第一章 雷の向かう先①

 迎える朝焼け

 色とりどりの鳥たち 

 雲に紛れ 

 空を動かす

 夜闇よやみの王が 

 姿を隠す 

 舞う、瑞風ずいふう 

 長く永く 

 続くように


 長く永く

──花を贈ろう



 まだ薄暗い森の中で、ひとつの歌声が木立を揺らしていた。

 薄紅染うすべにぞめの湖を眼下に望む、一際背の高い大木の枝葉に腰掛ける人影は鎮魂歌を歌い終えてふと空を仰ぎ──小さく首を傾げた。


「……ん? かりの群れか……?」


 空一面を一瞬、細かな黒い影が覆った気がしたが──すでにその気配はない。不思議に思いながら瞬きを繰り返すが、遥か彼方の水平線の向こうから顔を覗かせた太陽を見て、(まぁいいか)と少年は表情を綻ばせた。動きに合わせて、首に結ばれた深紅の組紐が揺れる。


「夜が、明ける」



──大海にぽつりと浮かぶ孤島、竜葵島いぬほおずきじま

 海流の関係か、はたまた島の護り神である龍神の加護に因るものか。船を出せば例外なく沈むとされている竜葵島近辺海域の特殊さ故、本陸との定期的な行き来はほぼ不可能。

 数年に一度、たった一晩海が割れる時以外を除いては完全に孤立しているのがこの島だ。それでも海割れの日に本島から移住してくる者も稀にいて、村人たちも歓迎の色を見せていた。そんな、どこにでもある平凡な孤島の、平穏な朝の一幕──、そのはずが。


「……なんだ、この音?」


 島一番の大木に登り、湖のほとりに作った幾つもの小さな墓に意味があるかもわからない鎮魂歌を降らして、夜明けを迎える。

 朝焼けの森を歩いて摘んだ花を手向け、手を合わせ──それが少年、よすがの毎朝の日課であるが、今日は何だか空が不穏だ。

 初夏の晴れ空。

 夜明けと共に新緑の匂いを纏った心地好い風が木々の合間を吹き抜け、けれどからりとした熱気を孕んだ陽光が地に降り注ぐ。

 いつも通り、肌に爽やかな暖かさを感じるよすがの耳に届く異音。

 腹の底に響く、太鼓のような爆音が連なっていた。視線を上げれば雲ひとつない青空を切り裂くように走る──幾筋もの稲光。


「雷……?」


 こんなに晴れて、いるのに。


「っ、──ぅわ!」


 よすがとなってから雷を見たのは初めてだ。魅入られたように雷鳴を見つめていたから、だから、もっと幼い子どもでも知っていることを失念していた。

──雷は、落ちるものだと。

 一際大きな閃光のひとつが、地を震わす爆音と共に真っ直ぐにこの大木に向かって放たれ──よすがは逃げることも出来ず、咄嗟に頭を庇いながら身を屈めた。


 

えにしの儀】まで、死ねないのに。


「──ッ!」


 耳のすぐ脇を、熱源が通り過ぎた気がした。次いで、何かが叩きつけられるような音と勢いよく上がる水飛沫。

 焦げ臭い原因はおそらく髪が焦げたせいだろう。呆然と焼けた髪を抑えながら、飛沫を浴びて濡れたままの顔を上げて恐る恐る湖を覗き込んだよすがはしかし、絶句した。

 湖は、その水量を半分以下に減らしていた。周囲の草花が水に濡れて煌めいている。墓石は白い石ばかりにしたからほんのりと桜色に染まってしまっている。染みついてしまうだろうか。

 頭の隅でそんなことを思いながら、慣れた手つきで木を降りていく。

 緋色の袂が枝葉に引っ掛かるのを苛つきながら振り払って、よすがはそのまま大木の途中で身を翻し草原の上に身軽く降り立った。


「い、……っ!」


 水底の石ころが水飛沫と一緒に跳ねたのだろう、常ならば草花の優しい踏み心地のはずがごろごろと草履の足裏を刺激する。高い位置から飛んだから余計だ。涙目になって立ち止まり、痛みにうずくまったのもわずか数秒。

 表情はわずかに歪んだままだったが、すぐに駆け出すと湖のほとりからそれを確認する。

 減った水嵩みずかさ、抉られた水底、微かに焦げ臭い。

 衝撃の凄まじさを物語る湖の中心──に、何か塊が見えた。


「……っ!」


 よすがの見間違いでなければ、あれは。

──人間の、子どもだ。


「っきみ! 大丈夫か!?」


 確信を得た瞬間、七宝柄の着物や洋袴が濡れるのも構わずによすがは湖の中へと足を踏み入れた。

 袴と足袋が水を含んで途端に重くなるが足を止めることはなく、うつぶせにうずくまる子どもへと駆け寄る。

 よすがのふくらはぎ程の水量だが、子どもがうつぶせでいれば呼吸が阻害されているはずだ。長い黒髪が力なく水面に揺蕩っている様は、最悪の事態を想像させるに容易かった。

(雷に打たれた? いつからここにいたんだ? 湖の中なんて、どうして。禁足地だぞ、ここは。村の子どもがどうして。親は何をして)

 力任せに薄い肩を掴んで、子どもの身体を反転させる。水温は低くはないけれど、これ以上水底に浸からないよう膝上に抱き抱えたままその顔を覗き込む。


「嘘だろう……?」


 呆然と、よすがは掠れた言葉を洩らした。

(……息、してない)

 顔色は悪く、瞳は固く閉ざされていた。長い睫毛が濡れている。青ざめた唇にはあるべきはずの吐息はなく、小さく開いたまま。いくら呼び掛けても、小さな身体はぴくりとも動かない。


「ッ誰か──、……っ」


 咄嗟に叫ぼうとして、しかし半端に口をつぐむ。唇を噛んで、集落のある方向を苦悩げに見つめた。

──この森は禁足地きんそくちだ、どんなにひどい自然災害があったとしても、村長むらおさの許しがなくては村人は足を踏み入れることはない。

 集落には医者がひとりふたりは存在しているが、よすがの自分には呼ぶ手立てがないのだ。その権利も、与えられてはいない。

 

(……禁を犯すことになるけど、集落へ──いや、それだと話しかけた相手が罰せられる……それに、どんなに急いでも間に合わない)

──迷いは、一瞬。


「……ごめん」


 小さく呟いて、よすがは子どものあごを掴んだ。頬に濡れて貼りつく髪を避けてやってからわずかばかり上向かせて──唇を重ねる。分け与えるように自身の息をゆっくりと吹き込んで、祈る。

(頼む、どうか、生きて)

 雀の可愛らしい囀りが、耳を通り過ぎる。射し込む陽光がじわりと肌を焼くが、滴る汗を拭う余裕もない。変化のない子どもの様子に焦燥を覚え泣きそうになりながらも、息を吸って、吸った分をまた子どもの喉奥へと含ませる。


──どうか、行き届いて。

 届いて、生きて。


 祈りばかりが膨らんで、涙になって勝手に溢れていく。だってまだ、こんなに幼い。よすがじゃないんだから、死ぬ理由なんかない。伝った水滴が無遠慮に子どもの頬に落ちて──その時。

 合わさる唇に、わずかばかりの振動を感じた。


「……っ、かはッ……!」


 次いで、勢いよく離された唇からは呼吸と少しの水が吐き出された。背中を擦ってやりながら、たもとの濡れていない部分を探して柔い口元を拭ってやる。

──斯くして、祈りは届いた。

 子どもの胸が緩く上下しているのを認め、ほっと息をついたよすがは子どもを抱え直すと立ち上がった。子どもは十になるかならないか、位の年齢だろうか。

(意識は……まだ戻らないのか。放っておくとまずいよな……集落の子だろうし、集落のそばまで行けば親御さんがきっと)

 赤子をあやすように華奢な背中をぽんぽんと優しく叩きながら足を踏み出したよすがはしかし──「ッ痛ぁ!!」次の瞬間には水飛沫の上がる空を見上げていた。

(意味が、わからない……し、痛い)

 痛むのは、首と背中。そして腹だ。後ろ襟を力任せに引っ張られて体勢を崩した瞬間、腕の中から子どもが消えた。

(え?)

 疑問に思う暇もない、足に衝撃を感じたと思ったら湖の中で寝転んでいたのだから。


「──誰だ、お前は。僕に何をした……?」

「──……」


 よすがは息を飲む。

 綺麗だ、と思った。状況も忘れて。

 間近に、深い黒曜こくよう色の瞳があって。その中には、散らばった星のような瞬きがいくつも煌めいていた。

 満月のようなまぁるい形で、けれど鋭さだけを湛えている双眸。


「答えろ」


 子どもに押し倒されたのだと、遅ればせながら理解する。


「……っ」


 首に、子どもの指がかかった。僅かばかり力が込められるだけで、呼吸が苦しい。

(下手なこと言ったら、首絞められるな、これ……)

 襟は未だ掴まれたまま、首には幼い五指。死にかけていた幼い細身の身体のどこにそんな力があるのか、のし掛かられたよすがはどうにか子どもを押し退けようとするが、舌打ちとともに指先の力が強くなったため一切の抵抗をやめる。

 その意思表示のように両手を力なく地面に落としてから、よすがは瞳を閉じた。


「……息、を。勝手に口に触れたのは、謝るよ。けど、きみだって死にたくはなかったろ? よすがから、蒼弦そうげん様に伝えることなんてしないから」


 村長の罰を恐れているのだろうと思っての、言葉だった。よすがと話したとなれば、ただではすまないことは集落の大人ならば誰でも知っている。子どもはまだ幼いけれど、よすがのことを話している親もいるだろう。

 けれど、子どもはよすがの言葉に不可解げな顔をした。思案した後、注意深く辺りを見回して瞳を眇める。


「ここは……僕、は、なにを──」

「……え?」


 と、不意に言葉が途切れた。押さえつけられていた身体への圧迫感が消え、かと思えば小さな身体が崩れ落ちる。


「っと……! ──なかなか、じゃじゃ馬な子だな……?」


 気を失った子どもを見つめながらよすがはそんな言葉をぽつりと呟いて、小さくくしゃみをひとつこぼした。

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