第18話





 ライネリカの目の前を、鮮血が舞う。

 悲鳴を上げた彼女は、バラに飛びついて目を見開いた。

 第三皇子の側近達が名を呼んで近寄り、兵士がすぐさま彼を守るような円陣を組む。激痛に埋めいて片手で耳を押さえ、突然の事態に辺りを見渡したジャダルの前方から、間伸びした笑い声が室内に響いた。


「やぁだ、第三皇子殿下ってば、勝手に何してくれてるの?」


 扇で口元を隠しながら現れた人物に、ライネリカはバラに抱きついたまま、呆けた顔を向けた。

 ライネリカ達が入ってきた出入り口から、共もつけずに一人で悠々と入って来たアスタロイズを、ジャダルが鬼のような形相で睨む。

 施設内で動き回っていた人々も、皇太子妃の登場には流石に手を止め、困惑気味に頭を下げ始めた。彼女はそれを横目に見てから、ライネリカとジャダルの間に割って入る。


「あらあら、いいのよ皆様、仕事を続けて。あたしはこの阿呆に用があるだけだから」

「なん──」

「阿保を阿呆って言って、何か悪いの? エイロス国の交渉権はリュグザさまにあるでしょ? 何を勝手に他国の王族をこんな場所まで招き入れてるのかしら」


 普段は柔らかな薄紅色の瞳が、怒りからか真紅に燃え上がっていた。ジャダルの兵に守られていた第二王子は、その視線を真っ向から受けて震え上がる。


「お前には関係のないことだろう! 何用で来た!」

「関係あるに決まってるじゃない、あたしはリュグザさまの妻、未来の皇后なんだから。どうしてリュグザさまが、原産国であるエイロス国の使者を、この工場に招き入れなかったか分からないの? 加工技術を原産国に盗まれたら、貿易に支障が出るからに決まってるじゃない」


 アスタロイズの主張に、第三皇子は口を戦慄かせた。

 エイロス国は加工技術が乏しい。それは間違いない。シガリア鉱物は単体でも様々能力があるが、加工品とは雲泥の差がある。日々の生活を豊かにするため、鉱物を売った国から加工品を買い求めるといった、ある意味逆輸入という事態も多々あった。

 第二王子がシガリア鉱物の加工技術を学んでいるのは、その為である。

 自国で加工できるようになれば、輸入のコスト削減になるし、国内で新たな雇用も生まれるだろう。加工技術を導入する初期投資はかかるが、長い目で見れば経済的だ。

 居心地の悪そうにジャダルを伺う第二王子に、アスタロイズは息を着いてライネリカに振り返った。慌ててバラから離れて敬礼する彼女に、美女は己の肩からショールを外すと、そっと目の前で震える小さな肩にかける。


「しかも、フィーガスさまの可憐で美しい婚約者さまにまで、手を出そうとするなんて。……あは、あたしを売女と罵る口が、聞いて呆れるわ」


 歯軋りでもしそうな勢いだった第三皇子の顔色が、一気に紅潮して俯いた。先ほどライネリカに差し出されていた片手は、体の横で強く握りしめられている。その様子に何故か、彼は正気に戻ったのだと思い、ライネリカはほっと胸を撫で下ろした。

 柔和に表情を緩めたアスタロイズは、次いで僅かに視線を下方に移し、一瞬だけ明らかに真っ青になった。

 すぐに取り繕った困り顔になったものの、真正面で見ていたライネリカはポカンと口を開ける。


「……っやーん! なにこれ、ドレスが汚れちゃってるじゃない! さ、ライネリカ第二王女殿下、あたしと一緒に行こ? あんな卑しい男の傍に居なくていいわ」

「え、あの」

「ドレスも着替えなくっちゃ! うふふ、あたしの部屋に招待してあげる! あっ、工場内の皆様〜! お騒がせしたしました〜!」


 アスタロイズは矢継ぎに言葉を並べながら、リンドウに軽く目配せする。彼はハッとして我に返り、片手で道を示しながら半歩身を引いた。巨体が動くのに合わせて、作業の手を止めて見ていた野次馬たちも、慌てて自国の皇太子妃と他国の王女に道を空ける。

 片手を掴まれ、腕に回すようにがっちりと固定されたライネリカは、状況についていけずそのまま施設を後にした。



 通されたアスタロイズの部屋は、豪華絢爛という文字がしっくりくる、煌びやかな部屋だった。

 呆気に取られて扉の前で固まっていると、彼女は大急ぎで隣の部屋に走っていく。どうやら衣装部屋らしい。その中から、落ち着いた青と、揺れる淡い黄色のアクセントリボンが可愛らしいドレスを持ってくると、控えていたバラに手渡した。ちなみにリンドウは、廊下で扉の前に陣取り待機している。

 アスタロイズには彼女を世話する侍女が居ないのか、隣室にも人の気配は全くなかった。

 彼女は先ほどと一転し、青ざめた顔で胸に片手を当て、ドレスを軽く持ち上げつつ片膝をつき、床に額がつくのではないかと思うほど、深く深く首を垂れた。


「そ、そんな、大丈夫ですわ」

「いいえ、の御身の為にございます。こちらのドレスも、主さまのご来訪の折にうれいなきよう、事前に仕立てていた物でございます。袖を通したものではございませんので、ご安心くださいませ」


 ライネリカは眉尻を下げてバラを見やり、しかしバラは当然だと言わんばかりの、憮然とした顔で頷く。彼女はライネリカに有無を言わさずドレスを着替えさせ、自らはそっと扉の前まで下がった。

 その間もけして頭を上げないアスタロイズに、ライネリカは静かに向き直って、──泣きたいくらいの安堵に、表情を歪める。


「……なのですわね?」


 そう呼ばれた彼女は美しい所作で顔を上げ、ライネリカが差し出した片手の爪先に、そっと口付けた。


「エイロス国の女神ライネリカ第二王女殿下、その健やかなる魂に我が身の全てを。アルヴィア・“アスター”・ロイズ。ただいま我が主さまの御前に、帰還申し上げます」


 


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