第143話




 第二王子はシガリア鉱物において、第一責任者だ。どのような作用を引き起こす衣服か、知らずに作らせたとは思えない。

 バラが『騎士』の能力を持ってしてでも、鉱物が混ぜ込まれた薬物は、回復に時間を要したのだ。ただの人間である男が、これほど多量に吸い込んで無事でいられる訳がない。

 肺に取り込まれた粉末は体内を犯し、血液を通して全身を巡り、神経に過剰な興奮を与えていたはずだ。その負荷に対して人間の身体は、あまりに脆弱すぎる。

 ここにある多量のシガリア鉱物も影響したのだろう。互いに作用したそれらは、結果として男に襲いかかったのだ。


「……君は言ったな、兄弟として、家族として、そもそも破綻していたのだと。……その通りだ。実の兄を実験台にするなど、弟のすることじゃない」


 だが、と言葉を切り、彼は陰惨に笑った。

 口角を吊り上げた横顔は、彼が人型の造形を模しているリュグザによく似ていて、ライネリカは息をのむ。


「君が僕の婚約者にしてきたことは、そういう事だ。……因果応報というやつだな。良かったじゃないか、最期に知る事が出来て」


 大きく目を見開いた男が、悔しげに細かく痙攣する。

 呻き声を上げながらもがいて、しかし四肢は宙を揺れるばかりで、起き上がることも出来ない。

 濁っていく瞳孔が、ライネリカを見つめた。

 名を呼ぼうとして開閉された唇は血塗られて、ただ、滑る。


「……エイリス、待つんだ」


 腕から降り、足を踏み出そうとした時、フィーガスに肩を掴まれ引き寄せられた。


「っで、でも、フィーさま、このままじゃ、死んじゃう……!」

「助けるのか? 君に触れたのに?」


 背後を振り向きながら咄嗟に叫べば、彼は感情の乏しい表情でライネリカを覗き込んだ。

 責める響きのある言葉に、ライネリカは肩を跳ねさせる。


「それに君はもう、シガリアの半心としての力はないだろう。『騎士』の能力が消えたのは、おそらくその為だ」

「そ、れは、……でも、これじゃ……」

「僕に望むか? 僕の愛する君に触れた、この男を助けろと」


 真っ直ぐに見据える目は、決して逸らされることはない。ライネリカはひくりと喉を震わせ、真っ青な顔で視線を迷わせる。

 この男が自分やフィーガスに対し言い放った言動を、理解するつもりも許容するつもりもない。フィーガスの怒りは尤もであり、ライネリカが男の救命を彼に求めることが、お門違いな事も分かっている。

 だがそれでも見捨てることを、思考は拒絶するのだ。

 どのような理由があるにせよ、男がライネリカの兄として、一人戦っていた事実は消えないのだから。

 ライネリカは唾を飲み込んで渇いた喉を湿らせ、両手で涙の痕を拭い、フィーガスを見つめ返す。

 

「助けて欲しい、フィーさま」

「……」

「わたし、もう二度と、この人に会うつもりはない。……だけど、ここで見殺しにするなんて、いや」

「だから慈悲をかける? ここで助けても、きっと兄様と義姉様に殺されるぞ」

「こんなの慈悲じゃない。わたしの心に、住み着いて欲しくないの」


 フィーガスが僅かに呼吸を止めて、口を閉ざした。

 床に倒れたまま細い呼吸を繰り返す男は、ライネリカの言葉に瞠目して涙を溢れさせる。

 

「わたし、悪い女なの。知らない場所で、どこか遠くで、この人がどうなろうと、わたしは知らない。でもここで見殺しにしたら、わたしの記憶に残り続けるわ」


 慈悲などという、美しい言葉で表して良い感情ではない。

 これは利己的で傲慢な、隙のない拒絶だ。

 見殺しにすればライネリカの心に、兄であった男の存在が永遠に巣くうだろう。それを振り切れるほど、ライネリカの思考は強靭ではない。この男がこれまでライネリカに寄り添い、励まし、盾となり護ってくれていた事実もまた、色褪せない親愛なのだ。

 だから助けたいのだと、ライネリカは言葉尻を震わせる。


「わたしの全部を支配していいのは、フィーさまだけ。わたしはずっと、これからも永遠に、そう思って生きていきたいの……!」


 地下神殿を覆うシガリア鉱物が、一斉に白銀と輝いた。

 涼やかな風を纏って、翼の生えた白馬の姿に戻ったフィーガスが、黒曜石に似た瞳を細める。

 ライネリカは腕を伸ばして面長の顔を抱きしめ、鼻梁に頬擦りし目蓋を閉じた。

 衣服の胸元に鎖をつけて忍ばせておいた、透明な鉱物が熱を帯びる。そして生きていたシガリアの証しは、泡となり弾けて消えた。


「……これだけあっても、ギリギリだろうが……。……仕方がない。惚れた弱みというやつだな」


 どこか諦めにも聞こえる声が笑う。

 薄らと目蓋を開ければ、白馬の体躯も鉱物に呼応するかの如く、美しい輝きを帯びた。触れる皮膚は脈拍を伝え、彼がおもむろに顔を上げると、ライネリカの唇を吐息が掠めていく。

 翼が広がり視界を遮り、彼はライネリカを肩の方に寄せると、男へ視線を向けた。

 光のない目で、呼吸は虫の息だ。それでも嗚咽を溢し、時折、愛した女に呼びかけようと口を開閉させる。

 もう二度と出会うことはないだろう。

 この人生の中で、この生を終えても、永遠に。


「…………さようなら、ラインギル兄上さま」


 閃光は視界を真っ白に染め、フィーガスに寄り添うライネリカの足元からも突風が吹き上がる。

 フィーガスが蹄で大きく床を打ち鳴らした刹那、この場所にある全てのシガリア鉱物が、甲高い音を立て崩壊した。

 

 


 


 


 


 

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