第146話




 口を閉ざして見守っていたフィーガスが、ライネリカの傍に立って、翼の中に少女を囲い込む。

 喉を震わせつつ、婚約者の名を呼びながら振り返れば、彼はその双眸を見つめ返した。


「……僕も一度、ここでお別れだ」


 今身につけている馬具は、装飾品の少ない簡素なものだ。新たな馬具がまだ完成していない為、長旅になる親子三人に、フィーガスは同行できない。

 彼は小さく顔を左右に揺らし、何事か言い淀んだ。ライネリカは婚約者の意図を汲み、バラとリンドウに視線を向ける。

 彼らは心得たと頷いて、背を向けて荷馬車の方へ歩いて行った。

 フィーガスは二人を見送ってから、ライネリカの唇に上唇じょうしんを押し当てる。両手で顎を撫でて吐息を返せば、彼は言葉に詰まった様子でライネリカを覗き込んだ。

 無言で見つめ合い、二人の間を風が吹き抜けた時、フィーガスが先に口を開く。


「忘れないでほしい」

「…………はい」

「君の魂が僕の元に来るまで、どれほどの時間がかかっても、僕の婚約者は君しかいない」

「っ、はい」

「僕は君を待ち続ける。それが幾星霜でも、永遠に君を待ち続ける。……愛しているんだ、君を心から。誰と共有するどんな瞬間よりも、君の全てを愛していると誓う」


 少年と青年の狭間に揺らぐ、甘く柔らかい鼓動が伝わる、優しい声だ。叶う限り聞いていたいのに、自らの呼吸音が邪魔をして、ライネリカの頬に涙が伝う。

 悲しいわけではない。決心が揺らぐわけでもない。

 ただ、寂しい。

 頬に伝う雫を拭えないまま、ライネリカも言葉を紡ぐ。


「フィーさま、フィーガスさま、わたしもあなたに誓う。わたしの命はあなたに変えられた。わたしの明日は、いつまでもあなたの傍にあるの」

 

 父母との生活は、幼い頃から望んでいたことだ。幸福も苦難も乗り越え、これからの月日を三人で歩みたいとする希望に嘘はない。

 それでも心の全ては、フィーガスの隣にあり続けたいのだ。

 ライネリカの鼓動は、白馬に出会った時から変わった。

 死に向かう意識は、がむしゃらに生きる希望へすり替わった。

 今この瞬間、自分がここに立っている事が最善であったかは分からない。そう思うほど激動の年であって、生きる為に多くを切り捨て、蹴落としてきた。

 フィーガスが以前、悪女にならないかと誘い文句を口にしたが、その通りなのだろう。様々な面から鑑みても、ライネリカの行動は悪女のソレであった。

 エイロス国王夫妻を裏切り、第一王子を誑かし、第二王子を狂わせ、第三王子を死に追いやった。第一王女を危険な目に晒し、シスボイリー大国の第三皇子も間接的に処罰した。そして新大国王夫妻は少女の言いなりで、婚約者と裏で糸を引いている。

 自分は三文小説でも鼻で笑うような、紛れもない悪女なのだ。

 エイロス国を滅ぼしたのはライネリカ自身。人々の生活を脅かした悪女は、全ての責務から逃げ出して、遠い地で身を隠す。

 褒められたやり方でない事は承知している。弁明する余地がない事も理解している。

 それでもライネリカは、父母の幸福として生き続けたかった。

 だからこそ、愛する婚約者に死を望まれ続けたかった。

 フィーガスに存在を求められた瞬間から、二人の間にある感情は、愛と呼ぶに相応しいのだから。


「わたしもフィーさまが好き。ずっと待っていて。わたしの全てが、あなたの元にかえるまで」

 

 指先で触れる皮膚は暖かい。身を寄せた体躯を通して、血潮が行き渡る音がする。

 東雲の空のように美しい、少し意地悪で寂しがりな白馬の婚約者に、ライネリカは思いの丈を言葉に乗せるのだ。


「あなたが好きよ、大好きなの。わたしの全てを奪う、婚約者さま。……わたしの死を、ずっと望み続けて、待っていて」


 フィーガスの翼に囚われながら、腕を首に回して抱擁する。涙が溢れて毛並みを濡らし、離れ難く別れを惜しんだ。

 それでも彼は、婚約者の名前を呼んで顔を上げる。ゆっくりと身を離し、向かい合って目を細めた。

 大きく翼を羽ばたかせたフィーガスは、そうだ、と声をあげて、少女の唇を奪って額を合わせる。


「遅くなってごめん。16歳の誕生日、おめでとう、エイリス。この先ずっと、この時期が来るたびに君を想う。……愛してる、忘れるな、永遠に愛している、僕の婚約者殿」


 突風を纏い体躯は浮き上がり、フィーガスの体温が風に解けた。階段を上るように空に舞い上がる白馬を追いかけ、荷馬車に乗り込んでいたバラとリンドウの所へ、ライネリカは走り寄る。

 二人の腕に引き寄せられ、御者席の中央に腰を下ろした。両親の間に挟まれ、少女は涙を拭いて笑顔で片手を上げる。


「わたしもよ、フィーさま。大好きなわたしの婚約者さま! また会いましょう、それまでどうか、元気で!」


 リンドウが手綱を操り、荷馬車に繋がれた馬がいなないて、緩やかに山道を走り始める。

 雲一つない晴天には、白馬が掛ける軌跡が、美しい光となって弧を描いた。

 虹よりも鮮やかに輝くその光は、祝福するように親子三人の行く道を照らしていく。



 シスボイリー国の方角へ向かっていくフィーガスを、じっと見つめていた愛娘に、バラは目尻を緩ませて肩を抱いた。リンドウも手綱に注意を向けつつ、体を寄せて頭部に頬を擦り寄せる。


「エイリス、どうして泣いているのですか」


 優しい父の体温と、暖かな母の声が、涙を溢す己に問いかけた。


「寂しいの」


 言葉にすれば感情は膨れ上がり、両手で顔を覆い隠す。


「フィーガス閣下とは、必ず会えるよ。今生でも君に会いに来てくれる。それでも泣くほど、寂しいのかい?」


 バラの片手がゆっくりと短髪を撫でる。

 嗚咽に喉が締め付けられて、瞳さえも零れそうなほど涙が頬を伝った。頷くたびに視界は滲んで、透明な水滴は衣服を濡らしていく。

 リンドウは愛娘の体に片腕を回し、励ましに似た仕草で二の腕を叩いた。 

 これから先、麗らかな陽だまりに似た愛を、生涯抱えて生きていく。

 何が待ち受けていようとも、困難が立ち塞がったとしても、フィーガスが変えた自らの未来を信じ、歩んでいく。

 だから今だけと懺悔して、父母の優しさに甘えて、エイリスは胸をつらぬく寂しさと幸福に、しゃくり上げた。


「っ、っ、もっと声が、聞きたかった。もっと傍にいたかった。もっと、もっと、好きだって知って欲しかった。……フィーさま、……フィーさま、わた、っわたし、……こんなわたしを、知らなかったの……!!」


 

 遠く、山脈を越えた空の向こう、どこまでも穏やかな日差しが降り注ぐ。

 荷馬車は山道に轍を作りながら、緩やかな坂道を越え、心を寄せ合う親子の旅路を描いていた。

 






 

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