第二章 古墨の獣が鳴いた夜 夜明けに見つけた互いの名①

 禁足地故によすがと子どもが出会ったことなど集落の誰も知らない、その翌日。

 鍬を担いで畑へとやってきた男たちはしかし──すぐに、その目を瞠った。


「な、んだ……これは」


 視線の先、昨日までは順調に育っていた芋や葱の葉が黒ずんでいるのが一目で知れた。

 船の行き来の難しい竜葵島いぬほおずきじまは他所から物資を得るのがほぼほぼ不可能に近く、作物が病気に罹れば死活問題となる。

 思わず鍬を放り出して慌てて畑へと駆け寄ったふたりは黒く染まる葉の一枚を乱暴にむしり、裏返した。黒ずんでいるのは畑の一部だ、虫が原因なら急いで取り除けば間に合う──けれど。


「……腐ってるのか?」

「いや……なんだこれ、溶けるぞ……?」


 男の眉が、困惑に寄った。葉の裏に虫の姿は見えない。それどころか、

 指先の熱が伝播したように、葉は滓だけを僅かばかり残して指の腹を黒く汚す。まるで、固形墨を握った時のような。


「今まで、こんな状態になったことないだろ」


 自身の指先を見つめながら、舌を打った。


──なんだ、これは……?

──おかしい、普通じゃない。

──ならば。

──普通じゃない。それならば。

──これは、


「……よすがのせいじゃあ、ないだろうな?」


 ぐるりと首を回して振り返ったその目に映るのは、禁足地の山裾。

 どろりと、男たちの纏う空気が静かに濁った。


        ◆◆◆        


「──なぁ、探すって言ってたけど具体的にどこを探すつもりなんだ?」


 朝餉を終えたよすがは、子どもと連れ立って薄紅染うすべにぞめの湖へと向かっていた。

 誰に頼まれた訳でもない墓参りはいつもならば朝餉前に済ませる日課だったが、眠る子どもがいる以上置いて行く訳にもいかない。常よりものんびりと起床して朝餉の準備をしたが、どうやら木犀もくせい柘榴ざくろは今日は来ないようだ。


「昨日歩いていない場所を見てみたい。──そっちの道からは行けないのか?」


 納屋を出て、辺りを見回した子どもはついと左側の道を指差した。右に進めば川があって、その川を越えてしばらくすると薄紅染の湖がある。左手に歩いても道は繋がっているが──


「あー……うん、そこの道からでも行けるよ。ただ、集落の近く通って行くから遠回りになるけど」

「集落に入る訳ではないんだな? なら行こう」


 心得たとばかりに意気揚々と歩き出した子どもの背を伏し目がちに見つめていたよすがだったが、ややあって子どもに追いつくために走り出した。

 距離が空いてしまったが、子どもの歩幅はたかが知れているのですぐに隣に並ぶことが出来たから歩調を緩める。


「……探し物、やっぱり何かわからないの?」

「ん」


 こくりと頷いた子どもの髪は今日も高い位置で結ばれている。よすがの組紐は返してもらって自身の首に巻いたから、今子どもの髪を結んでいるのは引き出しを漁って見つけた赤橙色の髪紐だった。

 男の子だし嫌がるだろうかとも一瞬思ったが、不満の声が上がることはなかった。思えばよすがの組紐は深紅だし、髪が括れれば色の是非は問わないのだろう。

 道を進みながら、子どもは目に映っては気になったものの名を聞いてきた。


「あれはなんだ?」

「これはなんだ?」


 忘れてしまっているのか、幼さ故に端からまだ知らないのか。よすがに判断はつかないけれど、その疑問のひとつひとつに丁寧に答えていった。日々を重ねて子どもが大きくなってふとした瞬間に、植物を、小鳥を、虫を見た時にその名前をてらいなく思い出せるように。

 まだ幼い子どもはいつかよすがを忘れるだろうけれど、今日見た景色はきっと僅かばかり心に残るだろうから。

(……よすがは誰に、教えてもらったんだっけ?)

 這う枝葉の名、囀ずる小鳥の名、綺麗な羽を持つ虫──誰に。教えてくれた言葉は覚えているけれど、その声も、その顔も、よすがはもう覚えていない。


「ここは──随分崩れてるな。土砂にでも巻き込まれたのか?」


 子どもは不意に足を止めると、ある一点を見つめて首を傾げた。その目線の先には、崩れかけた小さな家屋がひとつ。


「!……うん、たぶんそうなんじゃないかな。ほら、早く行こう?」


 よすがは一瞬表情を強張らせたが、すぐにふにゃりと曖昧に笑った。そのまま子どもの腕を引いて歩き出すが、子どもは立ち止まったままくん、と、微かに鼻を揺らした。瞬きを、ひとつ。


「なぁ、ここからお前の──、」


 何かを言いかけた子どもの言葉は、半端に途切れた。

 脳を揺らすような怒号が、響く。


「──よすが!!」


 びくりと、よすがの肩が大きく跳ねた。青ざめ、俯いたまま顔が上がらないよすがを不思議そうに見つめた子どもがやおら振り返ると、足音も荒くふたりの男が肩を怒らせてよすがを睨んでいた。


「お前、よすがとしての責務は果たしているのか? まさか禁足地から出たんじゃないだろうな!?」

「畑の野菜が黒く枯れ始めてるんだ、今までこんな事はなかった。お前が原因なんじゃないのか?」


 視線が上げられないまま、けれど、怒鳴り声が近くなったことから彼らが近づいて来ていると知れた。自分でも気がつかないまま反射的に一歩後ずさった時、乱暴に腕が掴まれる。

 とっさに顔を上げれば、無精髭を生やした男と、右目の上に傷が走る男がいた。


 あの日。

 何があったのかももうよく分からない、あの、日。それまでの記憶を喪った日に、村長の元までよすがを引っ張っていったふたり。

 よすがをとても、嫌っているふたり。石を投げられたことも、殴られたこともある。──怖い。


「……ぁ」


 よすがは背が高くない。見下ろされ、その二対の双眸に浮かぶ怒りと疑惑の色に身がすくんだ。


「黙ってないでなんとか言えよ!」


 掴まれた腕が捻り上げられて、よすがは悲鳴を飲み込んだ。前に殴られた時余計な声を出すなと言われたのを、寸前思い出したから。


「ッ……、なんのはなし、を」


 どうにか絞り出した声は震えて、語尾は掠れて消えた。合わない視線が更に男たちの苛立ちを煽り、それを感じ取ったよすがの喉がひゅ、と音を立てて狭まる。

(こわい、こわい、いたい、やだ、くるしい、こわい、)

 涙が滲むのは、苦しさ故か恐怖故か。

 景色は歪むけれど涙を拭うことすら許されず、どうせ助けてくれる者もない。ならば、諦めた方が早い。おとなしく殴られた方が、この時間はたぶん早く終わる。

 だから早く(こわい、)

 早く終われ(誰かたすけて、)

 祈りながら、よすががきつく瞳を閉じたその時──


「──手を離せ」


 低く、唸るような声が耳に届いた。次いで、男の短い呻き声がして腕の圧迫感が消える。それまでの痛みを上書きするように手首に触れた、熱が優しくあったかくて。よすがはゆっくりと瞼を上げた。


「……ぁ」


──子ども。下げた視線の先、まるでよすがを背に庇うように、男たちとよすがの間に子どもの姿があった。

 言葉の出ないよすがを責めるでもなく、子どもは今も身体の震えの止まらないよすがの腕を優しく握ってくれている──その、温もりが。

(……たすけて、くれた……?)

 数瞬遅れて、ようやっとその理解が追いついた。

 よすがを守ろうとしてくれている、仕草、に。


「……──っ、!」


 盛り上がった涙が一筋、吹いた風に促されるようにこぼれて頬を伝う。

 拭う余裕もなく子どもの着物を指先がぎゅうと握りしめたのは、無自覚だ。暖かいこの子から離れたくないと、身体の中心の何かが叫んで。


「くっそ、なんなんだよ……!──あ? ガキ……?」

「どこの家の子だ? なぜ禁足地にいる? お前が連れ出したのか!? そのせいか……!?」


 腕を捻り上げられた男は痛みに呻いていたが、子どもの姿を認め目に見えて色めき立った。

 彼らからしてみれば、異常な畑の原因がよすがにあることがわかったのだ、よすがにわからせなければいけない。村長に、それを命じられている。

──正さなくては。この島のために。

男たちを奮い起たせるのは、だだその意識のみ。

 開かれた口は、次々とよすがに口汚く言葉をぶつけた。


 曰く。

──禁足地にはよすが以外が存在してはいけない!

──よすがは贄だ、贄はよすがだ!

──役目を果たせ、今までの子どもたちだって立派に役目を果たした!

──贄は、よすがは、ひとりきり!

──世界の全てと縁を切れ!


 言葉が、態度が、勢いづく男たちは気づかない。

 震えるよすがに。

 冷めた目つきの子どもの視線に。

 一切の鳥や虫の鳴き声がぴたりと止んで──不自然な程、凪いでいることに。


「一緒に来い──!!」


 もう一度、男たちがその腕をよすがに伸ばした。

(怖い、けど、この子を逃がさないと)

 よすがはその一心で、子どもから手を離そうとした。このままよすがを庇っていれば、子どもとその家族の罰が重くなる。


「こ、の子は関係な、」

「いい、握っていろ」

「……っ」


 ぶっきらぼうな、けれど確かによすがを気遣う言葉に呼吸が詰まる。唇が震えた。

──嗚呼。どこまでも、この子どもは優しい。


「聞いているのか、よすが!!」


 子どもの背から出てこようとしないよすがに苛立った男が更に声を荒げた。舌打ちをしながら子どもを力ずくで退けようとその肩に手を置こうとするが──


「──おい、そろそろ黙れ。誰だか知らないが、それ以上の手出しは許さんぞ」

「……ッひ、!」


 それは、叶わない。

──短刀が、男の喉元に突きつけられていた。握っているのは、子どもだ。小さなその手に不釣り合いな、鈍色の刃が日差しを反射する。


「え、?」


 どこから、そんな物騒な物を。

 納屋にはそんな物は置いていない。刃物なぞ、刃の欠けた包丁がひとつばかり。湖に落ちた子どもを拾って介抱した時だって、短刀なぞ見当たらなかったはずだ。

 しかし困惑するよすがの思考は、男の上げた悲鳴に因って中断された。

 見れば、子どもを止めようとしたのだろう、傷のある男が地面に伏していた。その項を子どもの靴が踏み押さえていて、じたばたと暴れるが立ち上がることが出来ないらしい。

 その間も、短刀は変わらず男の首に突きつけられているままだ。子どもは表情を変えることもなく、短刀をぐっと押した。呻く男の首に血が滲むのが見えて、よすがは思わず子どもの腕を引く。


「あ……っ、だめ!」

「──握っていていいから引っ張るな。危ないからおとなしくしていろ」

「ッやめて!……大丈夫だから」


 無我夢中で子どもの首もとにしがみつけば、数秒身動ぐような気配があったが、やがて子どもが身体の力を抜いたのが伝わってきた。


「……おい、早く僕の前から去れ」


 仕方なく、といった風情で子どもが短刀を引いた。次いで足を上げて、倒れ伏す男の身体を蹴って仰向けに転がす。

 しかし、何が起こったのが理解の追いつかない男たちは放心したままに子どもを見上げた。子どもはその様子に、苛立ったように瞳を眇める。


「死にたいのか? 慈悲は一度だぞ」

「ひ……っ!」


 その双眸の感情の無さはまるで、獣のそれだった。いつだって喉元に食らいつける牙を持ちながら、見逃してやるのはただの気まぐれなのだと告げている。


「……ぅ、っぁあああ!!」


 震える足を叱咤して、男たちは我先にと駆け出した。その後ろ姿を追いたてるように、暴れ風が木々を揺らす。

──世界に、音が戻った。

 やがてその汚い足音が遠ざかり完全に止んだ頃、子どもは未だしがみついたままのよすがを見上げた。


「お前な! なんで止め、た……」


 思わず荒げかけた言葉は、半端に途切れる。

 ぐず、と洩れる嗚咽と僅かばかりに濡れる肩の冷たさに気づいてしまえば頭は冷えて、子どもの口から出るのはため息ばかりだった。


    

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