第一章 雷の向かう先④

 きゃっきゃっとはしゃぎながら水を蹴り上げる柘榴ざくろに、木犀もくせいが顔をしかめた。


「柘榴、魚逃げるから」

「だって気持ちいいもん! 木犀も、ほら!」

「んぅ! 冷たい……やめてよ」


 柘榴が少し屈んで、両手で掬い上げた川の水を木犀の顔面目掛け遠慮なしに掛ける。川の水は澄んでいて、水底が確認できる程だ。普段の飲み水であるし衛生面に問題はないが、あまり全身びしょ濡れになられるとそれはそれで別の心配がある。


「あんまり水遊びしちゃだめだよ。風邪引いちゃうからねー?」


 川縁の木の根本を背に座り込んだまま、よすがはそう声を上げた。

 まだ昼前のこの時間帯、太陽は頭上の一番高いところにあって日差しは強い。それでも子どもが長時間濡れているのはあまり褒められたものではないだろう。


「すぐ乾くからだいじょーぶ!」


 けれど柘榴はからからと笑って、「今から魚取るからねー!」大きく手を振って見せた。

 先程まで柘榴がぱたぱた暴れていたせいで遠巻きになった魚を誘き寄せようとしているのだろう、木犀の正面、少し距離を取った位置に移動してじっと水面を覗き込み始める。木犀もそれに倣い、視線を下へと落とした。

──木犀と柘榴は、よく似ている。

 双子だと云うから当たり前なのだろうけど、こうしてみると合わせ鏡のような錯覚すら起こさせる。まだ幼いから性差もあまり外見的な差異を連想させる程には機能していないのだろう。

 和装は揃いの柄で、色だけが違う。木犀は翠色すいしょくで、柘榴は蒲公英色たんぽぽいろ。陽光が降り注ぐ中、自然に溶け込むような色合いはひどく目に優しいものだ。

 木犀は目尻が少し垂れていて、反対に柘榴は少しつり上がっている。鉛色なまりいろの瞳と深い花色の髪とはよく合っていた。袂が濡れないようにたすき掛けをしてやったのはよすがだが、すでにあれだけ濡れていれば意味はないだろう。


「転ばないように気をつけてね」

「はぁい」


 揃った返事に笑みをこぼしてから──ちらりと、隣を見やる。すぐに、よすがより頭ふたつ分は低い位置にあるつむじが揺れた。


「……なんだ?」

「あー……いや、」


 思わず言葉を濁したが、不意に顔が上向いてしっかりと目が合った。


「言いたいことがあるなら言え」


 最初からではあるが、子どもにしては些か尊大な物言いだ。よすがは別にどんな口調でも気にやしないからいいのだけれど──もしや、村長むらおさの子どもなのだろうか。

 よくよく見れば濃淡を描く漆黒の着物はよすがの目から見ても上質なそれで、ただの村人の子とは思えなかった。


「──正直、川に来てる場合じゃないと思うんだけど……一度集落に行った方が……」


 あの後。

 室内に舞い踊った不可思議な風は、大した時間はかからずに勝手に落ち着いた。意味がわからずに目を白黒させながら納屋の周りを確認したが──この納屋に住めないとなるとよすがは途方に暮れてしまうので──特段の異常はなく首を傾げながら室内へと戻る。

 そうしてよすがが改めて子どもを集落へ送り届けてくれるよう双子へ声を掛けるより先に、子どもは腹が減ったからと言って川へと行きたがった。確かに、くぅくぅと動物の鳴き声のような音が子どもの腹から聞こえてきていた。

 木犀と柘榴がそれに賛同し、集落へ向かうよりも先に川へと行き先が決定してしまった訳だが──


「いい。集落に行きたいとは思わない。そこに何かあるとも思えない」 

「記憶ないでしょうに……」


──子どもはこう言って、にべもない。思わずため息をついたよすがだったが、腹の減りすぎで集落に着く前に倒れられても意味がないし、すでに川まで来てしまった以上魚を取らねば子どもたちが誰も納得しない。


「ちょっと!」

「なんだ」


 ふと影が差し視線を上げれば腰に手を当てた柘榴が仁王立ちをしていて、ずいと子どもへと顔を近づける。


「あんたも手伝ってよね! 魚取らないとごはんわけてあげないから」

「……取り方、知ってる?」


 手のひらに川魚を一匹乗せた木犀が静かに尋ねた。川縁に置いておいた桶に魚を放り込んで、けれどすぐに川の中へと戻ってしまう。

 良く言えば積極的、そうでない言い方をするなら遠慮のない柘榴とは反対に、兄の木犀は内向的で人見知りが激しい性質だ、会ったばかりの他人にあれこれ話せるはずもない。すかさず柘榴が言葉を続けた。


「木犀は魚取るの上手だから教えてもらって。でも、技は見て盗むのが鉄則だからね。この時間は魚が多いから、しょしんしゃのあんたでも一匹くらいは取れるよ。先生が木犀だもんね!」


 ふふんと得意気に胸を反らしてから柘榴はおもむろに子どもの腕を取った。子どもも興味はあったのだろう、満更でもない様子で柘榴と連れ立って川へと向かう背中へ、慌てた声を掛ける。


「あ、待って!」


 柘榴も子どもも、足を止めて振り返った。主語がなかったのだから当然だ、けれど目線で呼び止められたのが自分ではないと理解したのだろう、柘榴は「早く来てね」と言い残して木犀のもとへと走った。


「──名前がないと不便だねぇ……」

「好きに呼べ」

「そう言われても」


 子どもは自身の名前すら、忘れていた。これはご家族と無事に会えた時に揉めるな。頭の片隅でそんなことを思いつつ、しかしあまりに本人がけろりとしているものだから掛ける言葉がどもりもする。


雷三太郎かみなりさんたろう!」

「……稲妻五右衛門いなずまごえもん

「それはまさか僕の名前候補か?」


 そんなに距離は離れていないから会話が聞こえていたのだろう。双子から上がった名前、……名前? はまさかの男名で、よすがはさすがにそれはないだろうと眉を下げた。


「こらこら。女の子に失礼な呼び方しないの」


──けれど。

 し……ん、と一瞬、辺りに沈黙がおりる。魚が木犀の手から跳ねて、ぽちゃりと水飛沫を上げて川に戻った。流れに沿って悠々と泳いでいく。


「……え? なに、急にどうしたの?」


 首を傾げるよすがに、戸惑ったように眉を寄せた子どもが呟いた。


「僕は男だが……?」


 それを聞いて次に固まったのはよすがだ、ぽかんと口を開けて──


「──っ嘘!? 女の子じゃないの!?」


 思わず子どもに詰め寄るように前のめりになって大声を上げた。そんなよすがに、呆れたような半眼を二対向けられる。


「どう見ても男の子じゃん。よすが、視力大丈夫?──そういえば最初、木犀のことも女の子だと思ってたよね。まさか子どもは全員女の子だと思ってるの?」

「……そういえばそんなこともあったね。ずっと木犀ちゃんって呼ばれて……最近ようやく木犀くんになったから。……よすがは疲れてるの?」

「木犀くん、本気の心配するのやめてくれないか? 心が痛い。謝るから、その節はごめんね……」


 幼子からの目線に耐えきれず、よすがは両手で顔を覆った。そして内心なのに、小声で囁くように本音をこぼす。

(──いや、だって、綺麗だから……)

手入れなどしていない自分とは大違いな濡れ羽色の髪は日に当たると幾分か透けて色彩が薄まり、その輪郭を淡く光らせていた。

 まるで幾数の星が砂粒のように散った双眸は深くて、湖に写る星空を思わせる。

 わずかに香るのは、何の匂いだろうか。森を散策している時のどこかで、嗅いだことのある香り。

──まるですべて、よすがの好きなもので構成されているようなこの子どもは、ひどく綺麗だった。

 綺麗だと、一目見てからずっと思っていたから脳が勘違いを起こしたのだろう。苦笑いをこぼしながら、よすがは子どもを手招きした。


「──おいで。そのままだと、髪が濡れるよ。結んであげる」


 はね除けられるだろうかとも思ったが、存外素直に戻った子どもはそのままよすがに背を向けて地面へと座った。子どもの上等そうな着物が汚れるのが気にかかって膝に乗ることを提案したが、それはすげなく断られる。

 仕方なしに諦めて、よすがは自身の首に結ばれた紐をほどくと、子どもの髪に指を差し入れて高い位置でひとつに括った。


「あぁ、ほら、かっこよくなったよ」

「……可愛い、じゃなくてか?」

「ごめんってば……」


 振り返ってこちらを見上げてくるからかい混じりの視線はまさに悪戯に成功した子どものそれで、やんわりと細められた瞳の年相応さに僅かばかり安堵した。

 からかわれて上がった体温に首筋を赤く染めながらも、その小さな背中に手を添えて立ち上がりを促す。そろそろ柘榴が子どもをにらみつけ始めていた。


「魚、取ってくる」

「はい、いってらっしゃい。滑らないよう気をつけてね」

「……あぁ」


 子どもが洋靴を脱いだ足を入れた瞬間、水面が揺れる。楽しくなったのだろうか、表情はあまり変わらないまま子どもが水を蹴り上げた。反射する日差しの眩しさによすがは瞳を細めながら、気恥ずかしさから熱いままの頬を手のひらで扇ぐ。

(恥ずかしかったり、楽しかったり、大変だったり)

 他者とのやり取りからしか得られないものがあると云う、至極当たり前のことを感じられる時間はしあわせなものだ。



『──今回のはこいつか。毎回、外から来た人間がなってくれると有難いんだがな……』

『親は災禍さいかで死んだのか?ちょうどいいじゃないか』

、しきたりを守るしかないんだ。悪く思わないでくれよ』


 声、が、聞こえたことには気がついたけれど、顔を上げる気にはならなかった。地べたに座り込んだまま、頬を伝う涙の意味もわからないまま、ただ崩れかけた家屋を見つめる。


『……』

『来い。蒼弦そうげん様がお呼びだ』


 腕を取られ、強引に引かれた。どれ程の時間、ここにいたのか。無理矢理に立たされた両足は痺れてうまく動かすことが出来ずによろけて草履が脱げたが、男たちに気にする素振りはなく半ば引き摺られるように歩を進めた。

 痛みはあったはずだ、けれどどうでもよくて、言葉はすべて飲み込んだ。

──そして、その日。

 ✕✕✕は、よすがになった。そのお役目を下した村長の表情を、よすがは思い出せない。



 清流のせせらぎと、三人の幼子のそれぞれにはしゃぐ声に跳ね上がる水音。風が強くて、日差しがこぼれて、天気がいい。


「……」


──ほんの少し。

 本当にほんの少しだけ軋んだ心には気がつかないふりをして、よすがはきつくきつく目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る