っ、わ……!」


 歌い終えたと同時に、不意に強く吹き上げた強風は、ひかみの意図したものではない。歌声に聞き惚れてぼんやりしながらも風に煽られぐらりと揺れた周の身体を反射で抱き寄せれば、首の組紐が風になびくのが目に止まった。色鮮やかな組紐は、けれど、そこにあるよりも。


「ひかみちゃん……?」


 組紐をするりとほどいて、短い髪の、耳の上辺りを一房つまんで結んでやる。


「──ん、似合ってるよ」


 組紐の先を指で遊びながら伝えれば、応えたのは小さな声だった。


「……髪」

「うん」

「伸ばせたら、いいな」

「伸ばせばいいだろ、好きに」


 親とはぐれた迷子のような、不安に揺れる瞳をする必要はないのだと教えたくて。細い身体を強く抱き込んだ。


「命が、脅かされる理由はお前にはない。生きていい。生きることを望んでいい」

「……」

「周。周、ともに生きよう」

「──っ!!」


 肩に触れた額が縦に動くのを認める。周の泣き声が治まるまで、ひかみは柔らかい風を吹かせ続けた。

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