第一章 雷の向かう先②
──だから、ふたりでお医者に連れて行ってやってくれないか?
──嫌。
──あれから目も覚まさないし、心配なんだ。近くまではよすがが運ぶから。な?
──嫌ー。それより今日はごはん食べたいから、一緒に川に行こうよ。焼き魚にしよう!
──この子をお医者に連れて行った後でならいいよ。
──放っておいてもじきに目を覚ますと思うけど。
──
──
薄皮の向こう側のようなどこか遠くで、音が飛び交っていた。羽音のような煩わしさを厭うてむずがるようにゆっくりと頭を振れば、音はやがて声となり、すぐ近く──頭上で交わされているのだと気づく。
「今日はー、焼き魚がいいなぁ」
「いいよ焼き魚なのは別にいいんだよ? ただその前にお医者にね? 柘榴ちゃん話聞いてるかな?」
「柘榴もよすがさんも、声、大きいよ……」
献立を喚く少女の声と、それに疑問を浮かべる声。恐る恐ると云った様子で窘める声は少年のもので、ひどく弱々しかった。
「……る、さい」
重い瞼を無理矢理に押し上げるが、半分も開かない。薄くしか開いていないはずの視界はやけに眩しくて、その中に一瞬鮮やかな赤色が見えて気を惹かれたが、結局すぐに閉じてしまった。
苛立ち混じりに思わず吐き出した言葉は自身でも驚く程に掠れていて、よすがと柘榴の耳には届かなかったらしい。未だふんわりとした言い合いを続けるふたりを余所に、木犀だけは小さく目を見開いた。
「あ。……ねぇ、ね! ふたりとも……起きた」
「え!?」
「ほらほら、言ったでしょ!」
驚いたような声を上げたよすがが顔を覗き込んでくる気配がした。それが影となって顔に落ちて、ほんの少し落ち着いた心地になる。安堵の息を洩らしながら、それでも寄せた眉の険しさは変わらない。
「──ま、ぶ……ぃ」
その意味をいち早く理解してくれたのは木犀だった。静かに立ち上がると、戸口へ向かった。
「戸、閉めるね……?」
「木犀、怪我したらどうするの?私がやるから! 座ってて」
「柘榴、ごめん、大丈夫。それくらいは、できるから」
高い声を上げて跳び跳ねた柘榴がその後を追うように木犀に続いた。響く足音に小さく呻きながら上体を起こせば、濡れた布巾が床に落ちる。
「ふたりとも、ありがとう。──気づかなくてごめんな。日当たりはいいんだけど、その分、夏は戸を開けて風の通りを良くしておかないと暑いから」
落ちた布巾は、そう苦笑ったよすがが拾い上げた。自身の前髪が湿っている理由を考えて、よすがの手の中の布巾を見つめて、少ししてから理解する。看病、してくれていたらしい。
「……いや、感謝する」
「具合はどう? お水、飲める?」
くすんだ色の湯飲みが手渡され、戸惑いながらもそれを受け取った。なみなみに注がれた水を目にした途端に喉の渇きを覚えて、こくりと喉を鳴らしてから勢いよく湯飲みに口をつける。身体の隅にまで染み渡るような感覚に、含み切れなかった水が口の端からこぼれたが気に掛ける余裕もない。
「おかわりは?」
問われ、首を横に振る。
「い、い。大丈夫だ」
「うん、わかった。……話はできる? もう少し横になってた方がいいかな?」
再度、首を横に振る。戸口が閉められたことで強い日差しは遮られ、水を飲んだことで頭もだいぶすっきりとしていた。安心したように眉を下げたよすがは湯飲みを横へと避けてから、こちらを優しい、しかしどこか不安げな表情で見つめた。
「何があったのか、覚えてる……?」
何があったか。
何──降りて、彩雲を見送り、雁の群れを抜け、落ちて、気づけば。
「……湖、にいたか?」
「うん。……たぶん、雷に打たれたんだと思うんだけど……よすががもっと早く気づいていれば怖い思いすることもなかったのに、ごめんな」
ひそめられた眉に、小首を傾げる。雷に打たれた記憶はないが──自身がどんな目に遭おうと、お前になんの関係がある?
決して広くはない部屋の隅、壁に寄りかかって互いを古びたうちわで扇ぎ合っていた木犀と柘榴が、同様の疑問を抱いたらしい。肩をすくめながら鼻を鳴らしてみせた。
「なんでよすがが謝る訳? そんな朝早くに湖にいる方が馬鹿なんでしょ」
「雷に打たれて生きてるだけ、すごいと思う……気にしなくて、いいよ」
「っていうか、雷なんて落ちた?」
「んん……わかんない」
いささか刺の含まれる態度ではあったが特段気にすることもなく、子どもは立ち上がろうとした。やるべきことがあるから降りてきたのだ。目が覚めたのだから早く用を済まして、帰ろう。
──けれど。
結局、立ち上がる寸前で動きが不自然に止まり、尻は煎餅布団に付いたまま。ぎゅうと、知らず布団の端を握ったことに気づいたよすがが遠慮がちに頭を撫でてきて、それでも不安定に揺れる鼓動は大きいままだ──だって。
「集落の子だろう?……知っているとは思うけど、ここは禁足地だし、よすがには関わっちゃいけないから。このふたりが集落まで送っていくから、早く親御さんのところに帰りな。その後はお医者に罹って。もう来ちゃ駄目だよ」
「……よすが?」
「あー……ごめん、知らないなら気にしないで。木犀くん、柘榴ちゃん。頼んだよ」
よすがが振り返って、木犀と柘榴を手招く。素直に寄ってきたふたりは、そのままよすがの首もとへと腕を伸ばして抱きついた。
「焼き魚は?」
「この子送って、戻ってきたら川に行こうな。約束だ」
「あの……山菜の、佃煮……」
「こないだ気に入ってたみたいだから作ってあるよ」
きゃらきゃらと楽しげに笑うふたりと小指を絡ませて指切りを始めるよすがたちを余所に、小さく震え始めた自身の指先を見つめる。小さい、手。子どもの、僕の手。
「今日は日差しが強いから、きみの服ももう乾いてると思うよ。取ってくるね」
立ち上がったよすがが、外へと向かう。引き戸へと手が掛けられ──その背中へ、ぽつりとこぼれた言葉は。
「──僕は……僕は、誰だ……?」
よすがの動きが、止まった。
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