第139話




「国母にお前の体を乗っ取られたと知って、父上と母上には心底失望した。ライネリカを隠した女を、殺してしまいそうだった」


 ライネリカの腕を押さえる男の指先に、力がこもる。痛みに呻きそうになる己を叱咤し、男を見据えて奥歯を噛み締めた。

 いつからか、正確な頃合いは分からない。

 当時の自分は幼く、そういった感情があることを知らず、ただ、目の前で膝をついたを恐れた。

 祝福を授かりたいと求めた彼に、申し出が嬉しく、嬉々として己の指先を針で刺した事を覚えている。そして少年の額に押し当てた瞬間、ライネリカの脳には、許容できる量を超える感情の渦が湧き上がったのだ。

 それは決して、妹に向けるような暖かな感情ではない。

 年端も行かない子供に向ける、陽だまりに似た感情でもない。

 ライネリカは恐怖した。

 あまりに性的で浅ましく、欲情も熱情も、全てを曝け出した思考の渦であったから。

 忘れていたわけではない。

 ただ恐怖するが故に、己の身を守ろうとしたが故に、この男の弁明と甘言を──信用してしまったのだ。


「フィーガス閣下や、お前の『騎士』には、感謝してもしきれない。俺では国母の意識に訴える事はできても、お前を呼び戻すことはできなかった」


 気にかかる言い方に、ライネリカの思考は引きずり戻される。

 訴えるとは、何をしたのか。

 ふと、シガリアから身体を取り戻した時、ライネリカは自身の体に、ある違和感を持ったことを思い出す。

 片腕を一周するようについていた、赤い痣に似た痕だ。

 あの時はすぐにフィーガスが来てくれ、意識の外に追いやってしまっていたが、思い返せばあれはだった。


「……シガリアさまに、何かしたの」


 感情が削ぎ落とされたライネリカの声に、男は目を瞬かせて首を傾ける。


「言っただろう? ライネリカを返してくれと訴えた。凄まじい女だったよ。くびり殺されそうなくらいに」


 苦々しい感情を隠しもせず、彼は吐き捨てる。

 だが男は室内を見渡し、ああでも、と緩く笑った。


「ここの話をした時は滑稽だった。色々聞き出したから、心理的負荷が相当だったのだろうな。泣き喚きながら、もう居ない人間を呼ぶ姿は、まるで人間だった。抵抗されるから確かに押さえはしたが、俺がしたのはそれだけだ」


 男の指先が顎を撫で、輪郭をなぞる。眉間の皺を深めて顔を背ければ、生ぬるい吐息が首筋に触れた。 

 ライネリカの私室は、見るも無惨なほど荒らされていた。バラから聞いた話では、地震が起こる前からあの状態だったという。

 その時の事は全く記憶がなく、思い出す事は叶わない。しかしこの男の言動から、シガリアの慟哭が聞こえてくるようだった。

 男はいっそ狂気的に、目尻を下げて優しく笑う。


「慈悲深いなライネリカ。自分を取り込もうとした怪物にも、救いを施すのか」

「……」

「お前が心を痛める必要はない。あんな、自分が貶められていた事実を、愛だと湾曲する軽薄な思考の女など」


 興奮に浮ついた男の顔を見上げた。

 そこにはシガリアに対する侮蔑と、怪物と嘲る存在すら支配した愉悦を滲ませる、相貌があった。

 彼は瞳孔の開いた瞳を眩しげに細め、自身の顔を片手で触れて示す。


「俺の顔は、エイロス初代国王によく似ているのだそうだ。情緒不安定に助けを求めたところで、俺は別の人間なのにな」


 ライネリカはカッと頭に血が上り、己の両手にはまる拘束具で、男の顔を叩き飛ばした。

 突然の衝撃に驚いた彼は、よろけて体勢を崩し、片腕をついて己の体重を支える。


「っシガリアさまを辱めたのね!?」


 声を上げて糾弾すれば、男は表情から徐々に感情が抜けて、死人のような顔色で変色した唇を震わせた。

 硬い器具のはずなのに、皮膚には打撲痕すら浮かばない。

 おかしいと、咄嗟に身を竦ませた。


「……あれはライネリカじゃない」

「やめ、て」

「ライネリカじゃない女が、お前のふりをして良いわけがない」

「やめて、来ないでっ! わたしはフィーさまの」

「婚約者だからとでも言いたいのか? 死んでからしか婚姻しない関係が、笑わせる……!!」


 穏やかであった気配は霧散し、男は再びライネリカをベッドに押さえつけ、馬乗りになった。

 血走った目は記憶に新しい。シスボイリー国亡き第三皇子と同じ、情欲に狂う瞳だった。否、それよりももっと、根本的な劣情具合が違う。

 ライネリカを渇望し続けた男の、枷が外れた表情だった。


「俺が欲しいのは、生きているライネリカだ。死んでからなどどうでもいい。お前はこれから長く生きていく。幸福の中で、俺の隣で生きていくんだ」

「違う、わたしの全ては、お父さまとお母さまと一緒にあって、フィーさまに奪われる為にあるの! あなたが好き勝手できるものじゃない!」

「生きている間に、お前を孤独にする男に何を求める? 俺ならずっと傍にいてやれる。そうだろう、ライネリカ……!」


 片手がライネリカの細い顎を捉え、呼吸を塞ぐように後頭部を枕へ押し付けられた。骨が軋んで痛みが走り、ライネリカは恐怖に錯乱しかけて闇雲に腕を振り回す。

 非力な体では抵抗もままならず、心身ともに絶望が押し寄せて目蓋から涙が溢れた。必死に押し返そうとブーツを振り上げた両足に、男の片手が撫でさする。

 いやだ、とライネリカは泣き叫ぶ。

 まだ何も、愛した人に伝えられていない。 


「やめ、いやだ、やだ、やめて、やめてっ、フィ、っ、っフィーさま、フィーさま──ッ!!」


 婚約者に助けを求め、吐き出した息が

 裂け目の如く暗闇が渦巻いて、空間が歪む。次いでけたたましい破裂音が室内に反響し、男の体が真横に吹き飛んだ。

 ライネリカは咳き込んで体を丸め、ベッドの傍らに降り立った白馬を見上げ目を細める。

 光り輝く馬具の装飾を浮かばせたフィーガスは、燃えるようなで男を睨みかけりたった。

 


  


 


 


 


 

 

 

 

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