第一章 雷の向かう先③

「──記憶、喪失……?」


 畳四帖程の狭い部屋の中で、そう震える声を発したのはよすがだった。


「……ぇ、ま、待って、僕は誰って、……まさか何も覚えてないの!?」


 慌てて踵を返して舞い戻り、布団にぺたりと座る子どもの頭を抱え込む。


「っ、おい、なに……!」


 虚を付かれた子どもが、肩を跳ねさせた。それに言葉を返す余裕もなく、よすがは震える指先で髪を分けて頭皮を確認する。

 特段目立つ外傷はない。が、よすがは医者ではないのだから身体の内側で何か異変が起きていたとしてもわかりようもなかった。


「雷に、打たれたせいで……?」


 青ざめ唇を震わせるよすがは、腕の中の子どもを見下ろした。

 まだ、幼い。木犀もくせい柘榴ざくろよりはふたつみっつ年上のように見えるが、子どもであることに変わりはない。

──早く、お医者へ。

──いや、親御さんの元へ行くのが先か?

──この子を安心させなきゃ。

 ぐるぐると思考を巡らせるよすがの両肩が、指先でつつかれた。

 反射的に視線を上げた先では、木犀と柘榴がまろい頬を小さく膨らませて唇を尖らせている。


「雷に打たれて記憶喪失なんて、そんなお伽噺みたいなことある? 家に帰りたくないから嘘言ってるんじゃない?」

「柘榴、疑っちゃ悪いよ」

「木犀こそすごい疑ってる目してるじゃん」

「ごはん、取るつもりなんじゃ……?」

「よすがのごはん美味しいからね。木犀佃煮好きだよね。私はね、魚の腸取ってくれるから好き」

「干し柿も美味しいね」

「柿は時期的にまだだね。木苺の煮たやつ食べたいなぁ」


──木犀と柘榴は集落が嫌いだ。村人全員が無視をしてくるから。理由もわからないそれは、木犀と柘榴の足を集落から遠ざけさせるには充分であった。

 それでも、よすががどうしてもと言うから突然の見知らぬ来訪者を集落まで連れ立ってやろうとしていたのに。お昼ごはんも楽しみだ、早く、こんな予定外の存在は集落に放って、川へ行って魚を取って森で木苺を摘んで。なのによすがは目の前の真っ黒くろすけにばかり構う。


「むー……」


 ぶすくれた表情のまま低く唸り声を洩らすふたりに、よすがは驚いたように瞳を瞬かせた。次いで、眉を小さく下げて苦笑う。


「……ふたりともありがとう。大丈夫、きみたちとの約束を忘れた訳じゃないから。拗ねないで?」


 焦ると、自身の内に思考が籠り周りが見えなくなるのは悪い癖なのだろう──強制的に意識を引き戻されたおかげで少し、落ち着いた。


「──おい、いい加減に離せ」

「ぁあ、ごめん!」


 腕の中からくぐもった、不機嫌に沈んだ声が聞こえて慌てて両腕を上げる。拘束から逃れた子どもはふるふると頭を振って、ぼさついた髪を直した。

 そして、先のよすがの言葉を思い返したのだろう、記憶を手繰るように視線を遊ばせながら自身の髪先をいじり始める。


「さっきの質問だが、覚えていることもある──探しに、来たんだ」

「……何を?」

「……それはわからない。わからないけれど。探すために、降りて来たんだ」

「降りて……? 待って、きみは、どこから来たんだ……?」


 降りて。

 日常生活に於いて耳慣れないその単語に、よすがは訝しげに眉を寄せた。その疑問を受けた子どもは、濡れ羽色の髪から手を離すと──


 


──その指は、真っ直ぐに真上を向いていて。子どもは追うように視線を上げた。

 よすがはそれにつられ自身も顔を上げたが、その先にあるのは低い天井の簡易な梁のみ。そこここの合間から抜ける強い日差しが細い梯子のように伸びていて、子どもは瞳を眇めていた。


「……え、っと」


 仕草の意味がわからずに戸惑いながら瞬きをひとつふたつこぼしたよすがの声に、子どもは顔をこちらへ向けた。

 星の散ったような黒曜の瞳はどこまでも色が深く、けれど、微かに揺れていた。すぐに、伏せられてしまったけれど。

 未だ戸惑いを隠せないよすがではあったが──その瞳に宿る不安げな感情に気づいてしまえば、放っておけるはずもない。

 けれど混乱した状態では掛ける言葉も見つからないまま、布団に力なく落ちる子どもの小さな手を握る。


「……」


 ふいと、視線が上がる。訝しげなその表情にやや怯みながらも、無理矢理に声を喉から追い出した。子どもが不安がっているなら、安心させてあげないと。年長者なのだし。


「……だ、大丈夫! きっと、……大丈夫だから」


 何が大丈夫であるのか。自分でも理解出来ていないつっかえつっかえの格好のつかない言葉ではあったが──手が、振り払われることはなかった。ひとまずほっと安堵していれば、


「空から来たの……?」


 そう呟いたのは、木犀か柘榴か。

……空から。よすがの脳裏にも一瞬過りはしたが、まさかそれはないだろう。顔を見合わせてくしゃくしゃと言葉を交わし合うふたりは時たま天井を見上げては同時に首を傾げていて、愛らしい。

──と、その時。

 狭い室内を、風が吹いた。まるで野分きを彷彿とするような、吹き荒ぶ強い風。


「っ、わ……!」


 扉は閉め切っているはず。

 木犀と柘榴が小さく首を竦める中、慌てて立ち上がったよすがは戸口へと足を向けた。子どもははらはらと髪が暴れるのも気にせずに、


「……必ず、見つけてみせる」


──小さく、力強く、そう呟いてみせた。


 

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