ばしゃら祈縁(きえん)

灯燈虎春(ひとぼしこはる)

序章

 伸ばした前足は、届かなかった。

 彩雲を抜けてどんどんと遠くなるそのひとの名を叫ぶ間もなく、どす黒く、視界一面が塗り潰される。


        ***


──

────

──────

 視線の先では大きく溜まり、漂い、揺蕩う水面みなもが凪いでいた。

 どこまでも透き通る水面の向こうには、七色の光彩を纏う彩雲さいうんが薄く長く刷けている。その上には風の多い大地が広がっているのを知っているのは、そこが自身の棲みかであるから。

 だからこそ、今自分は落ちているのだろうと知れた。空が、どんどんと遠くなる。

 長い髪が旗のように暴れていた。肩や脚絆きゃはんに戯れるようにまとわりついていた彩雲の小鳥が暴風に煽られ、遥か上空に飛ばされていく。また彩雲のかたまりにひっつくだけだとわかってはいるが、小さくなる影を見つめながら可哀想なことをしたと思った。

 重力に従って下へ下へと吸い込まれるように落ちる身体の感覚は初めてのもので、いっそ愉快な気すらする。

 漆黒のたもとが踊るように風を切る中、なぜ自分は落ちているのだろうかとぼんやりと考えて──はて、落ちるとは?

 瞬きを、ひとつ。

……いや、違う。落ちているのではなく、自らの意志で降りたのだ。


──空、が、遠くなっていく。


「なぜ、降りるんだ……?」

 呟いた言葉は音として耳に入る前に風に紛れ霧散したが気にすることなく、首を傾けて夜明け前の薄暗い娑婆しゃばを見下ろした。

 広がる大海に、緑の多い孤島がぽつんとひとつ。

 もっとずっと向こうには大きな大陸が横に伸びているが、そちらは自身に関係がない。孤島に視線を戻し、瞬きを繰り返す。


 私は、俺は、我は、僕は──


 娑婆は見守るべき場所で、見下ろす場所で、降りるのなんざ数年にたったの一度。

(✕✕様が落ち──否、?

 嗚呼、そうだ。もうその、ひとの儀式が近いから……■■■を、迎えに。────?)

 ■■■

……■■■?

 それはいったい、なんだったろうか?  起き抜けのようにうまくまとまらない、霞がかった思考。砂嵐に巻き込まれたように言葉には雑音が被さり、何の意味を持つのかすら思い出せない──そして。

 不意に気づく。


(──)


 遠退く景色に、咄嗟に伸ばした両腕。

「……ッ!」

 しかし、──届かない。

 気づけば彩雲の向こうの晴れ空はもう手が届かない程の彼方にあり──薄紅色うすべにいろの水溜まりが、すぐそこまで迫っていた。

 視界の隅で何かが一瞬煌めく。何故だかそれに触れたいと強く願ったけれど、瞬きの刹那にすべてを忘れて、なげやりに四肢を投げ出した。

「……」

──嗚呼、それにしても。


(この島は、どうしてこんなにも)


 こんなにも、血なまぐさいのだろう。







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