第一章 雷の向かう先⑤

「はたらかざるものくうべからず」

「子どもはそんなの気にしなくていいんだよ」


 大きめの手桶は、よすがならともかく他の幼子たちがひとりで持つには不釣り合いだ。魚と水が入った分余計に重くなったそれを持つことを申し出たが双子に断られ、えっちらおっちらふたり仲良く手桶を運ぶ背中を見つめる。

 子どもは万が一手桶から魚が跳ねた時に捕まえる役を仰せつかったようで、回りをうろちょろと歩いては手桶の中を覗き込んでいた。

 納屋に魚を置いてからは籠を抱えて山へと戻り、いくつかの山菜と木苺を採る。

 夏は食べる物が多くて有り難い。

 木苺を摘まんで子どもが小首を傾げているから「食べていいよ」と笑えば、案外思い切りよく自身の口へと放り込んでみせた。数度咀嚼したかと思えば──ぶわりとその全身が跳ねる。


「……え、大丈夫!?」

「……はゎ」

「あ、美味しかった……?」

「……ん」


 こくりと、ゆっくり頷いた様はまるでぶりきのおもちゃのようで、その奥では柘榴ざくろ木犀もくせいが木苺を互いの唇に寄せていた。

 穏やかな、時間。

 よすがに絵の心得でもあったなら、いくつでもきっと描きたいと思えるような。


「──ほら、そろそろ帰ろうか。お腹も空いたろう?」

「はーい」


 有り得はしない空想に睫毛を震わせ、よすがは小さく息を吐いた。

 そうしてから掛けた声に双子は素直に籠を抱えて立ち上がったが、子どもは木苺の茂みの前でしゃがみ込んだままだ。

 ぱくぱくと木苺を無心に咀嚼しているから、苦笑いをこぼして目線を合わせる。


「もう、行こう。残りは帰ってから食べような」

「……? なんだ、泣いたか?」


 ようやっと咀嚼を止めた子どもはよすがを振り仰ぎ、頭上の髪紐──髪がまとまって動くのに楽なのか、気に入った様子だ──を揺らしながら首を傾げた。


「え」

「目でも痛めたか?」

「……そんなとこ」


 泣いた覚えはないけれど、わざわざ否定する程のものでもない。曖昧に笑ったよすがは瞳を細めたまま、子どもの手のひらに乗る木苺を一粒拝借して、喉を鳴らした。

──そのあとは寄り道をすることもなく、家路を急ぐ。木苺の生っている場所が少し離れているから昼餉の時間を少し過ぎてしまっていた。

 くぅくぅと腹がなっているのはよすがを含めて全員で、納屋の端、狭い厨で支度をしている間幼子たちにはおとなしく座っていてもらう。

 刃物を使っている時はさすがに手伝いはさせられない。言葉は無くとも急かす腹の音に苦笑いながら手を動かして、ようやっと卓に並んだのは火を通し過ぎたせいでほんのり焦げくさい鮎の塩焼きと山菜の佃煮。

 欠けた土鍋で炊いた米が炊き上がるのを待って蓋を開ければ、上がった湯気に歓声があがる。


「おいしそー……」


 柘榴が両頬を押さえながらうっとりと囁いた。瞳が輝いている。木犀は匙を握りながら口元を弛め、よすがをじっと見つめていた。


「おまたせ。さぁ、食べよっか。──いただきます」

「いただきます!!」

「……? ます」


 簡素な卓袱台は小さいが、まぁ幼子ばかりなので四人で座れないこともない。


「ちょっと、ちゃんと言いなさいよ!」

「何を?」

「いただきます!」

「それはなんだ」

「ごはん食べられてうれしいねー、ありがとうねーって意味!」

「へぇ……誰に感謝してるんだそれは」

「作ってくれたよすがにでしょ!?」

「じゃあ本人にありがとうと言うべきなんじゃないのか?」

「言ってるよ、いつも!」

「こらこら、喧嘩しないでくれ。柘榴ちゃん、口に物入れて喋るのはやめような?」

「はーい」


 素直に頷いた柘榴の袂が卓上に掛かりかけ、慌てて袖口をまとめてやる。


「きみも、いただきますはごはんを食べる前の挨拶なんだよ」


──あなたの命を、奪います。

私の命にさせていただきます。

決して無駄にせず、懸命に生きるから、どうか、私の命になってください。


「……私の、命に」

「そ。だから残しちゃだめだよ」


 子どもは箸が使えるようだった。突き匙を握っている柘榴の隣で、魚の身を摘まんで口に運び、ゆっくりと嚥下する。


「わかった、残さない」

「いい子だね、でも無理はしなくていいよ。きみは身体も小さいからまだたくさんは食べられないだろ」

「……」


 瞬間。ひくり、と、子どものこめかみがひきつった。

(あ。余計なこと言ったかも)

 よすがが思わず口を押さえればちろりと子どもにきつい目線を向けられたが何も言われることはなく、それでもあからさまに箸捌きが早くなる。一口の量も増えた。

 喉に詰まらせた時のためにも子どもに宛がった椀に多めに茶を追加しておく。

 双子も子どもも年の割には礼儀を弁えているから食事時に走り回ったりはせず、昼餉は穏やかに過ぎていく。ほぐした魚の身を木犀の口元に運んでやれば、素直に開けられる口が愛らしい。すぐ隣では柘榴が口を開けて順番待ちの姿勢をしていて、雛鳥のようである。


「美味しかった……」


 そんなことを繰り返していれば、胃袋のまだ小さな双子は早々に満足したらしい。お腹をさすって満足げに口元をゆるませている。


「そう、よかった。今日は歩いて疲れたろ? 少し眠る?」

「んぅ……」

「でも、木苺……」

「起きたら食べればいいよ。寝てる間に砂糖に漬けておくから、持って帰ればいい」

「やった、ぁ……」


 言い終わるが早いが、木犀と柘榴は瞼を閉じてぱたりと寝転んだ。脇に畳んでおいた毛布を手繰り寄せて、向かい合わせに丸くなって寝息を立てる双子の腹に掛けてやる。

 双子の寝息と、名も知らぬ小鳥の鳴き声。それは、いつものことだ。双子はいつも、ごはんを食べたら眠ってしまうから。その寝顔を眺めながらの食事は好きだが、ほんの少し物足りない。ひとりになってしまえばなんだか味気なくて、咀嚼もおざなりになる。

──けれど。


「僕はそのままで食べたい」

「……ぇ、あ、っ木苺? あぁ、うん、わかった」


 一瞬、反応が遅れた。決して、子どもの存在を忘れていた訳ではなかったのだけど。


「さとう? は、なんだ? 漬けるとどうなる?」

「……水分が出るから、柔らかくなるんだ。それに、すごく甘くなるよ」

「この状態からか!?……そっちも食べる」

「焦らなくても砂糖漬けはちょっと時間かかるから、ごはんはゆっくり食べて……!」

「ぅ、ッぐ」

「だから言ってるのに……! ほら、お茶飲んで!」


 俄に騒がしくなった食卓だったが、幸いにも木犀と柘榴が起きることはなかった。子どもの背中を擦りながら、健やかに続く寝息に安堵する。

 それから少しして、子どもの食事が終わり、よすがの食事が終わった。食器をまとめて立ち上がったよすがの背に、子どもの声が掛けられる。振り返ったと同時に、


「──美味かった。ありがとう」


 そう、下げられた頭を見た瞬間に沸き上がった感覚は、なんなのだろう。渇いた細胞が、濡れるみたいな。


「ど、う……いたしまして」


 だから、声が思わず震えた。じわりと、肌が濡れる感覚に気を取られていたから。

──小鳥の賑やかなさえずりが、そんなよすがの耳をつく。

 つつ、ぴい

 つ、ぴぃ

(あぁ、この、小鳥の名前は)

──四十雀しじゅうから、だ。誰かにそう、教わった。

 不意に浮かんだその響きは、自分でも驚く程にひどく耳に馴染んで。

 首の組紐を撫でながら、知らず、よすがは口元を緩ませた。紅がさされた、その目元が赤らんでいる。


「……。?」


 花笑んだよすがに一瞬息を飲んだ子どもは──揺れた鼓動に首を傾げて、自身の胸を小さく叩いた。

 心の臓、が、飛び出してきたら困ってしまう。



 結局、陽が沈む直前まで仲良く眠っていた双子は夕焼けを背によすがのもとを後にした。その手には、木苺の砂糖漬けがたっぷりと詰められた瓶がしっかと握られていた。


「木苺の残りは乾燥して戸棚に置いておくから、自由に食べていいよ。じゃあ、気をつけてお帰り」


 よすがのその言葉に大きく頷いて笑みをこぼす木犀と柘榴の姿が見えなくなるまで見送って、今はよすがは鮎の腹を開いて臓物を抜き一夜干しを作っている最中だ。干物にすれば日持ちする。

 子どもは横に座ってよすがの手元を覗き込みながら、時々鮎の口をつついていた。


「……あのふたりは、家族じゃないのか? 一緒に住んでるんじゃないんだな」

「木犀くんと柘榴ちゃんは兄妹だけど、よすがは違うよ。本当はよすがに関わったらいけないから来ちゃ駄目なんだけど、聞いてくれなくて」


──木犀と柘榴と初めて会った時のことを思い出す。

 腹を空かせていたのだろう、まるで獣のように草陰からこちらを見つめて、よすがが近づけば威嚇のために木犀が声にならない声を上げた。背中に柘榴を庇いながら唸る姿は痛ましさすら感じられる程だった。

 そのふたりが今や食べたい物を主張して、美味しいと笑うのだ。自身に関わることがいいことの訳はないけれど、その可愛さに結局ずるずるとここまできてしまった。


「なぜ?」


 子どもが、小首を傾げた。



 それは集落での不文律であり、理由は知らずとも幼い子ですら言い聞かせられていることだ。それすら忘れてしまっている子どもを、早く親元に帰してやらなくては。


「あー……よすがは、集落の人と関わっちゃ駄目な決まりなんだ」

「だから、なぜ?」


 視線を揺らしながら思わず言葉を濁したよすがだったが、それは子どもの疑問には応えられていなかった。わずかに逡巡したあと、よすがはずるいと理解しつつも誤魔化すことを選んだ。


「──ッなんででも! ほら、これ以上暗くなる前にお風呂入って!」

「ぁ、おい……!」


 手拭いで指の生臭さを拭き取ってから子どもを小脇に抱えて立ち上がる。

 生憎と納屋内に風呂はないが、納屋のすぐ後ろに小さな池があり、そこは季節問わず温かな水温だった。たまに山の動物が浸かっていたりして、仲良くさせてもらっている。


「百数え終わるまで出ちゃ駄目だよ」


 池の脇に子どもを下ろすと、何かあったら大声を上げろと言い含める。

 唇を尖らせて眉を寄せたままの子どもは無言のままおもむろに着物を脱ぎ捨て始めるから、よすがは慌ててその場を後にした。



「おかえり。ちゃんと百数えた?」

「ん」


 立て付けの悪い戸ががたがたと開く音に顔を上げる。


「こっちおいで。髪拭いてあげるから」


 厚手の布巾を棚から出しながら手招けば、子どもが瞬いてから視線を落とした。自身の髪の先から垂れる雫がぼたぼたと床板を濡らしているのを見つめていたかと思えば──犬のように頭を振るう。


「ちょっと!? 振らなくていいから、そのままで大丈夫だからこっちおいで」

「濡れるぞ」

「雨漏りもする場所だから、別にいいよ」


 再度おいでと手招けばようやっと子どもはよすがの元へと来て、そのまま正面へと座った。


「……」


 真っ直ぐに向かい合った状態に苦笑ってから、よすがは子どもの肩に手を置いて背中がこちらに向くように体勢を変えさせた。


「髪乾かす時はこっち向きになってくれるとやりやすいかな」

「わかった」


 こくりと頷いた子どもの様子に、よすがは内心で安堵の息を吐いた。湯浴みを終えてその機嫌が回復したらしい、先の話題を思い出してくれるなと願いながら布巾で髪を拭い始める。

 腰まである長い髪は艶やかで、癖がない。歯の欠けた櫛で透くのが申し訳なくなる程だ、布巾が水を吸って重くなるのに比例して子どもの髪は軽くなっていく。自身は項が出る程の短さで、しかも癖っ毛だから、なんだか見ていて楽しいものがあった。


「痛くない?」

「大丈夫だ」


 使いふるした布巾でも絡まない髪に半ば感動を覚えながら問えば、子どもは視線だけで振り返ってこちらを見上げた。


「──川と、今日歩いた山の辺りにはいなかった」


 それが、今朝彼が言っていた『探しもの』を差しているのだと、数瞬遅れて気がつく。


「あ、ちゃんと探してたんだ。よかった……」

「当たり前だろ」


 子どもは呆れたような声音で言い切るが、よすがの目から見れば今日の子どもは双子と一緒に川ではしゃぎ木苺に舌鼓を打っていただけのように思えた。年相応でいいのだけれど。


「明日また、探す」

「集落は?」

「集落はいい」


 にべもない子どもの返答に、よすがは思わずため息をついた。


「集落に行けば、きっと親御さんがいるよ?」

「しつこい」


──記憶がないというのに、なぜ集落に行くのを嫌がるのだろう。何か、嫌な思い出でもあるのだろうか。

(だとしたら……あんまり、無理矢理に連れて行くのはよくないかな)

 子どもの性格からして、強制しすぎれば反発もその分強くなりそうだ。


「髪は終わったか? 結ぶか?」

「もう眠るだけだから結ばないよ。うつ伏せで寝たくないだろ?」

「ならお前もさっさと湯を浴びてこい」


 話は終わりだとばかりに、子どもはやおら立ち上がった。そのまま室内に干した鮎に近づいて、まじまじと見つめている。

(様子見するしかないか……あんまり、日にち残ってないんだけどな)

 自覚のあるなしの差異はあれど、深く立ち入られたくない話題があるのはお互い様のようだ。

 そうでなくても今朝から色々なことがありすぎて、正直疲れていた。今日はもう眠ってしまいたいと云うのが本音で、しばしの葛藤はあれど結局、寝間着を手にして外へと出る。

 雲ひとつない夜空は夜半といえど星の輝きを含んでいて柔い色合いを見せている。淡い輪郭の星の一粒を口に含めるような小さな深呼吸をひとつして、ようやっとよすがは池へと足を向けた。


        ◆◆◆


──むかしむかし。

 ある島に、よすががひとりおりました。

 よすがは毎日ひとりぽっちで、龍神様に嫁入りする日を指折り数えて待っていました。

 そんなある日のことです。よすがは、雷の子どもを拾いました。

 雷の子どもは、大切な何かを探しにきたと言いました。でも、その大切な何かがわからないととてもとても悲しそうに泣きました。

 その様子があんまりに悲しそうで、どうにかしてあげたくて、よすがは約束をしました。


「私が一緒に、探してあげる」








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