Ⅱ ライネリカという少女
第7話
◇ ◇ ◇
「……本当に大事ないのだな、ライネリカ」
青ざめた顔の王と王妃に、ライネリカは後ろめたさを感じつつ頷いた。
彼らには、婚約者がただ戯れに来ただけだと、そう伝えた。フィーガスはライネリカ個人と同盟を結びに来ただけで、エイロス国そのものに要件はない、はずである。特に王妃の心労を慮れば、余計な事は伝えないに限るのだ。
ゆったりとした三人がけのソファーに腰を下ろし、顔色の悪い王妃は片手の甲を額に当てて、心から安堵の息を吐く。
「よかった……、敵襲があったのかと思うほどだったのよ、本当によかった……」
「わたくしも本当に、何事もなくてよかったと思いますわ……」
心底同意すれば、彼女は力の抜けた様子で笑みを浮かべた。
確かに状況から鑑みて、敵襲と思われてもしようがないほど、フィーガスの訪問は唐突だった。神の国の住人に、人間世界の常識を解くのは、暖簾に腕押しかもしれない。とはいえやはりもう少し、節度は持って欲しいものである。でなければ家族丸ごと精神的不衛生だ。
疲れを相貌に滲ませたライネリカに、王妃の隣に座る父王が目尻の皺を深める。
「オージオテラサス弟王殿下が、お前を気に入って下さったとしても、無理はしないように。成人を迎えたからと言っても、お前はまだ幼い。選択肢がないとは言え、お前の尊厳は守られるべきだ」
「お父上さま……、ですが婚約者のお馬様に、わたくしの意志が伝わるかどうか……」
「そうだな……、まさか大国から命じられた婚約者が、あのような方とは……。辛くなったら言うんだぞ、何だって力になろう」
真剣な相貌で顎をひく父王に、ライネリカは目を瞬かせた。隣で王妃も、唇を引き結んで頷いている。暖かな心遣いに顔を綻ばせると、眉を下げて首を左右に振った。
「ありがとうございます、お父上さま、お母上さま。ですが、わたくしのワガママで国を危険に晒せませんもの、何とか自力で乗り越えますわ」
「無理をしてはダメよ、貴女は私たちの大切な子なのだから、ライネリカ」
言い募る王妃に再度笑みを返し、ライネリカはテーブルに目を向ける。
彼らの労りは、純粋に嬉しい。
しかしエイロス国は、武力を持たない国だ。騎士はいるが、あくまで個人を護る為の騎士であり、屈強な強者達に攻め入られたら、国民はひとたまりもない。ライネリカが嫁ぎたくないと駄々をこねて、大国に余計な目をつけられるわけにはいかないのだ。
それにライネリカは、フィーガスと同盟を結ぶ運びとなった手前がある。容易に助けを求めるわけにもいかなかった。
「ライネリカ……ッ!」
王と王妃の前から退室し、バラとリンドウと共に自室へ向かっていたライネリカは、焦る声に呼び止められた。
「兄上さま」
振り返った視線の先で、困惑を隠せない第一王子が足速に近づいてくる。彼は焦燥を浮かべる妹姫に言葉を詰まらせた後、両手で優しく白い頬を包み込んだ。
「無事でよかった。お前の婚約者様が乗り込んできたと聞いた時は、肝が冷えたよ……」
「ええ、わたくしも……心臓がすくみ上がって寿命が縮まりましたわ」
「まったくだ」
よしよし、と髪を撫でる筋張った手は、ライネリカに勇気をくれる。彼女は筋肉の強張りが解けていくのを感じつつ、安堵の笑みを浮かべて眉を下げた。
エイロス国は子宝に恵まれ、王子三人と姫二人がいる。みな仲が良く、二人の王子は外交や貿易関連で、姉は隣国への婚姻と、それぞれ国を出ているものの、頻繁に近況を伝え合っていた。今回の婚約者押しかけ騒動もどうやら早馬が走ったようで、ライネリカが一番信頼している姉が、一時帰国の準備を進めているという。
第一王子は癖のある灰褐色の髪を片手で乱し、長く溜め息を吐き出した。
「ラジレイシアの怒りようったら、手紙越しでも伝わるほどだったよ」
その言葉に、ライネリカは思わず苦笑を零す。
今は隣国に嫁いだ姉は、妹をそれはもう可愛がっていた。政略結婚相手に嫁ぐ際も、最後まであの手この手で抵抗していたくらいである。ライネリカの危機は姉の危機であると言わんばかりで、他家族は呆れやら微笑ましいやら、微妙な心境であった。
「……でも、本当に。ラジーほどでないにしろ、みんな、お前を心配している。相手は、……その、白馬様、なのだというし……」
言いづらそうに視線を彷徨わせた第一王子に、彼女も口を閉ざす。数秒の沈黙の後、彼は表情に笑みを作って、そっとライネリカの肩を叩いた。
「俺では何も力になれないかもしれないが、困ったときは相談してくれよ」
「もちろんでございますわ」
励ましの言葉を残して公務に戻っていく彼を見送り、ライネリカは通路より開いた窓から外を見つめる。鉱山脈の麓へ流れる川や湖は、高台にある城からよく見えた。
黙するライネリカの後で、リンドウがおずおずと口を開く。
「姫様。このまま、弟王様の言いなりでも、いいんですか?」
「……リンドウ、言葉は慎むものでございますわよ」
お人好しで穏やかな近衛兵の、珍しく棘のある言い回しに、ライネリカは肩をすくめた。
「良いも何も、判断が難しいけれど……少なくとも悪意ある方ではないとは、思いますわ」
「……ボクらは姫様が望めば、なんだってできるんです。お命じください」
リンドウがバラに目を向ければ、彼女も顎を引いて頷く。
二人の気持ちは本当に嬉しいものだが、己を守りたいが為に逃げ惑うのは、王族としてあまりに自分勝手が過ぎる。彼女は自らの役割を理解しているし、この立場が最善だと思っている。かと言って戦争の火種となるつもりもない。
悔しい気持ちに嘘はないが、全ては祖国の安寧の為だ。板挟みだと苦く笑っても、彼女の全てはそこに終着する。
ベルジャミン王家を支える、第二王女たるライネリカは、そうでなければならないのだ。
彼女は短い髪の毛に触れ、目蓋を伏せる。
「……行きましょう、二人とも」
再び前を向いたライネリカは、返事を待たずに歩き出す。
背後でリンドウが、もどかしげに口を開いては閉じてを繰り返し、しかし音にはならずに飲み込んで、腰から下げる剣の柄を片手で強く握り締めた。
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