第142話




 鋭利な切先が衣服の胸元を触れる直前、背後から襟を掴まれ思い切り抱きしめられた。

 突風を纏いながら瞬時に人型へ変化したフィーガスが、自らの力で男の短剣を制止させる。

 フィーガスの衣服を彩る鉱物が、反動で一斉に砕け散った。悲鳴を上げて縋りついたライネリカに目を向ける事なく、フィーガスは目蓋を眇めて男を睨みつける。

 短剣の切先はフィーガスの片腕の、すぐ先にある。先ほどのように突き飛ばしたいのに、力が拮抗しているかの如く、カチカチと歪な音を鳴らして装飾品の残骸に触れた。


「……僕の力に抗っているのか?」

 

 部屋を覆う鉱物が、足元から脈動するように光を帯びた。フィーガスの呼吸が白く色をつける。

 男は血走った目で笑い、筋肉を痙攣させながら不自然に硬直する腕を揺らした。

 

「ラヒューレが俺の安全の為にと、改良を重ねてくれたおかげだ」


 男は身に付けている衣服が、第二王子が改良を重ねてくれた護身用の衣服なのだと、柔らかく笑む。シガリア鉱物を練り込んだ糸で織られ、己の身体を襲うあらゆる攻撃を吸収し、半ば無効にできるのだと。

 ライネリカは瞠目し息をのむ。

 ラヒューレがラジレイシアの嫁ぎ先に販路を広げたかったのは、織物産業にシガリア鉱物を売り込むこと。この規格外に人外的な衣服の作成に、意欲を示したからなのだ。

 おそらく第二王子はこの衣服を量産して、武力国家シスボイリーへの貿易に発展させようとしたのだろう。

 だがそれを踏まえても、この男の現状は異常だ。

 異形の力を行使するフィーガスと、普通の人間である男の腕力が互角に渡り合えるはずがない。

 ライネリカの足元で、シガリア鉱物にヒビが入り始める。

 少女の胸元を護るように、両腕で抱き締めているフィーガスが、微かに低く呻いた。


「閣下。貴方がこちらの環境に適応できないのは知っている。これほどシガリア鉱物があったとしても、力を使い続けたまま人の姿を保つ事は難しいだろう」


 冷や汗が背中を伝い、ライネリカはフィーガスの横顔を見る。


「ライネリカが俺を理解してくれないなら、時間をかければいい。二人で話し合って、触れ合って、未来へ営んで行けば、ライネリカも俺の愛情を理解してくれる。閣下、貴方の事は感謝している。だが少し、でしゃばりだ」


 かつ、と嫌な音がして、刃物の先はフィーガスの装飾を突いた。

 シガリア鉱物に造詣が深いのは、確かにフィーガスだ。だがライネリカを庇うため、咄嗟に人型へ変化した白馬と、興奮に加え原理不能な身体状態の男では、圧倒的に後者が有利だろう。

 空間に影響され砕け始めたシガリア鉱物が、最後の一つになった時、先に倒れるのはフィーガスの方なのだ。


「すごいな、ラヒューレの作ったものは。力が奥底から湧いてくる。今なら貴方を殺せそうだ、オージオテラサス弟王閣下」

 

 兄であった男に訴えかけようとした時、フィーガスが片手でライネリカの口を覆った。


「貴方は所詮、異形の王。この子と生きる時間も、愛の伝え方も、何もかも違う」

「……そうだな」

「シガリア鉱物がなくなれば、貴方はライネリカに触れすら出来なくなる。だが俺はできる。俺はライネリカに触れて、ライネリカの奥底を愛して、寂しい朝に名を呼んで、恐ろしい夜を共に越えられる」

「…………そうだろうな」

「分かってくれ、閣下。俺はライネリカの人生で、唯一の男になれるんだ……!」


 フィーガスの吐息がライネリカの耳朶を掠める。少女の口を覆ったまま、彼は黄金色の双眸を細めて、小さく呟いた。


「あるいは、、か」


 ライネリカの視線の先で、男の鼻から血が垂れた。

 え、と掠れた声は音にならず、男は驚愕した様子で視線を揺らす。

 次第に両膝が震え始め、口から赤黒い血を溢すと、力を失ってその場に尻餅をついた。

 両手でフィーガスの片手の上から口を覆ったライネリカを、婚約者は軽い力で抱き上げて、数歩、男から身を離す。


「な、……え、……なん、……?」


 ライネリカ以上に男自身が、自分の状態に混乱しているようだった。短剣を取り落とし、鼻と口を片手で押さえようとするも、痙攣した肉体は思うように動かず、そのまま背中から床に倒れ込む。


「っひ──!? ……フィ、さま、……これは、なに、何が」


 蒼白な顔でフィーガスの首に腕を回し、必死に抱きついた。

 濁った瞳でこちらを見上げる男は、発声する力もないのか、ただ口を開閉させている。呼吸音には空気の抜ける音も混ざり始め、ライネリカは慄いて言葉を無くした。

 少女の背を優しく撫でたフィーガスは、僅かに眉を寄せ息をつく。


「……その服はシガリアが排出する鉱物を練り込んだ布、だったか。……知っているだろう、ラインギル。鉱物を砕く事が、どのような使用を想定しているか」


 シガリア鉱物は、それその物に害はない。

 有害なのは薬物と併せ、身体に取り込んだ時。感情の起伏を激しくし興奮を煽り、思考能力を大胆に変化させ、一時的な身体強化の一翼を担う。


「君は先ほど、力が湧いてくるようだと言ったな。あり得ないと思わないか? あらゆる防御に長けた布だとして、なぜ身体に影響する?」

「っ、っ、……!」

「君が袖を払って、粉末が飛ぶほど多量に使われているんだぞ。あえて吸い込ませる目的しか考えられない。……こんなものが世に流通したら、あっという間に世界中、薬物中毒だ」


 男は身体の状態以上に、顔色を無くした。何度も首を横に振ろうとして、しかし上手く動かず、喉の奥から悲鳴を引き摺り出す。

 腐ってもエイロス国第一王子だ。そんな気があり着用したつもりは、毛頭ないだろう。

 彼は弟の親愛を信じたのだ。

 シガリア鉱物に狂った弟の、良き実験台になっていることも知らずに。


 

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