第145話





 柔らかな風が吹いて、青空に木の葉が優しく舞った。

 広い山道の傍に荷馬車を止め、布で天井を作った荷台に、リンドウとキリノスが手際よく荷物を積み込んでいく。

 当面の生活は困らないほどの量に、アスターは満足げに笑みを深めて、ドレスを持ち上げライネリカの前に膝をついた。


「主さま。どうぞ、良き旅路を願っております」

「……はい」

「わたしは護衛の任にはつけませんが、心ばかりの品をお贈り致します。主さまの美しき御身と栄光に、どうぞ、輝かんばかりの未来がありますことを、お祈り申し上げます」


 片手を胸に当てて首を垂れる彼女に、ライネリカは眉尻を下げた。

 彼女は生まれながらの騎士である。これからも武人としての才を遺憾無く発揮し、リュグザを助けて行く事だろう。そしてきっと、ライネリカが平民となっても、彼女は変わらず主君として仰ぎ、敬意を示してくれるのだ。

 ライネリカは横からラジレイシアに抱きしめられ、視線を向けると、姉は微笑んで短い髪を撫でた。


「アスター。おもてをあげなさい」


 ラジレイシアの一声に迷いなく顔を上げたアスターは、しかしライネリカの顔を見た途端、微かに呼吸を詰まらせる。

 姉と共にそれぞれ片方ずつ手を伸ばせば、騎士は表情を歪めて、愛する女神をその腕にかき抱いた。

 しなやかで筋力のある肩が細く震え、ライネリカの肩口が微かに濡れる。


「無事でいてね、主さま。あたしは、っあたしは、あなたの騎士で、あり続けることが、何よりも誇りなの」

「アスター」

「ラジーさまは必ず、お守りするわ。誠心誠意、尽くして生きるわ。っ主さま、主さま、どうか、幸福の中にいて。あたしの目の届かない場所にいても、知らない日々を送っても、誰よりも暖かな幸福の中にいて」

「もちろんよ、アスター。……あなたと約束する」


 嗚咽を零し咽び泣く彼女は、ライネリカの返答に更に頬を涙で濡らして、ラジレイシアと共に抱きしめる腕を強くした。

 暫し励まし合いながら抱擁し、アスターはキリノスが差し出したハンカチで涙を拭うと、そっと身を離す。そしてドレスの裾を持ち上げて再び膝をつき、深く、深く首を垂れた。

 大国シスボイリーの新王と皇后に、躊躇なく隷属の辞儀をさせるなど、世界中どこを探してもライネリカしかいないのだろう。いつまでも彼らは、自分を守護してくれる。己の不甲斐なさを感じる反面、その事実にライネリカは心から感謝した。


「ありがとう、我が騎士。いつまでもあなたの未来に、幸多き事を」


 アスターが顔を上げるのを見計らい、額に口付けを贈る。

 彼女は感極まった様子だが、それでも言葉を全て飲み込んで、静かに立ち上がった。

 リンドウとバラに支えられつつ、大国の馬車に戻っていく様子を見送って、ライネリカは姉兄きょうだいに向き直る。


「……手紙は、書かない方が、良いですわね」


 鼻の頭を赤くしたラジレイシアが、小さく呟いた。

 ライネリカの安全を考慮し、遠方へ行くのだ。ここ暫くあった騒動で、ライネリカを恨む人間が居ないとも限らない。所在を示す物質的証拠はない方が良いと、彼女は気丈に微笑んだ。


「ですが、いいですわね。あたくしのネリカ。いつでも助けを求めなさい」

「そうっスよ。俺たちはシスボイリーで厄介になっているから、心配しなくていいからな」


 リュグザと同じくライネリカを案じる彼女たちの目には、妹に対する心配と、門出を祝う光が溢れている。

 ライネリカは溢れかけた涙を拭い、二人を抱きしめて頷いた。

 リュグザの言う通りだ。ライネリカという存在が変わっても、これまで過ごしてきた日々が無くなるわけではない。たとえ最期まで頼る事がないのだとしても、寄る辺がある事実が、自身の心を奮い立たせてくれるのだ。

 

「はい、……ラジーお姉さま。キリノスお兄さま。どうかお元気で」


 ひくりと喉を震わせたラジレイシアが、何かを言おうとして、唇を噛み締める。笑顔で別れようと思ったのだろう。涙をたたえても、ぎこちない笑みでも、姉はいつまでもライネリカの憧れであった。

 キリノスが小さな体を抱き上げて、祝福を授けるように額を合わせる。目を閉じる三男にライネリカも目蓋を閉じれば、彼は穏やかに声音を和らげた。


「大丈夫、お前なら。どこへ行っても幸せに暮らせる。俺たちの大好きなライネリカ。体に気をつけて、父君と母君と仲良くな。……生きていれば、また会えるさ」

「っ……はい……!」


 涙声で何度も頷き抱きしめ合って、キリノスは名残惜しげに少女を離す。そしてラジレイシアの肩を抱くと、ライネリカの傍に戻ってきたリンドウとバラに、揃って顔を向けた。

 ラジレイシアが侍女服の裾を持ち上げ、キリノスが胸に片手を当てて一礼する。


「あたくしたちの宝物いもうとを、どうぞ、よろしくお願い致しますわ」


 顔を上げた二人は、ライネリカに向けて笑顔を見せると、片手を振って馬車に戻って行った。

 シスボイリー内の体制が変動し、その最中に公務を抜けてきたと聞いている。こうして挨拶が出来ただけでも、四人には感謝してもしきれない。

 深く頭を下げる両親の間で、ライネリカは大きく片手を振って、キリノスが御者を務める馬車を見送った。

 窓から顔を出したアスターとラジレイシアの、大好きよ、と伝える声が風に乗っていつまでも耳に残る。

 道の向こうへ見えなくなってからも、ライネリカは暫く手を振っていた。

 視界は滲んで、嗚咽がこぼれても、精一杯に。


「…………エイリス」


 両手で顔を覆い、肩を震わせるライネリカの鼓膜を、愛おしい声が震わせた。


 

 

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