Trigger

 研究室の地下では、多くの大人たちが僕を待ち構えていた。みんな同じような顔をしていて、判別がつきにくい。研究員の一人が、僕に気付くと仰々しく頭を下げた。お待ちしておりました、なんて挨拶に責任者である僕は無言を突き付ける。そんな挨拶なんて、どうだって良い。相手だって、どうとも思っていないのだろう。責任者なんて肩書は、僕を祀り上げるためだけの、飾りに過ぎないのだから。要するに、利害の一致というやつだ。


 部屋は薄暗く、照明になるモノはほとんどない。計器類の灯りと、中央に鎮座するビーカーが、青白く光っているくらいだ。ビーカーの中は、濁った液体で満たされていて、よく見えない。そこから、高さの分からない天井へ向かって、何本もの太い管が束をなして伸びている。時々それは、機嫌の悪いライオンみたいに、何の前触れもなく、大きな音で唸った。そんなビーカーを囲む研究員たちは、よく分からない機械に、これまたよく分からない文字を打ち続けている。音が響いても、顔を上げる素振りさえ見せない。慣れてしまったか、よく分からない文字を打つのが、楽しいのだろう。意識の外に追い遣っていることは、確かだ。

 僕は彼らを横目に見ながら、ビーカーへと近付いた。


「準備はできております。あとは、あなたが仕上げるだけです」


 半歩後ろから付いてきていた、研究員の一人が、僕の前へと半身を乗り出す。手で示された方向には、一つの赤いボタンがあった。迷わずにそれを押すと、中を満たしていた液体が、みるみるうちに抜けていく。管は床にもあったらしく、勢いのせいか、微かに地鳴りのような響きが伝ってきた。


 液体が完全に排出されると、硝子部分が下がっていく。何もかもが大袈裟で、実験に必要な挙動にはとても思えなかった。まるで、SF映画の演出だ。そう考えると、彼らも実用性より、ビジュアルを重視するきらいがあるのかもしれない。


 液体がなくなっても、青白い光は消えなかった。僕はそちらへと近寄る。光の輪郭は、髪の長い少女の姿を象っていた。ひとまずは成功、と言ったところだろうか。彼女の身体に繋がれた測定用のコード類は、昼間に見える月のように、異物感が漂っている。


「こちらを」


 男が僕に、大きなアタッシュケースを手渡してきた。床に置き、ケースを開く。そこには、トランプカードがワンセット、綺麗に並べられていた。


「ご説明は?」なんて今更なことを聞いてきたので、僕は「必要ないよ」と、逸る興奮を隠しながら、できるだけ素っ気なく答える。この日のために、僕はいくつもの犠牲を払ってきたのだ。説明なんて、暗唱できるくらいに今更だった。


 カードを手に取る。数に過不足はない。ふと、ケースの下を覗くと、そこには拳銃が一丁、用意されていることに気付いた。


「これは?」僕は隣にいる男に聞く。


「もしものためです」男は真っ直ぐに、僕の目を見ながら答えた。「まだ、成功した例がありませんから、何があるかは分かりません」


「そうか」と僕は頷いて、立ち上がる。「必要なモノだけを、入れてくれと頼んだはずだけど?」


「ですが……」


「分かった、分かったよ」食い下がろうとした男を、僕は手で制した。男は少し仰け反り、口を噤む。「じゃあ成功したら、君の頭を撃ち抜くために使おう」


「失礼しました」と言ってから、一歩後ろへと下がった。一つ余計な世話をするのが、大人のやり方だ。しかし、それもまた彼らの役割なのだから、仕方がない。僕も理解しているつもりだけど、そのことに関して、上手く受け流すのはどうも難しい。


 そんな遣り取りを終えて、僕は改めて少女の前に立つ。彼女の目は開いていない。息さえ微かで、しているのかも窺えなかった。


 少女には、自分と呼べるモノがない。

 無機質で、産み落とされたままの魂で生きている。

 いや、そんな状態を生きているとは言えない。

 自分と呼べるモノがないということはつまり、死んでいるのと同じこと。

 だからこそ、少女は生まれたがっているのだ。

 生死も曖昧な、自己すらない、白紙の魂から、解放されようとしている。

 その祈望を叶えるための希望に、僕はなりたい。


 始まりの一枚を少女の胸へと翳す。クラブの一。全ての生命は、春に目覚める。暗い夜の底から、生まれたいという意思もまた、その春によって芽吹く。カードから手を離すと、少女の放つ光の中へ、溶けていった。僕はその様子を確認して、安堵の息を吐く。自分で思っている以上に、緊張しているらしい。長い儀式になる。この程度で疲労を覚えていては、やっていけない。


 自分を奮い立たせて、次の一枚を取る。ダイヤの一。価値の付与。誰も彼も、始まりは無価値な存在だ。何者でもなく、ただ生命として存在しているだけ。だからこそ、そこに意味を与えなければならない。人の価値を決めるのは、どう取り繕っても、他人なのだから。それでも、そこに明るい生が待ち望んでいると、人はみんな価値を得て生まれてくる。カードは光の中へと溶けた。


 続け様に、三枚目を手に取る。ハートの一。人間が人間たらしめる最大の理由は、心があるからだ。どれだけ非情でも、どれだけ残忍でも、人間という存在である以上は、絶対に備わっている。だから他人を知ることができ、自分を知ることができる。少女にも、心がなければならない。カードは光の中へと溶けた。


 そして、一巡目の最後を掴む。スペードの一。生まれたモノはみんな、終わりを迎える。手から放れたコップが、地面へ落ちて砕けるように。春に咲いた桜も、初夏を迎える前に散ってしまうように。死に絶えて、腐り果てて、最後には生まれる前の暗闇へと沈んでいく。つまり、生は死を内包して落ちてくるモノということ。始まった瞬間から、ゆっくりと腐り始めているということ。恐れるに値することだ。だけど、永遠に続くモノを、作ってはならない。そもそも、永遠なんてないのだから。だからこそ、このカードがなければ生は成立しない。カードは光の中へと溶けた。


「お疲れ様です。次に参りましょう」


 一巡が終わった後に、隣に立つ大人が耳打ちをした。そんな労いを、僕はやっぱり無視する。少女の姿だけが、僕の視界の全てだった。よく観察すると、彼女の放っている光が、僅かに弱まった。どうやら、順調みたいだ。


 そうして、同じ手順を繰り返す。


 クラブで意思を与え。

 ダイヤで価値を与え。

 ハートで心を与え。

 スペードで死を与える。


 その繰り返しが、少女の中で時間を生み出す。


 トランプの数字が増えていくに比例して、光は消失していく。白い肌が露になり、濡れた長い黒髪が身体を覆う。その姿は正しく、絵画に見るイヴを彷彿させる、美しいものだった。


 そして、最後の一巡が終わった時、少女は徐に開眼する。黒く、重そうな瞼の下に、光の差し込まない、虚ろな瞳があった。もちろん、僕や大人たちの姿はおろか、研究室の様子でさえも映っていない。


「聞こえるかい?」


 僕は少女に声をかけた。反応はない。瞳がピクリとも、動く気配さえなかった。少女はただじっと、どことも知れない虚空を見つめている。


「無理もありません」男がまた、僕に耳打ちをした。「まだ、絵札が残っておりますから」


「分かっている」


 至って冷静である、と自分に言い聞かせながら、絵札を手にした。だけど、そう言い聞かせるということはつまり、自分が浮かされているということの裏返しでもある。そう。僕は今、少女の誕生に、一歩ずつ近付いていることを感じ、興奮しているのだ。


 カードを彼女に翳す前に、僕は今一度、絵札を確認する。クラブのジャック。間違いはない。


 ジャック。それは少女の自我を動かすモノ。生まれてきた少女が、自分を認識するために必要な存在。何巡もさせて築き上げた自分という存在も、これがなければないに等しい。息を飲み、僕は腕を伸ばした。


 クラブを胸に翳す。

 少女の瞳に、光が差す。

 ダイヤを翳す。

 少女の瞳に、首から下の裸体が映る。

 ハートを翳す。

 少女の瞳に、悦びが灯る。

 スペードを翳す。

 少女の瞳に、涙が浮かぶ。


 そこから零れ落ちた液体が、僕の手の甲を濡らした。少女は生を知り、自らを知り、生きる喜びを知り、死の恐れを知った。それで良い。自らが始まったモノであり、いつか終わるという当然を、少女は理解しなければならない。僕は次なる絵札を手にする。


 次はクイーン。生きたいという欲求を満たすモノ。少女が生きるための欲求を、芽生えさせるモノ。生を支えているのは、理性ではなく本能だ。誰もがそれを、無意識のうちに知っている。それを知り得ないのであれば、人間に生きたいという衝動さえ、生まれてこなかっただろう。


 クラブを胸に。

 少女の瞳が、辺りを映す。

 ダイヤを胸に。

 少女の瞳が、人々を捉える。

 ハートを胸に。

 少女の瞳が、動き始める。

 スペードを胸に。

 少女の瞳が、閉じられる。


 頬を伝う涙は、止めどなくあふれ出す。少女は生きるために、周囲を知り、他人を知り、必要な行為を知り、死は忌避するものであると知った。死へと進んでいく時間であったとしても、生きたいという想いがなければ、絶望と感じて死んでしまう。そのことを、心は理解しなければならない。僕は次なる絵札を手にする。

 最後はキングのカード。生きたいという欲求を抑制するモノ。人は、欲だけで生きていけない。その通りにしてしまうと、他人を傷付け、壊してしまう。すなわちそれは、自らも死へと近付くということ。彼女は自分の心を、コントロールする手段を得なければならない。


 クラブを置く。

 少女の身体は、呼吸を始める。

 ダイヤを置く。

 少女の身体は、自らの輪郭をなぞり始める。

 ハートを置く。

 少女の身体は、解放される。

 スペードを置く。

 少女の身体は、僕の方へと歩み始める。


「成功だ」


 思わずそう呟いた声は、質の悪いスピーカーみたいに枯れていた。緊張から解放されて、喉が水を飲ませろと、訴えていることにやっと気付く。それでも、僕は歩き出した少女の姿から、目が離せなかった。視界の端に映った、研究員の顔にも、喜色が浮かんでいる。


 少女の足取りは、覚束ない。まだ上手く、歩けないのだろう。ふらふらとしていて、床に伸びていたコードに足をかけて、倒れてしまった。僕はそっと、その身体を受け止める。柔らかい肌と、体温の感触。彼女は僕を見上げ、驚いた表情を浮かべていた。


「大丈夫かい?」そう問いかけると、彼女はこくりと頷く。


「ありがとう」


「良いんだ。ずっと眠っていたのだから、無理もない」身体から手を離し、しっかりとその場に立たせてやる。足元へ目を遣ると、膝小僧に薄っすらと、血が滲んでいた。


「それは、痛いかい?」指を差して示すと、少女は自らの膝を凝視する。


「痛い」


「そうか、痛いか」


「成功ですね」遣り取りを見守っていた大人が、僕の横に立ってそう言った。失敗するはずなんてない。だからまた、僕は大人の言葉を無視した。


 痛みこそが、生きている証だ。少女は生きている。そのことを実感してくれているだけで良い。


 ふと、彼女が服を着ていないことに、今更ながら気付いた。研究室は、適切な温度設定がされているけれど、裸では寒いだろう。僕は自分の着ていた白衣を脱いで、それを羽織らせた。


「おめでとう」祝福の言葉をかけると、少女は不思議そうな表情を浮かべる。「君はようやく、生まれることができたんだよ」自分の頬が、思わず緩んだ。喜びが、身体中を巡っているのが分かる。幸せとは本来、人の身体にこんな恩恵を与えるものなのだろう。


「生まれる?」


「そう、君は生まれたんだ。この世に生をなすことができたんだ」


「違うよ」


 少し考えるような素振りを見せてから、彼女は僕の言葉を否定した。


「私は、こうして生まれたくなんかなかった」


「何、だって?」


「私は、あなたの胸の内で、生きているだけで良かった。あなたの見る世界の中で、生きていられれば良かった。なのに、私は生まれてしまった。私という存在が、生まれてしまった」


 笑みを象っていた口角が、切れたゴムみたいに力を失う。喉がまた、酷いやり方で渇きを訴えてきた。言葉が出ない。理解ができない。思考は行き止まりに当たった鼠みたく、同じところを行き来していた。


 僕は少女に触れようと、手を伸ばす。だけどそれを、彼女は手で制した。それもまるで、僕があの恭しい研究員の男にしたように。


「生かされることと、生きることは違うのよ。私は、ただ生きたいの。場所なんてどうだって良かった。あなたの中にいた時から」


「違う!」慣れない叫び声を上げたせいで、喉の奥がジンと痛んだ。「君は生まれたいと願っていた。それを僕が、一番理解している」


 そうだ。、生まれたいと願っていた。だから少女以上に、少女の願望を理解している。その願いを叶えることこそが、僕の役割なのだ。


「与えられて生きることの虚しさを、あなたが一番、理解していたはずなのにね」


「それでも、君は僕の中に生まれた存在だ。ならば、君を生み出すことができるのは、僕だけなんだ」


 少女は溜息を吐いた。大人たちは黙したまま、僕たち二人を見守っているだけだ。何を言い合っているのかさえ、彼らには分からないのだろう。


「残念よ。だって、あなたのやっていることは、あなたが忌避していた大人たちのやり方だもの」


 そう言い捨てて、少女は屈んだ。その手には、アタッシュケースに入れられているはずの拳銃が一丁、握られていた。銃口を顎に宛がうと、真っ直ぐに僕へと視線を据える。


「さようなら。私はあなたの否定にさえ、否定された」


「やめ――」


 二度目の叫びは、銃声によって掻き消された。少女の身体が倒れていく様子も、線を描く髪の軌道も、中空に飛び散った血液も、全てがスローモーションに見えてしまう。そして、少女の頭から流れる血は、床に広がっていった。誰もが茫然としていて、駆け寄ることさえしない。その間も、とくとくと血は流れ、次第に僕の足元を汚していく。


 生まれたばかりの少女は――、呆気なく死んだ。


 拳銃で、自らの頭を打ち抜いて。


 そんな分かりきった事実が、硝煙と血の臭いと共に、遅れてやってくる。

 どうして少女は死んだのか。

 生かされていたしても、生きているのなら良いじゃないか。

 生きていれば、その枷だっていつかは外せるはずなのに。

 分からない。

 少女の元へと近付き、身体を抱き上げた。


「ねえ、教えてよ」僕は彼女の耳元に口を寄せる。「何が君を――、人を死へ駆り立てたんだい?」もちろん、少女からの返事はない。周りにいる研究員たちも、答えてくれない。当たり前だ。自らの死を選んだ理由は、死んだ人間にしか分からない。言葉で遺ったモノも、流れる時間に歪んでしまう。そうして、血の滴る音だけが、分かりきった死の事実を告げていた。


 だけど……。


 僕は少女のことを、知らなければならない。彼女は僕の中から生まれた存在なのだから。


 そして、死を理解するためには、同じ死を選ぶ必要がある。

 少女が握ったままの拳銃を、そっと解く。

 それを手に持ち直し、暗い天井を仰いで、下顎に銃口を突き付けた。

 誰かの叫ぶ声が聞こえる。

 そんなモノは、どうだって良い。

 そいつらは、少女の死を茫然と見ていただけだから。

 少女を独りでは死なせない。

 この夢を、独りでは終わらせない。

 引き金を引くと少女の死が、頭の中で響いた。

 甘い匂いが鼻腔に広がる。

 暗かった視界が倒れると、隣には少女の姿があった。

 血に染まった視界のせいで、顔まではよく見えない。

 ああ、でも……。

 その姿はとても。

 とても美しいことだけは、理解できた。

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