第三章 天地の御使い①

「知りたいんだ、お前のこと」


 そう言ってやれば、ぽかんと瞬きを溢した表情が愛らしくて。まるで、食べてしまいたいくらい。


        *** 


──身体が、熱かった。

 吐く息も熱い。寝苦しくて、力の入らない手で襦袢を脱ぐ素振りをしたが誰かの手に阻まれる。


「あとで拭いてやるから、ちゃんと着てろ。風邪を引くぞ」


 軽く額が小突かれて思わず眉を寄せれば、小さく笑われた気配が落ちてきた。


「寝てろ。……ここにいるから」


 瞼は重くて開けられないけれど、頬をゆっくり撫でる指先の温度はなぜか心地よく馴染んで、よすがはその指にすがるように丸くなりながら意識を手放した。

──どれくらいの時間が経ったのか、柔らかく頬を叩かれて目が覚めた。横になったままぼんやりと瞳を開ければ、ひかみが顔を覗き込んでいた。


「──起きれるか? 少し水を飲もう」

「……」


 頷いたつもりだったが、挙動は小さかったらしい。上体を起こそうとしたが力が入らず、身動いだだけで終わった。

 無事でよかった。怪我はないの。きみはいったい、誰。

 そんな言葉が渦巻くが、渇いた喉は小さく息を吐いただけで音になることはなかった。


「無理か」


 ふむ、と小首を傾げたひかみは水の入った椀を手にすると、椀を傾け自身の口に水を含んだ。きみが飲むの……? えええ、と思わず半眼になってひかみを見つめていれば、背中に手が添えられてゆっくりと起こされた。

 前から思っていたが、この子は力が強い。この年頃の、この体格で考えられないくらいには。

 ひかみの立てた膝に身体を支えられたよすがは、頭をぐらつかせながらひかみを顔を見やった。そして、

 ふに、と唇に当たった感触に動きを止めた。


「……」


 重ねられたものがひかみの唇であると気づいたのは水が口内を潤してからで、「──!?」反射的に身体を引こうとしたよすがをひかみの指が諌める。


「──こら、ちゃんと飲め」

「ん、ぅ……」


 うなじに掛けられた手のひらがよすがの動きを阻んで、再び口づけられる。

 指の腹でうなじを叩かれ、促されるまま口を開けば水が喉を潤して身体から力が抜けた。何時間眠っていたのかはわからないが、全身が渇いていて一度水分を得てしまえばさらにと求めてしまう。

 よすががようやっと満足して口を離せば、笑ったひかみは自身の口元の水滴を拭った。


「ほら、まだ寝てろ。もうしばらくすれば、熱も下がる」

「……は、ぃ」


 どうにか頷いたよすがは、のろのろと布団の中へと逃げ込んだ。唇が酷く熱くて。

(……熱、上がったかも……)



 そんな時間を繰り返し、ようやく普通に起き上がることができるようになった。ひかみの顔がうまく見れないが当のひかみに気にしている様子はないので、年上の矜持で素知らぬ振りをする。


「──そんなとこあるの!? 知らなかった……龍神様、いた?」


 ひかみが四苦八苦しながら作ってくれた味の薄い粥をすすりながらひかみの話を聞いていたよすがから、大きな声が上がった。

 集落の境界近くとなればよすがが知らないのも無理はないが、まさか龍神そのものが、島に本当にいるなんて。伝承に倣って贄となる宿命を負うよすがだが、まさかその存在が本当のものであるなんて──。


「あぁ」

「!──話、した? 龍神様、そんなとこで何して」

「知らない。眠られているようだったが……そんな時間もなかったから」

「え。なんで」


 きょとんとして首を傾げたよすがの両頬が、左右に引っ張られる。


「いたい!」

「誰のためだ!? お前が死にかけていたからだろうが……!」

「ぅえ……え? あ、ごめ」


 思わず言い淀んだのは、まさか探し物──龍神──を差し置いてまで看病していてくれているとは知らなかったからだ。


「いいよ、僕が勝手にお前を優先しただけだから。──さっさと治せ」

「……うん」


 もごもごと匙を食むよすがの頬は赤かったがひかみにはその理由はわからずに、熱が上がったのなら寝かせなくてはと自身の作った粥の不味さに舌を出しながら考えていた。

──横になっていた時間が長く、少し身体を動かしたいからと洗い物を申し出れば、苦い表情をされたが最終的に許しが出た。ひかみの過保護さに苦笑いを溢しながら食器を洗っていれば、足元に座り込んだひかみが口を開いた。


「名前」

「ん?」

「名前は、なんだ」

「……ひか」

「僕のじゃない。お前の」


 思わず手を止めて子どもを見下ろせば、つり目がちの瞳がこちらを見つめていた。食いぎみに問われ、瞬きを繰り返したまま答えるが──


「え? あ、よすが……」

「違う。それは贄の通称だろう? 僕が聞いてるのはお前の名前だ」


 食器を拭く手が、一瞬止まる。なんて、なんて残酷なことを聞くのだろうと。思い出したくたって、思い出せないのだ。あの優しい声の人たちを思い出したいのに、叶わない。


「……覚えてない、よ」


 思い出せないのは、覚えていないのと、端から存在しないのと同じことだ。きっと、あの顔も思い出せない人たちもがっかりしていることだろう。布巾を握る指が震えていることに、ひかみは気がついているだろうか。過保護なくせに、意地の悪い。


「ちゃんと考えろ。よく思い出してみろ。お前の父が遺した噺が、言葉が、僕たちを救ったんだ。名前だって、きっとよく呼んでいたはずだ。お前の耳は、細胞は、心は、覚えているはずだ」


──たとえどんな奥底に、押し込められていようとも。


「っ、わかんないよ、私……」

「もう、よすがって言わないんだな。お前はよすがじゃないもんな──

「──……」


 まるで責められているように感じられて首を振れば、ひかみの口から出た『音』は『あまね』。何のことか理解出来ずによすがは動きを止めて、けれど心の臓が確かに高鳴ったのを知った。


「な、に……?」

「これに、そう書いてあった」


 そう言って懐をあさったひかみは、一枚の紙片を取り出した。二つ折りにされたそれは色褪せ、端が所々破れている。震える指で広ければ、そこには──

 色鉛筆で描かれた、家族の姿があった。


「……」


 男の人と、女の人。ふたりの間でそれぞれと手を繋ぐ少女の髪を結ぶ組紐は、それは、よすがが首に巻いているものと同じ色。

 知らず、首に触れる。記憶をなくしても、なぜかこの組紐だけは手放したくはなかった。その、理由。


『あまねはほんと、赤が好きだなぁ』

『ふふ』

『なに』

『桜さんが初めてくれた髪紐だからうれしいんですよねー? あまねー』

『……俺の嫁と娘はなんでこんな可愛いの?』


 す、とんと、よすが──否、周が膝を折った。ひかみに促され紙片を裏返せば、隅に小さく文字が記されていた。


あまね。私たちの可愛い娘の名』


 少し丸みを帯びた字は、寿喜の文字だ。母の性格を表すような絵柄も文字も、周は大好きで。


「……ぁ、うぁああ……ッ!!」


 途端せりあがってきたものがなんであるのかは、よくわからない。記憶と、名前と、感情と、心と、愛しさと、寂しさと、悲しみと、回帰の喜びと、それら全てがない交ぜになって、涙となって溢れ出した。よすがとなってから泣いたことなぞ一度もないのに、いや、だからこそか。

 ひとたびこぼれてしまえば止まらない。嗚咽を漏らしながら瞳を何度も拭う周の目尻に、ひかみが舌を押し当てる。


「泣いていいから、乱暴にこするな。腫れる」


 頬が濡れれば舌で拭って、しゃくりあげる呼吸がつらそうならば背中を撫でて。周の涙が止まるまで、ひかみがそのそばを離れることはなかった。



「……ひか、みちゃんは、雷獣、なの?」


──ひかみは、名前がきっかけとなったのか、いくらかの記憶を取り戻したらしい。曰く、地上に落ちた龍神を探しに来た、と。


「あ?」

「ガラが悪いなぁ……」


 泣き過ぎたせいで枯れた喉はつっかえたが、ひかみが戸棚から出した木苺をつまんで口に放ってくる。砂糖漬けにしようと思って残しておいた分だ。甘い果汁が舌に乗って、身体から力が抜けるような心持ちがした。

 決して寒い訳ではないけれど、薄い一枚の掛け布団を一緒に肩に羽織る。内緒話をするようにぴたりと寄り添っていれば、不機嫌そうに唇を尖らせたひかみに鼻をつままれた。


「……お前は何か? 龍神様のことを一旦放置してまでお前の介抱を優先させた僕を、お前の命を奪う存在だと? 言う訳か? そしてお前は自らの命を奪う存在を命懸けで助けたうつけ者だと自認する訳か?」

「そういう訳じゃ……」


 息苦しさにひかみの手をぺちりと叩いてから、周は眉を下げた。

 龍神伝説──かつて島の窮地を救った龍神へ、続く繁栄を願って行われる輪廻の贄。その贄を殺し龍神のいる天へと連れていくのは、お供が雷獣だと言われている。

「だいたい、それだとお前、怖いだろ」

 ひかみが雷獣なのだとしたら、その獣の爪で、『よすが』の首を裂くのだろうか。

 想像しようとして、うまくいかない。よすがを周に戻してくれたのは、他でもない、この子だから。──それでも、


「……ひかみちゃんが雷獣なら、怖くないよ」

それだけは心の底から、はっきりと言えた。

「いたっ」


 途端額を指先で弾かれ痛みで涙を浮かべれば、ぐいと袷合わせを強く引かれた。


「──死ぬことを考えるな。雷獣にも何にも、お前はやらない」

「……うん」


 こてん、と額を突き合わせて頷けば、ひかみは笑った。


「そも龍神様はお優しい方だ。生け贄なんて求めない。ひとの、勝手な信仰だ、そんなものは」


 忌々しげに呟いて、ひかみは洞窟がある方向へ視線をやった。


「──明日、龍神様のもとへ行こう。龍神様ならきっと、お知恵を貸してくださる」

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