第141話
勝利を得たと言わんばかりの男に、フィーガスの気配が強張った。男の表情には憎悪と嫌悪が浮かび、ライネリカに対する憐憫すら感じられる。
ライネリカは息を呑んで、拳を作った片手を己の胸に押し当てた。
「貴方の行動はライネリカを蔑ろにするだけだ。己の欲求の為に、その子を吐け口にしているに過ぎない。それが、シガリアをこの部屋に住まわせ、甘言で唆し、愛していると嘯いた男と何が違う?」
白馬の視線が部屋を彷徨った。
おびただしい量の鉱物。生活の痕跡はあるのに、物悲しい室内。光の届かない地下室に、愛情の温もりは一欠片もない。
空を自由に浮遊する異形にとって狭苦しい部屋で、それでも男の愛情を得たいと健気に振る舞い、孤独と戦っていたのだろう。
それでも彼女は愛していた。
命を維持する為に反芻を繰り返しても、己から生み出される鉱物を搾取されても、シガリアはエイロスを愛していた。
愛してもらえると、信じていたのだ。
「あの女は俺に言った。傍にいて欲しいのに、なぜ、傍にいてくれないのかと。なぜ、名を呼び返してくれないのかと。フィーガス閣下もライネリカに同じ目に合わせるのか?」
「…………」
「ライネリカの死後は確かに貴方のものだ。だが生きている間、その子を蔑ろにし、我が儘に全て排除するおつもりなのか?」
男が鼻で笑う。沈黙するフィーガスの瞳が、徐々に歪んだ色を宿していく。
この男が言うことは確かに一理ある。フィーガス自らもライネリカが一人残されることに、それで良いのかと疑問を感じていた。
フィーガスとライネリカは共に生きられない。少女の死後、魂を迎えることでしか婚姻は出来ない。これから先、どれほど望もうとも、ライネリカが生きている限り、傍に居続ける事はできないのだ。
ライネリカは大きく深呼吸した。
吸っては吐いて、肺に取り込んだ酸素を、血流に乗せて全身に行き渡らせて、ゆっくりと男の顔を見上げる。
男の発言に間違いはない。
──それでも。
「それがなんだと言うの」
ライネリカは一歩踏み出し、両手を腹の前で組んで背筋を伸ばした。
挑むような眼差しに気圧され、男は言葉を飲み込んで口を引き結ぶ。
「フィーさまとの婚姻がわたしの死後で、その間、わたしが一人残ったからと言って、それがなんだと言うの」
「……ライネリカ。強がりは若いうちだけだ。老齢になるまで一人きりで生きていくのか? 俺ならお前を」
「わたしを愛していられるとでも? たかが十五年しか待てなかったあなたが、フィーさまの孤独を侮辱しないで!!」
眩い星屑の瞳に涙を浮かべ、思い切り男の頬を叩き飛ばした。
乾いた音を立てて空気に響き、しかし大した衝撃は与えられていない。代わりに叩いた己の手の平が痛く、ライネリカはゆっくりと拳を握りしめる。
胸に湧き上がるのは激しい怒りだ。未だかつてないほど、自身も経験した事もないほどの渦が、胸を渦巻いて少女の心を奮い立たせる。
「わたしが待たされるんじゃない。フィーさまがわたしを待っていてくれるの。これから五十年かもしれない、百年かもしれない、わたしの魂がフィーさまの元に向かうまで、幾星霜もかかるかもしれない。それでもわたしの婚約者として、ずっと待っていてくれると言ってくれたの」
男の相貌が苦しげに歪む。そこにある感情がフィーガスに対する侮蔑であることを、理解する度にライネリカの心臓は鼓動を強めていく。
「フィーさまは養母さまを失ってから、お兄さまを失ってから、そしてこれからわたしの魂を迎えるまで、いつかを待ち続ける人なの。わたしの全部を奪っていく人なの。たかが寿命の間だけわたしを得ようとするあなたが、わたしの愛する婚約者さまを笑わないで!!」
喉が震えて涙が散った。無様に泣きなくなどないのに、涙は勝手に溢れて頬を濡らす。
目元を拭わず、視線も逸らさないライネリカに、呆けた顔を見せていた男が、緩慢な動作で腕を伸ばした。
「……ライネリカ、俺はお前が生きている間、孤独にはしないのに……」
指先が触れようとすれば、ライネリカは凛然とした態度で叩き払う。
男の表情に動揺が表れ、彼は己の片手を引き一歩、後退した。そして絶望を滲ませる声音を、喉の奥から絞り出す。
「やめてくれ、ライネリカ。俺はお前と生きるために生きてきた。全てを投げ捨ててきた。もう十分に待っただろう? どうしてわかってくれない? お前がいない日々など、生きていけない……!」
エイロス国としては異端児であった彼が、ライネリカを救おうとしてくれた心は本物だ。そこにどんな下世話が潜もうとも、彼の尽力が一端を担っていることを否定はしない。
だが、ライネリカにとって兄なのだ。
男女の情を向けられても、血の繋がりがないのだとしても、ライネリカが妹の枠組みから脱する事はない。
「……分からないわ。きっと、一生、分かり合えない。わたしはあなたが傍に居なくても、お父さまとお母さまと一緒に生きていける。一人で生きることになっても、フィーさまが待っているから生きていける」
力が抜けてその場に座り込んだ男を、未だ怒りが引かない双眸で見下ろした。意識的に伸ばした背筋はそのまま、様々な感情を飲み込んで深く呼吸する。
「わたしの全部を奪っていいのは、あなたじゃない。……わたしは生まれた時から、フィーガスさまの婚約者だから」
色を無くした男が静かに項垂れる。そして水滴を零して床を濡らした。震える方は次第に大きくなり、ライネリカは唇を噛み締めて足元に視線を落とす。
その時だった。
自身の胸元に迫る刃に、気がついた、のは。
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