Disorder

 目的のマンションに到着したのは、時計の針はきっかり二十四時を指した頃だった。国道から徒歩十数分。郊外に位置する住宅街のど真ん中。平原に生える一本の大木のようなそれは、否が応でも目についた。


 敷地に足を踏み入れながら、空へと突き刺さらんばかりの建物を見上げる。建物から漏れる常夜灯の光は、辺りの街灯よりも明るく、どこかの部屋からは室外機の、人工的な低い唸りが響いていた。周辺は緑の生い茂る公園に囲まれていて、気休め程度だが、自然を感じる。それでも、都市特有のドブの臭いは一切、掻き消せていなかった。この場所だけが、綺麗な肌にできた腫れ物みたいに、異物感を放っている。


 資料によると、このマンションは四十九階建で、上から見た図は菱形になる造りらしい。しかも、賃料はこの辺り一帯の相場の、数倍は下らない。所謂、高級志向のマンションということだ。


 できれば、近寄りたくはなかった。こんなところに平気で住んでいる人間の顔なんて、見たくない。きっと、洞窟の中で暮らしていた原始人みたく、想像もできない生活を送っているのだ。そんなのだから、病を患い、臭いにも気付けないのだろう。


 悪態は頭の中で、止めどなく溢れてきた。でも、仕事を放り出すわけにはいかない。そうしてしまえば楽だけど、生きたくないと主張しているのと同じだ。明日を生きるためには、働く必要がある。少なくとも、僕はまだ死にたくはなかった。無論、そう言い聞かせたところで、やりたくないという気持ちは、健在だけれど。


 無気力を溜息と共に押し出す。長い遊歩道の先に、ようやくエントランスが見えた。さり気なく周囲へ目を配る。人の気配はない。侵入するには好機だった。


 ホテルと見紛うほどに、豪奢な扉を人一人分だけ開けて、身体を滑り込ませる。高い賃料の割に、自動ドアではなかった。中は非常に広い。壁は淡いピンクの大理石で造られており、暖色系の明かりがそれを照らしている。何だか、高級な牛肉を彷彿させる色合いだ。天井までの高さは四、五メートルほどあるだろう。かなり開放的だった。


 その天井には、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アダムの創造』が描かれていた。どういう趣向や、意味で描かれているのかは分からない。だけど、最悪のセンスだな、というのが正直な感想だった。


 インターホンへと近付き、キーパネルに鍵を差し込む。何世代か前のパネル。ぐるりと鍵を回すと、アーチ型の自動ドアが、開錠の音と共に僕を招いた。ドアの向こうから、これまた人工的な空気が流れてくる。壁の色味も相俟って、大きな口を開けた怪物みたいな見た目だ。薄気味悪さを覚えつつ、僕は中へと足を踏み入れる。


 今回の仕事もいつも通り、事後処理はしてくれると聞いていた。指紋や血痕なども、片付けてくれるらしい。でも、経費削減のためか、エントランスホールのドアを開けるための鍵を渡された。鍵を作るよりも、そちらの方が金額的に高いのだろう。極力、モノには触れないようにとも、言われていた。それにしても、この鍵をどこで手に入れたのかまでは分からない。協力者でもいるのだろうか。知りたい気持ちはあった。だけど、仕事はプライベートな部分が多いからか、知りたいことだけは、教えてくれない。僕と上の関係は、お金だけで繋がった、ドライなモノなのだ。


 ロビーは生温かく、じっとりとした湿気が籠っていた。高さはエントランスホールと変わらずに広い。一歩踏み出すだけで、靴の音が簡単に響く。足音を殺して歩くのは、不可能に等しい。内壁は心なしか、奇妙なてかりを帯びているように見えた。やっぱり、富裕層の考えていることは理解に苦しむ。


 治まらない気味の悪さを覚えながらも、天井や柱などを注視した。何故だろう。エントランスの時からそうだったけれど、ここには監視カメラの類が見当たらない。かなり不用心だ。もちろん、仕事の都合上、あるよりはない方がありがたい。でも、不自然に抜けている部分があると、かえって気になってしまう。


 何にしても、早く仕事を終わらせたい。細かいところに、気を傾け過ぎるのも、良くない。自分にそう言い聞かせて、ロビーの奥にあるエレベーターホールへと進んだ。


 ボタンを押す。一階に止まっていたお陰で、行儀の良い音と共にすぐ開いた。ドアが開ききる前に、中へと身体を滑らせる。半分、癖のようになっていた。エレベーターの中はどこでも見かける、一般的なデザインだ。どこか荘厳さを感じさせるエントランスとは、相反するくらいに。もっと、海外のホテルみたいな内装を想像していたので、些か拍子抜けだった。


 箱の中で、僕はボタンを押さずに待った。電気の流れるノイズが、駆け巡る。扉の上の階数表示のパネルは、気まずそうに僕を見つめていた。それらを意識の外へと追い遣り、自分の内側に、耳を傾ける。


 酸素の薄くなる錯覚。呼吸は荒い。全身の筋肉の隅々に至るまで、張り詰めている感触。身体の芯がブレている。そうやって、一つ一つの問題を探り当てている最中にも、脳裏に居ついた自分という感覚は、明日の朝への想いを、棄てきれていない。


 違う。


 人間らしい自分を、他人行儀に否定する。


 僕は機械だ。


 与えられた使命のままに、与えられたことをなす、機械。呼吸はいかなる場合においても、常に正常である。身体は均衡を保ち、力を入れるべき部分にだけ、力を入れていれば良い。明日など想う必要はない。今日で役目が、終わるかもしれないのだから。終わらなければ、考えれば良いだけの話。


 そうやって、心の中から自分を排除していく。誰かに決められた僕というイメージを、この肉体に染み込ませる。チューニングみたいなものだ。いつもなら、ここまでの時間は取れないけれど、幸いにも今回は余裕がある。


 徹底的な排除をしてからようやく、僕は仕事の内容を頭に浮かべる。

 パソコンがOSを起動するみたく、冷静に、冷酷に。

 今回の仕事は、このマンションの住人全員の処分。

 つまり、殺すということ。

 腐った卵をゴミ箱へ棄てるみたく。

 歪んだ線を真っ直ぐにするみたく。

 理から外れた連中を処分するのが、仕事。

 たったそれだけのことをするだけ。


 懐に手を置く。重たい銃の感触が、スーツ越しに伝わってきた。このマンションの売りが、防音、遮音であることは幸運だ。銃声を気にする住人なんていないだろう。仕事のイメージを軽く済ませて、ようやく行先階ボタンを押した。


 緩やかな上昇が始まる。鼓動もそれに合わせるように、ゆっくりだった。居住区画のある三階から、順番に殺していくだけ。簡単な仕事だ。


 仰々しくドアが開き、フロアへと出た。廊下の照明は、エレベーターの中よりも、落ち着いている。右手側に三〇一号室があり、ぐるりと一周回る形で、十六号室が左手側にあった。内廊下のため、三〇一号室の斜め前には三〇二号室がある。一辺に四世帯分の部屋が入っているらしい。全ての部屋に、入居人がいるわけではない。もちろん、空き室は事前にしっかりと把握している。どこからいっても同じだけれど、とりあえずは三〇一から回ることにした。


 ドアノブに手をかけて、そっと開く。不用心なことに鍵は開いていた。空気の停滞した静かな廊下に、部屋の中からテレビの音が漏れてくる。住人は、ドアが開いたことにも気付いていないみたいだ。いや、もうここまできたら、心配することではない。そう理解していてもやっぱり、人の命を奪うという行為が、僕を慎重にさせた。


 靴は脱がずに、明かりのついたままのリビングへと向かう。懐に手を突っ込み、拳銃を構える。中では、ソファに腰かけ、ぼうっとテレビを見ている老夫婦の姿があった。テレビの画面は、サッカーの試合の映像を垂れ流している。熱を帯びた実況アナウンサーが、名前を叫ぶと、向こうの会場もそれに合わせて、高揚したどよめきを轟かせた。


 ボールを持った選手が、思いっきりシュートを打つ。ゴール。フィールドのカメラが祝福を受ける選手を映し出す。チームのメンバーは笑い、選手をもみくちゃにしていた。


 彼らの正面へと回る。二人は画面を遮られているというのに、僕の存在には気付いていない。表情には、薄っすらと笑みが浮かんでいた。


「さっきのシュートは良かったな」男の方が、低い声で囁く。


「ええ、とても良かったわ」それに対して、女は穏やかな声で返した。


「俺も、あんな風にできたのかもしれない」男は唇を噛み、自分の脚を睨んだ。


「何言ってるのよ。時間はたっぷりあるんだから」そんな男の膝に、女が手を置いた。「まだまだこれからよ」


「いや……、俺は……」男は口籠ると、表情から一瞬、笑みを消した。そして、また笑みを浮かべると、女の方に顔を向ける。「もう駄目だろうさ。諦めたあの時から、何にもできやしない。平凡な人生が幸せだって思う辺り、それがお似合いなんだ」


「まあまあ」女は膝を摩りながら、もっと柔らかな笑みを作った。「そう言いながら、まだまだこうして、試合を見ているじゃありませんか」


「そりゃあ……、まあなぁ」極まりが悪そうに男は女から顔を逸らし、俯いてしまう。それから、少し考えるような素振りを見せて、天井へと頭を擡げた。その顔に当たる照明の光は宛ら、希望の光と表してもおかしくないほど、温かさを孕んでいる。


「……もう一度、やってみるか」


「ええ、良いじゃないですか。目標に年齢なんて関係ありませんよ」


「ああ、そうだな。ありがとう……」



 再び、二人が顔を見合わせた瞬間に、僕は引金を引いた。二発。上顎から上が、目にも止まらない速さで、完全に弾け飛んだ。貫通した弾丸は、壁にめり込んだ。白い壁には撒き散らしたペンキのように、血痕が染みついていた。硝煙の匂いが鼻腔を擽る。遅れて、血肉の臭いが覆い被さってきた。床には脳と、それを守っていた頭蓋骨が落ちている。二人は倒れることもなく、最後の瞬間の体勢を維持して、ソファに座ったままだ。噴き出す血も相俟って、趣味の悪いスプリンクラーを彷彿とさせた。


 最初の部屋から出る。いくら防音とは言え、銃声は廊下まで響いたはずだが、騒ぎになっている様子はない。想定よりも、地獄は進んでいるらしい。上階はかなり酷いことになっているだろう。


 溜息を押し殺し、次いで斜め向かいの部屋へと向かった。ドアをそっと開けるようなことはもうせず、すぐに中へと入っていく。部屋には、食欲をそそる香りが充満していた。香ばしい油の匂い。ドアの向こうからは、何かを炒める音が聞こえてくる。


 リビングに足を踏み入れる。目に入ったテーブルの上には、色とりどりの料理が大量に並んでいた。パスタ、コーンポタージュ、ピザ、ゼリー、ハンバーグ……。店で出しても遜色ないくらい、盛り付けも完璧だ。素人目に見ても、かなりこだわっていることが分かる。その料理を前に、一人の女が椅子に座っていた。年齢は二十五歳くらいだろうか。女はやっぱりこちらに目をくれず、僕の右手側のキッチンへと向いていた。


「ねえ私、こんなに食べられないわよ」と、幸せそうな苦笑いを零しながら、女は言った。


「良いんだ。余ったら、明日も食べれば良い」キッチンから声が返ってくる。そちらを見遣ると、若い男が中華鍋を振るっていた。大きな鍋の中で、具材が躍る。見事な手さばきだ。


「それより、先に食べていなよ。冷めてしまうよ?」男がテーブルに並んだ料理を、顎で指した。けれど、女は首を横に振る。


「あなたと一緒に食べたいのよ」そう言いつつも、傍らに置いてあるビールの入ったグラスに、口を付けた。「一人で食べる料理ほど、味の落ちるモノはないわ……」


「おいおい。ボクとしては温かい内に食べてほしいんだけどね」


「それなら、こんなに作らなくても良いじゃないの」


「まあ、そうなんだけどなぁ」男は困ったような言葉を漏らして、コンロの火を止める。「こうやって料理を作って、振る舞うのが好きなんだ。それに、人が美味しいと言ってくれるのも嬉しい」中華鍋から皿へと、料理をよそいながら、男は答えた。そして、二人分の皿を持って、テーブルへと向かう。


「これで最後?」


「ああ、お待たせ」


 男が料理をテーブルに置き、ウィンクをする。それだけで、二人は笑顔になった。そして、食前の挨拶を済ませ、料理へと手を付けていく。笑顔の絶えない、楽しそうな食事の風景だった。


「ねえ、あなたの料理はこんなに美味しんだから、どこかでお店でも開いたら?」女が唐突にそう口にすると、男の表情が曇った。


「いや……、出せたら良いな、とは思うけど、ボクには無理だよ」


「どうして?」


「だってさ、君は美味しいと言ってくれるかもしれないけれど、みんながボクの料理を好きなわけじゃない」彼は箸を置き、テーブルの上で指を組んだ。「僕の料理を、嫌いな人間だっている。そうやって言われるのが、怖いんだ」男の顔に張り付いた笑みは、口を開く度に枯れていった。俯き加減になったせいか、暗い翳りも差している。まるで、夏の終わりの向日葵みたいだ。


「大丈夫よ」女の手がそっと、男の手に重なる。「そりゃ、もちろん、心ない言葉をかけられることだってあるかもしれないわ。でもね、私がいるのよ。私はあなたの料理が好きで、色んな人にあなたの作るモノを知ってもらいたい」


 その言葉に男は顔を上げた。血色も戻り、明るく希望に満ちた表情をしている。


「どこまでできるか分からないけれど、君がそう言ってくれるなら、頑張ってみようかな……」


「そうよ。仮に失敗しても、私はずっと、あなたの料理を口にし続けるわ」


 微笑みを交わし、二人はまた料理に手を付け始めた。僕はそこまで見届けてから、二人の頭に向かって引金を引く。肉片が弾け飛んだ。さっきの夫婦同様に、上顎から上の部位が、完全に消える。女の身体は軽かったからか、椅子と共に後ろへと倒れた。男の方はだらりと腕を垂らしただけで、そこを除けば、行儀よく座っているように見える。露出する舌にも肉片が乗っかっていた。それが、咀嚼中だった食べ物なのか、弾けた脳やら筋肉の一部なのかは、真っ赤な血のせいで判然としない。テーブルの上に残った彼の料理は、色彩を失っていた。血肉の色に染まって、湧いていた食欲も失せてしまう。あれだけ部屋中に香っていた良い匂いも、今では噓みたいに感じない。踵を返す一瞬、視界の端にテーブルが映った。そこでは、意味をなくしたその塊たちが、恨めしそうに僕を睨んでいた。


 とにかく、これで二部屋目だ。幸先は良い。この調子で進めば言われた通り、夜明けまでには終わるだろうか。もっとも、そうしなければ僕は会社をクビになるか、窓際へ追いやられることになるのだけれど。


 気を取り直して、次の部屋へと向かう。


 廊下には、三〇一号室から点々と紅い血痕が残っていた。自分のスーツを見遣ると、返り血で真っ赤だ。どうやら、そこから滴り落ちていたらしい。真っ黒のスーツは、濡れたせいで、その黒さを一層、濃くしている。まだ二件しか片付けていないのに。


 初めて人を殺した時も、こんな風になっていたっけ。大仕事を請け負っているからか、普段なら考えないことを、つい考えてしまう。もう何年前になるだろう。僕が初めて殺した少年のことを思い返す。彼は、大学受験を控えた十八歳の少年だった。彼を処分することになった理由は知らない。会社の命令に、疑問を抱くことは許されないからだ。


 殺しの仕事を任される前は、死体処理ばかりをしていた。新人はみんなこの仕事から覚えていく。現場を見て、どうやって殺すべきかを、学んでいくらしい。だから、いつかは自分にも回ってくることは自明の理だった。


 そう分かっていても、命令が下った時は流石に、躊躇は避けられなかった。渡された銃と弾丸を握って、実行の日までまともに眠れなかったのを、よく覚えている。それでも、僕は仕事へと赴いた。少年の家に入り、真っ直ぐ彼の部屋へと足を運び、銃口を向けた。彼は、部屋の中で黙々と勉強をしていた。ここにいた夫婦や、男女のように、僕の存在には気付くことはない。それは、対象となる人物に共通する特徴と学んでいたから、さほど驚くことはなかった。


 引き金を引くまで、何分も――、いや、何時間もかかった。頭の中では、意味のない疑問が延々とぶつかり合い、循環していた。どうして殺す必要があるのか。彼が何をしたのか。僕は何故、こんな役割を与えられたのか。その答えを自分に何度も問いかけて、殺すのを躊躇っていた。


 今だから分かるけれど、局面に立たされた時、疑問を投げかけ続けることができるのは、一線を踏み越えることの重大さを、理解しているからだ。つまり、人間らしく、正常な判断を下そうとしている証拠。そうやって抗おうとすることは、とても幸せなことだ。機械はどれだけ進歩しても、使われる存在でしかない。


 だから、とても懐かしい感覚だった。疑問は浮かんだとしてもすぐに霧散し、ただ命令に従うだけ。いや、疑問を抱く瞬間があるだけでもマシかもしれない。今の僕は、人間性を簡単に割り切れる欠落人間マシン。それは、迷いと共に少年の頭を吹き飛ばした時から、定められた運命だったのだ。


 撃ち出された弾丸が、元に戻らないように。


 頭を振って、浮かんだ過去を脳裏から追い遣る。思い出したところで、現実は変わらない。僕は生きていくために、この仕事を完遂するだけだ。


 滲んだ人間らしさを打っ棄って、僕は次の部屋の扉を開いた。



 何時間も殺し続けた。スーツは血肉を浴びて、どっぷりと重い。これはもう、廃棄処分するしかないだろう。銀色のエレベーターの床は、革靴だと滑りそうなくらい、ぬかるんでいる。弾倉を抜いて、残段を確認する。弾は残り一発。十分な数の銃弾を用意してきたつもりだったけれど、ピッタリ使い切ることになりそうだ。


 エレベーターが止まり、ドアが開いた。目の前には、長い階段が伸びている。最上階へ行くためには、それを昇る必要があった。一番上は、一部屋だけしかないらしい。血で濡れた革靴と疲労のせいで、何度も段を踏み外しそうになる。ジャケットを脱ぎたい気持ちはあった。でも、そうしてしまうと仕事に支障が出るので、我慢する。


 一段一段を踏みしめながら、僕は殺してきた人々のことを思い返していた。


 難病の少年を助けるために、医者になろうとしていた男。情欲のままに男を誘惑していた女。結婚生活を想像する、二人の男女。様々な人間が、このマンションには住んでいた。中でもとりわけ多かったのは、音楽をしていた人間だ。ヴァイオリン弾き、コンピューターミュージシャン、ギタリスト、ベーシスト……。金管楽器を吹いていた人間もいた。どれも僕の趣味には合わない曲ばかり演奏していて、タイミングを見計らうまでが、苦痛だった。


 そして、みんな共通していたのは、男女二人組だったということ。男が苦悩し、女はそれを導くように背中を押す。そんな構図ばかりが、ここにはあった。


 二人だったから、殺されたのか。いいや、それは違う。ならば、何故か……。このマンションに住む人間の全てが、対象になった理由を、疲労困憊気味の頭は勝手に想像してしまう。止めろと命令しても、使い古した機械みたいに、止まってくれない。だから、僕は諦めることにした。


 そうして、諦めた結果、みんながみんな、孤独だからだ、という結論に至った。社会から抜け出そうとして、孤独になった人々。人は、独りでいるから孤独なのではない。閉じ籠り、二人でいることさえ、断絶という名の孤独なのだ。そしてそれは、集団の生み出した社会という神に、背くことに等しい。僕たちは、社会から与えられた使命を遂行する。


 そうだ。答えと共に、階段を踏みしめる。僕の使命は、断絶を望んだ人々を殺すこと。与えられた使命を、断絶しようとした人々を、殺すこと。


 生きていくための使命を否定した人間はつまり、死んでも良いと言っているようなものだ。


 長い階段を昇り終えて、ようやく部屋の前に立った。ドアはシンプルな木目調のモノで、大きさ以外は他の部屋とあまり変わりない。その両隣には、挟むようにして絵画が掲げられている。エントランスにあった『アダムの創造』にも描かれていた、神の姿があった。だけど、老人は憤怒の表情を浮かべ、二人の男女を見下ろしていた。女の傍らには、蛇の姿もある。


 失楽園。


 神の命に背いた二人が、エデンから追放される瞬間の絵画。やっぱり、どんな意図で、この絵画を飾っているのかは分からない。ただ、この最上階にいる人間の趣味であることは間違いなさそうだ。


 何にしても、これで最後なのだ。息を一つ吸ってから、重たいドアを開く。空気が流れた。冷えた温度が、僕の肌を撫でる。目の前に飛び込んできたのは、大きな窓硝子だった。夜明け前の、最も暗い空が、一面に広がっている。玄関から続いている廊下は、池に挟まれていて、橋を彷彿させる造りだ。池には、蓮の花の形を模したランプが浮かんでいる。宗教的な統一性のない、違和感に満ちた部屋だ。


 廊下を目で追った先は、窓硝子の空間に繋がっているようだった。寝室やリビングなどの区切りのある様子はない。天井の高さも、エントランスと同じくらいか、それ以上はあるだろうか。煌びやかで、映画でしか観たことのないような、豪奢な造りの部屋だった。


 響く自分の足音を耳にしながら、廊下を歩いていく。途中で振り返ると、真っ白の大理石の上には、血の跡がべったりと付着していた。掃除をするにしても、水はいくらでもあるから、簡単そうだな、なんて考えながら、僕は進む。


 数段の階段を昇り、硝子の部屋へと辿り着いた。玄関から見た時とは、比べ物にならないくらい大きい。向こう側には、街の景色がずっと遠くまで広がっており、地平線まで遮るものはなかった。


 部屋には天蓋カーテンの引かれた寝台が一台、置かれているだけだ。それも、真っ白で装飾もない、レース地のモノだった。他に調度らしきモノも見当たらない。荘厳な雰囲気の割に、殺風景な印象だ。


「こんばんは……、よりかはおはよう、の方が良いのかな」


 ベッドから、声が聞こえてきた。若い女……、二十歳にも満たない少女のような声。カーテンの中で、シルエットが一つ起き上がる。僕に背を向けて、窓の外へと顔を向けているらしい。


「君が、ここの主かな」僕は懐から銃を取り出し、しっかりと握りながらベッドに近寄る。


「ここで一番偉いのは、確かに私かしら」少女は微動だにせず、そう答えた。退屈そうな調子の声色だ。


「どうして、僕が来たのかは分かっているね?」


「ええ、もちろん」


「覚悟は?」カーテンに手をかけて、シルエットへと銃を向ける。


「その前に、少しお話をしない?」


 カーテンを掴んだ手から、力が抜けていく。最後の言葉くらい、聞いてやっても良いだろう。僕の判断が伝わったのか、少女は鈴のような声で笑った。


「あなたが、そうやって人を殺す理由、聞いても良いかしら?」


「命令だからだよ」と、僕は即答した。考えるまでもない。


「そうね。あなたはそういう人。自分の役割を、ちゃんと理解している人ですものね」


「それがどうかしたのかい?」僕は話に耳を傾けながらも、少女の影の頭の部分から照準はずらさなかった。逃げ出す気配はないけれど、万が一のことはある。


「あら、どうもしないわ。そうやって生きることを、私は否定しないもの」


「君は、何が言いたいんだ? 言いたいことがあるのなら、もっとはっきり言ってくれ」


 少女の笑い声が響いた。ただそれだけのことなのに、僕は何故だろう……、酷く苛立ちを覚えている。まるで、自分でも見えないところを、内側から擽られているみたいで、不快だ。


「いつか」


 少女が、こちらへと身体を向ける。白いヴェールの中に透けた、少女の双眸が、僕の顔をハッキリと捉える様が見えた。


「あなたのことを殺す存在がやってくるわ。あなたが多くの人間を、殺してきたようにね。その時になってあなたはきっと――」


 最後まで言葉を聞かずに、引金を引いた。手首がジンと痛み、熱を帯びる。カーテンは容易く破け、真っ白のベッドには、少女の血が弾け飛ぶ音が、小さく滴った。硝煙の香り。鼻が麻痺しているのか、血肉の臭いはほとんど感じない。ほんの一瞬の出来事だった。弾丸は貫通して、少女の背後の、大きな窓硝子に穴を穿つ。罅割れた硝子は、風でぽろぽろと、徐々に崩れ落ちていく。


 カーテンを引いて、少女の亡骸を確認した。頭は弾け飛んで、顔と認識できるパーツは、唇程度しかない。これで良い。彼女らは、蛇に唆されるままに、言い付けを破った人間たち。病に至る果実を齧った、哀れな愚か者たち。頭を撃ち抜き、完全に脳を破壊しなければ、彼らは死なない。いや、死ねないと言うべきだろうか。そして、死ねないままに生き続ける。だから、こうして一発で仕留めるということは、ある意味で慈悲に則った行為なのだ。


 何にしても終わった。ようやく、この長い仕事が終わった。その実感から、僕は一つ溜息を吐く。


 懐から携帯を取り出し、会社の番号を押す。血で汚れているせいか、操作しにくかった。


「僕です。今、仕事が終わりました。処理班をお願いします」


 それだけを言うと、電話は向こうから一方的に切られた。労いの言葉なんて全くない。そのくらい、関係性は乾ききっているし、僕もそちらの方が良いと思っている。

 窓に広がる夜空は、少しずつ明るみだしていた。黒から徐々に、濃紺へ。しばらくすれば、曙光を拝むこともできるだろう。


 僕は、少女の言葉を思い返していた。

 いつか、僕を殺しにくる存在。

 そいつが実在しうることを、僕は十分に理解している。

 だけど、そんなモノに殺されなくはならない状況に、陥ってまで僕は生きたいと思わない。

 もしもそうなったら、僕を殺してほしい。

 蛇に唆されて、果実を齧ってしまった僕を、殺してほしい。


 そうだ。


 死神はいつも僕を見つめている。

 それで良い。

 僕はただ、与えられた役割を、演じ続けるだけなのだから。

 空に一つ、昏い星の瞬きを見つける。

 とても小さな光だ。

 それは徐々に、東の空から昇る眩い光によって、掻き消されていった。

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少女胎動 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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