第二章 古墨の獣が鳴いた夜 夜明けに見つけた互いの名③

 足音もなく、子どもがひとり夜道を駆けていた。結んだ後ろ髪が、動きに合わせて上下に揺れる。

(腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ……!)

 全身が夜闇に溶け込むような色合いの中で、両の瞳だけが苛烈な怒りを宿していた。

──幼子のように布団の中で小さく丸まって眠るよすがを思い、知らず舌を打つ。

 記憶がないことを怯えているくせに、それを隠す。隠して笑う。下手くそな、ぶさいくな笑い方。好ましい顔立ちをしていると思うのに──あの笑い方は駄目だ。


「くそ……」


 何を苛立っているのか、自身でもよくわからない。それでも足を止めることはなく、やがてたどり着いたのは田畑だった。

 朝の、あの塵どものにおいが蔓延する畑の先にはいくつもの民家が見える。だが、灯りのついている民家はない。みな寝静まっているのだろう。無理矢理に下ろされた、恣意的な夜の帳に従って。

(確かに、枯れてるな……)

 無遠慮に畑に踏み入った子どもは、名前もわからない植物の葉に触れる。途端、それはさりさりと指の熱で溶けて黒ずんだ汚れを残した。

 鼻を寄せれば、つんとした澱んだ臭いに鼻腔を刺激されて慌てて顔を逸らす。嫌そうに袂で指先を拭ってから、噎せながらも畑を後にした子どもは来た道を引き返した。


 やはり、おかしい。

 あの塵どもはよすがのせいだなんだと喚いていたが、ひとに、こんな真似が出来る訳がない。

 こんな──こんな、下りる夜と同じにおいを纏う黒色を、畑に撒き散らすことなんて。

──そもそも、この『夜』はなんだ?


 考えたところで知識のない子どもに答えが出せる訳でもなく、無事に夜が明けるのを待つしかないのだろう。何はともあれ、畑の害はよすがのせいでない。それが分かれば上々だった。

(あとは──)

 納屋に戻る前に、子どもにはもう一ヶ所行きたいところがあった。よすがのにおいが、一際色濃かった場所。

 たいした時間を掛けることもなく、そこには着いた。

 集落の外れにある、崩れかけた小さな家屋の残骸。

 災禍さいか、と言ってたか。確かによくよく見れば、九の字に曲がった戸など、建物は内側から壊されたような崩れ方をしていた。

「……」

 小さく息をひとつ吐いて、子どもは瓦礫の一片へと手を伸ばし──、


 その時、獣の唸りが低く響いた。


        ◆◆◆        


 よすがは眠りが浅い。それこそ寝入った直後以外は狸の足音で簡単に目を覚ますくらいには。だから、それに気づいたのは必然だろう。


「……あれ……?」


 起きたついでに水でも飲もうかと上体を起こして、何とはなしに隣に視線を落とし──、


「どこ行った……?」


 子どもの姿がないことに気づく。

 布団に触れてみれば体温の残りはなく、子どもが起き出してから時間が経っていることが知れた。

 探しに……いや、でも、嫌になって出て行ったのかもしれない、し。

 逡巡するよすがだったが、ふいにその鼻が拾った臭いは──澱んだ、腐りかけの墨の臭い。

──嫌な、予感がする。

 よすがは、外へと飛び出した。



 まんまるい月が、空にぽかりと穴を開けていた。まだ月が満ちるには幾日か早い、はずだ。何かがおかしいと叫ぶ心が、漠然とした意識に塗り潰される。


。──これは、夜だよ──。

。──これは、月だよ──。


 月明かりに煌々と照らされた地面には、黒ずんだ汚れがいくつも残されていた。納屋の周りをぐるりと回って、そこから道なりに向こうへと続いていく。

 まるで、何かを追って行ったかのように。

(まさか……あの子を……?)

 浮かんだ可能性に唇を戦慄かせたよすがは、黒ずみを頼りに走り出す。その道は、集落へ向かう方向だ。一瞬怯みかけた足を叱咤して、月明かりに満ちる山道を駆けて行く。

 そんな、よすがの耳に。

 脳髄に──月が囁く。

 夜が囁く。空が、森が、鳥が、虫が、よすがに囁く。


。──ひとは、深く深く眠っておしまい。獣が暴れる、夜だから──。


(なんだ、これ……?!)

 頭の中に木霊する、言葉。不可思議なのは、言葉の意味ははっきりと理解できるのに、声らしい声はなく、響きとして体内に浸透していくような。

 気を抜けば、言葉に従って意識を手放してしまいそうになる。力が抜けて崩れそうになる身体を、頭を振ってどうにか意識を保とうとするが、ゆるゆると足は止まった。

(……あの子、は、全然関係ないかもしれない、んだよなぁ)

 襲い来る眠気に思わず幹に身体を預けてしまえば、頭がこくりと揺れた。瞼も静かに下りてきて、視界が狭まる。崩れかけた膝は──

(──けど、関係あるかも、っしれないし)

 寸前、地面につくのを堪える。口の端からは、血が一筋垂れていた。咥内の鉄臭さに耐えきれずに唾液を吐き出して、よすがは痛みに因って覚めた眠気に舌を向けて、黒ずみを再度追い始める。

 よすがは子どものような短刀は持っていないから、舌を噛み切るくらいしかできなくて。

──あぁ、そういえば。あの短刀はなんだったのかを聞き忘れた。

(見つければ、聞ける)

 集落に、親元に戻ったと云うなら何の問題もないけれど、子どもの態度を鑑みるにそれはないような気がした。

 何にせよ、このまま生き別れるような真似は。せめて、子どもの無事な姿を一目、確認さえできれば。


「──離せ……っ!」


 集落との境目まであと少し。そんな時、よすがの耳に届いたのは、切羽詰まった子どもの怒号だった。


   

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