第140話
派手な音を立てて、男の体は隣の部屋まで吹き飛んだ。
並べられた家具にぶつかり、シガリア鉱物が砕けた破片を撒き散らしながら、煙が立って姿が見えなくなる。
「僕の婚約者に何をしている、ラインギル……!!」
フィーガスの声に反応し、空間を覆うすべての鉱物が反響した。それは皮膚に振動を伝えるほどの怒りとなって、白馬は蹄で床を打ち鳴らす。
ライネリカはベッドから飛び起きて、両手の拘束具の重さで転倒しそうになりながら、夢中でフィーガスに飛びついた。
「フィーさま!」
「ああ、エイリス! もう大丈夫だ。……怖い思いをさせた。すまない」
いくらか気配を和らげた彼は、ライネリカの手枷に目を留めると、口先で触れ、音を立てて器具を破壊する。
あまりに簡単に壊れたそれに呆気に取られ、ライネリカは翼の中に囲われながら、そっとフィーガスを見上げた。
彼の目はずっと、男が倒れている方角に注がれている。空間を捻じ曲げ飛んできた反動を受けている様子もない。触れる体表は熱を帯び、苛む怒りが皮膚を痺れさせるようだった。
視線に気がついたフィーガスは、ライネリカを一瞥すると、優しく頬を擦り寄せる。ライネリカも白馬の面長な顔を抱えて、ようやく安堵の息をついた。
「……いたた……、体を守るとはいえ、衝撃を殺せるわけでは、ないんだな……」
状況にそぐわない声が聞こえ、フィーガスが少女から顔を離す。
男はライネリカが器具で叩いた時と同様、やはり傷を負った様子もなく、緩慢な動作で立ち上がった。
「これは閣下。よくこの場所がお分かりになりましたね」
「……先ほどの答えになっていない。僕の婚約者に何をしている、ラインギル」
「ああ、申し訳ない。やっとライネリカを手に入れられたので、危険がないように連れてきたのです」
答えになっていない言葉を、男は恍惚を滲ませた声音で発する。
「僕の婚約者を連れ去った弁解が、それか?」
「連れ去る? なぜです? ライネリカが生まれた時から先に愛していたのは、俺ですよ、閣下」
口元には感情を浮かばせているのに、瞳孔の開いた双眼には色が宿っていない。
慄いたライネリカが半歩足を後退させると、フィーガスが翼で更に自身の体躯に寄り添わせる。
男は歪な表情のまま、視線だけが少女を捉えていた。
「おかしい事を言わないでください。それとも閣下は、略奪愛をご所望なのですか?」
「頭がおかしいのは君だ。ライネリカは君の妹だろう」
「そうですよ、妹でした。ようやく夫婦になれます」
「……っ僕の婚約者だと言っているだろう、この痴れ者が……!!」
対峙する男の体が宙に浮いた。ライネリカが思わず目蓋を閉じれば、凄まじい音を立てて床が振動する。
吐き出す白い息を纏わせ今まで見たこともないほど、フィーガスは怒りを露わにしていた。触れる体温は上昇を繰り返し、ライネリカは慌てて白馬の首元に縋り付く。
「フィ、フィーさま、待って」
「くそっ、くそ、くそッ、僕の命と等しい人に、汚い手で触れるんじゃない!! 皮膚も内臓も腐らせて殺してやる……!!」
「フィーガスさま!」
苛烈な感情をそのままに蹄を鳴らすフィーガスを、名前を呼んで意識を向けさせる。ライネリカは男とフィーガスの前に出ると、白馬の鼻梁を優しく撫でて視線を合わせた。
彼は変わらず呼吸を乱しながら、額を擦り付けて低い声で囁く。
「その男を庇うのか」
「ううん、庇わない。あなたが傷つくのが嫌なの。お願い、落ち着いてフィーさま。また、体が傷ついてしまう」
フィーガスの馬具を装飾するシガリア鉱物は、先ほどから彼の感情に合わせて発光を繰り返している。
思い起こすのは、第二王子の間へ助けに入ってくれた時のことだ。
ライネリカはもう、血まみれの婚約者など見たくない。
少女の体温にいくらか落ち着いたのか、フィーガスは長く息を吐き出すと、再びライネリカに額を押し付けた。ほっと安堵の息を吐き出したのも束の間、背後から呼びかけられ驚いて振り返る。
床に叩きつけられたであろう男は、変わらず大した怪我もなく、柔らかな表情で立ち上がった。軽く片手で衣服を払えば、うっすらと輝く粒が空気に飛散する。
どうしてこの男は、平然と立ち上がれるのだろう。
恐怖に身をすくませれば、男は心底、困惑した様子で肩をすくめた。
「フィーガス閣下。後からライネリカを愛した男が、見苦しいですよ。貴方の順番は後だ」
「…………何が言いたい?」
「貴方が欲しいのは、ライネリカの死後でしょう? 俺が欲しいのは彼女の今生だ。それとも本当に閣下は、ライネリカを一人で放り出すのですか?」
フィーガスの視線が揺れ、言葉に詰まる。
「俺は彼女と生きて行くために、全てを伴って行動してきました。ライネリカの隣で、彼女の一番幸せな瞬間を共有して行きたいのです。それを貴方は出来るのか? この子が辛い時や寂しい時に、傍らにいる事ができるのか? 奪うだけ奪って人生を棒に振らせて、死後迎えにいくなど無責任も甚だしいだろう」
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