第二章 古墨の獣が鳴いた夜 夜明けに見つけた互いの名②
手拭いで顔を拭う。手桶の水に映る自身の顔はひどいもので、泣きすぎたその目は充血して目元が腫れていた。思わず苦笑ってしまえば、ふっと手元に影が差す。
「おい、大丈夫か?」
「っあ、うん、大丈夫!」
顔を上げればすぐ目の前に子どもがいて、その眉がきつく寄っていた。不機嫌、ではなくて、たぶん、心配。心配、をしてくれている。
(──あったかい、な……)
優しくて、暖かい子ども。いつもであれば、あの男たちに敵意を向けられたあとはしばらく震えて動けなくなるのだけど、今はそれがない。
怖いは怖かったから泣いてしまったけれど、家路に着く際子どもがずっと抱きしめてくれていたから落ち着いた。
(あぁぁ……なんてみっともない真似を……!)
赤くなる顔を隠すように両手で覆う。あぅあぅと小さく唸るのを見て、子どもが怪訝そうに首を傾げた。説明するほどの気概はよすがにはない。
頬の熱が引くのを待って、よすがは手桶を脇に寄せてから姿勢を正して子どもと向かい合った。
「──さっきはごめんな?……変なとこ、見せた」
「別にそれはいい。怪我はないな?」
「うん、おかげさまで。ありがとう、守ってくれて」
「……別に。というか、あいつらはなんなんだ? だいぶ塵に近かったが」
「ごみ……」
あまりの言い分に思わず絶句してしまうが、子どもに見せるにはあまりに乱暴な騒ぎであったし、一歩違えば子どもだって大怪我をしていた可能性もあったのだ。
そう吐き捨てたくなる気持ちは汲み取れる。小さくため息をついて、よすがは頬を掻いた。
「……ちょっと話があるんだけど」
「ああ」
「明日にでも、一緒に集落に行こう」
よすがのその提案を、急なものと感じたのだろう。子どもは不可解げに眉を寄せた。
「……集落? さっきのやつら、殴りにか?」
「違います!」
「じゃあなぜ? 僕に集落に行く用事はないし、よく知らんが、お前は行けないんじゃないのか?」
「あぁ、うん、よすがは集落には入れないけど。今後のこと考えると、集落の人にきみのことをお願いしておかないと無理があるから」
「今後?」
「……ごめん、よすがはあと少ししか一緒にいられないんだ」
言葉を反芻した子どもから、思わず視線を逸らす。
子どもは集落には行きたがらないけれど、嫌がっていたとしても本当なら昨日の時点で連れて行くべきだったのだ。村人に見られてしまった今、最早言い訳はきかない。子どももその家族も責められてしまう──よすがと共にいたせいで。
「……」
ぎゅうと、拳を握る。
自身の置かれている立場は、重々承知していたつもりだったのに。
例えば子どもに集落に帰りたくない理由があったとしても、よすがと一緒にいるところを見られるのはいけなかった。
──あと数日で、よすがはいなくなる。
だから、その間にどうにか言い含めて集落に帰そうと思っていたのだ。言い訳になってしまうけれど。
誰もいない納屋に、子どもひとりを置いてはいけない。双子にはもうずっと前からそれは伝えていて、初めて会った時を思えば心配はあったがどうやら帰る場所はあるようだった。安心する。あとは、子どもを親元に返せば。
「は? なんだ、島の外にでも行くのか?」
(外へなんて、行けないよ)
一度この島に足を踏み入れてしまえば、逃れることはできない。今まで島民の誰ひとりとして、島の外に出た者はいないと云う。だから、よすがは小さく笑っただけで。
「外には行かないよ。──けど、よすがは蟲祭りの夜に龍神様の
ぱちりと大きな瞳を瞬かせた子どもへと、よすがはゆっくりと言葉を選びながら、告げ知らせた。
よすがのこと。
島のこと。
儀式のこと、を。
──
大海にぽつりと浮かぶ孤島。故に、本陸の人間は竜葵島について知っていることは少ないだろう。護り神の龍神のことも、
よすがはこの島で育った──らしい──けれど、生まれは本島だそうだ。両親が本島の人間で、本島で生まれたよすがを連れて海割れの晩に移住した、のだろう。
(……どうして)
竜葵島は、龍神の加護があるとはるか昔から言い伝えられていた。荒れ狂う海流から村人を護り、島は龍を形作る。
『龍神様』
『龍神様』
──日照りが続けば、雨を願って花を捧げて。
──雨が続けば、陽光を望んで果物を捧げて。
村人たちは龍神を敬って、龍神もまた村人たちを愛して、竜葵島の時間は穏やかに流れていたと云う。
けれど、ある時。
ひどい豪雨が島を襲った。花は枯れ、果物は萎れ、人々からは笑顔が消えた。
このままではもう、死を待つのみ。そんな絶望の中で、立ち上がったのは当代の
『私たちに、捧げられるものは、もう、これしか』
村長は自分の子らを龍神に捧げ──その晩に雷獣が吼え、斯くして願いは聞き入れられた。
……それから、長い長い時が流れた今も。
竜葵島は、十数年に一度、島の子どもを龍神へと捧げている。捧げ続けている。
──捧げられる子どもは、龍神の子どもになると伝えられている。神の一柱にその身を連ねるのだ、失礼は許されない。だからこそ、ひとであった時のすべての縁を切る必要があるとされていた。
贄に選ばれた子どもは、親との縁を切るために最初に名前を捨てられ、性別に関係なく『よすが』と呼ばれるようになる。
そして禁足地でひとり、蟲祭りの夜に行われる縁の儀を待つのだ。
子どもが、瞬きをひとつこぼした。納屋の中に、沈黙が下りる。
「……」
話す、つもりはなかった。けれど、話さないとこの子どもはきっと納得しないから。
よすがのすべてを話すのは、憚られた。子どもに、縁の儀の存在を知らせていない親もいるであろうから、記憶のない子どもに勝手に教えてしまうのがいいこととは思えなかった。
けれど、あの様子を見られてしまえば言い逃れも出来ずに。
聡明で、利発な子だ。理解はできるはず。
「お前は、──それでいいのか」
やがて、静寂を破ったのは子どもの声だった。
まだ声変わりをする年齢ではないと思うのだが、年の割には子どもの声は硬質なものだ。それが今、さらに硬いものとなって。
……嗚呼、やはり頭のいい子どもだ。よすがの話の意味をきちんと理解している。数日後によすがが死ぬこと、を、理解している。よすがは苦笑った。
「そういうお役目だから。それに、あんまり覚えてないんだ。自分のこととか、親のこととか。死んじゃったのはなんとなく覚えてるけど。まぁ、だから、別に」
「何の意味もなく、死ぬのか? あんな、ごみ屑みたいな扱いを受けたまま?」
「……あんまり、意地の悪い言い方しないでくれ。それに、意味はあるよ。龍神様に、この島が護ってもらえる」
一瞬。ほんの一瞬、子どもの表情が強張った。あまりに刹那的なそれに子ども自身気づくことがなく、伏し目がちのよすがも見逃してしまう。
「この島とお前の命が、同じ重みか?」
「……壮大」
「ちゃかすな」
「ちゃかしてないよ」
言い切るけれど、眉をひそめた子どもは納得しない。
「──記憶がないことをどうでもいいとするのなら、なぜ、僕の記憶を戻そうとする?」
「……きみはこれからも生きるんだから、困るだろ? それに、記憶がないなんて、怖いでしょ」
「怖がってるのはお前だろう?」
被せるように言われ、一瞬言葉に詰まってしまったのはよすがの弱さだ。唇を噛んでから吐き出した言葉は早口で、動揺が浮いていた。それでも、よすがは笑う。
「……よすがは、怖くないよ。記憶なんて、もうあっても意味がないから。日常生活には困らないし、どうせ儀式まであと数日だから。思い出したところで意味ないよ」
『今までの名は捨てろ。お前はよすがだ。異論は認めん。すべて捨てろ──お前につながる縁は、この世にない』
村長に言われた、それがこの身の全てだ。
今までのよすがと違い、捨てる以前に全て忘れ去っているのだけど。それは果たして、幸か不幸か。
よすがに記憶がないのは、両親が
両親の何がひとの世の理に触れたのかもよすがに知る由はないけれど、災禍に飲まれた両親の遺体は欠片一片すら残らず、誰の記憶からもその存在は消え失せる。生きた証は、残らない。
──笑う、しかないのだ、よすがは。帰る家も、待つ家族も、行く場所もないよすがは。
「──禁足地にいられるのは、安心するんだ。よすがはここから出られないけど、他の人もここには来ないから」
よすがの名を与えられ禁足地に放り込まれてから、たまにその境界が分からずによすがは外へと出てしまったことがあった。
運悪く見つかれば待っているのは折檻で、だからこの数ヶ月でよすがの行動範囲は驚く程狭くなった。双子がいなければ、おそらく納屋の外に出る機会はもっと少なかったことだろう。
「……話はこれでおしまい。ほら、もう寝よう! 明日は、集落に行ってみような。どうにか
空気を変えるように明るく笑って、よすがは立ち上がった。
「おい、まだ話は終わっ──」
不満を湛えて声を上げた子どもだったが、ちゃぶ台をよけて端に寄せていた布団を抱えたよすがを見て、思わず口をつぐんだ。
訝しげに首を傾げ、何とはなしに外を見る。開けたままの戸の向こう、は暗く、て。
「──ちょっと待て。なんでもう、空が暗い?」
「……? もう夜だから」
「何を言ってる? 昨日の今くらいは、まだ昼飯も食ってない時間だろ?」
戸惑って、よすがは首を傾けた。
「夕ご飯、足りなかった?」
「……まだ朝しか食ってないだろ」
唸るように頭を抱える子どもを見て、よすがは戸を閉めながらも眉を下げた。
──会話が噛み合わない。どうしたものか……。
だって、今は夜だ。朝が来て、子どもと一緒に外に出て、怒鳴られて。それからすぐにここに戻って、子どもと話して。話していて──、
(あれ……いつの間に、夜、に)
そわりと、背筋が震えた気がした。けれどすぐその寒気も霧散して、よすがは「お夜食に何か食べる?」と子どもへ問いかけた。数瞬前に何を考えていたのか、沸いた疑問さえ忘れて──それはまるで、不自然な程。
「……いや、いい。僕の勘違いだった」
深い黒曜色の瞳がじっとよすがを見つめた後に、ややあってふるりと首を横に振った。
「え? あぁ、うん、そう?」
ここにあるのは、薄い煎餅布団がたった一組。昨夜、さすがに一緒に眠るのは気が引けたから布団を子どもに譲って床に直に横になれば、怒った子どもに布団の中へと引っ張られた。
同じ問答を繰り返すのも馬鹿らしくて、
「……おやすみ」
──返事は、なかった。
……怒っちゃったかな。
薄暗闇の中で子どもの小さな背中を見つめ、内心で深く息を吐く。
仕方ない、けど──寂しい、なんて。
知らず伸ばしかけた指先は、子どもに触れる寸前止まる。
よすがの指先は初夏の今でも少し冷たくて、だから布越しと云っても、触れたら子どもは驚いてしまうだろう。
優しい子どもだ。聡明で、勇敢で。暖かい、子ども。よすがにすら優しくしてくれる──だから、だからこそ。
(これ以上一緒にいたら、だめになる)
腕を引いて、布団の隅で丸くなって、固くきつく指を閉じる。
間違っても、手を伸ばしてしまわないように。
──顔も声も覚えていない両親と呼ばれる人たちにもう一度会えるなら、聞いてみたいことがあった。知らなかった、それ以外の答えなどないと知りながら。
(どうして、)
(──どうして、この島を選んだの)
仮初めの夜が、ひっそりと更けていく。
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