Forest
森の周りを散歩するのに、今日はちょうど良い気温だった。空は蒼く広がっていて、白い雲はどこかを目指して走っていく。太陽も今は雲の影に隠れてくれているから、それほど午後の陽射しは強くはない。鬱蒼と生い茂る木々が、風に揺られて歌声を奏でた。鳥はその風に乗り、楽器のような柔らかい鳴き声を上げながら、僕の先を飛んだ。草木の香りが、優しく鼻腔を擽る。森の奥に、目を遣ってみたけれどそこは、取り残された昨夜の闇が、まだ居座っているみたいだった。
物心ついた頃から、この森には入るな、と釘を刺されている。理由は知らない。ただ、町の住人も、ここに入ってはいけないというルールを守っていた。みんな僕と同じように、理由は知らない。そもそも、こんなに暗い森の中へ、入ろうとする人間はいないだろう、とも思う。実際、僕もそうだ。不気味で、陰鬱としていて、一歩でも足を踏み入れたら、すぐに迷子になりそうだから、入る気なんて起きない。
深く息を吸い込む。町とは違う、澄んだ空気が肺を満たした。例の言い付けのお陰で、ここに人は寄り付かない。それだけで、ここまで空気は清くなるのだから、自然とは偉大だと思う。いや、汚してしまう人類が卑小なだけか。
僕は時折、汚れた身体を洗いにくる。人間の嫌なところを映した目を、罵声を聞いた耳を、溜息で曇った肺を、欲望に撫でられた肌を、苛立ちや怒りを覚えた魂を、僕は洗いにくるのだ。本当は、身体を一つ一つ分解して、交換でもできたら良いのだろうけれど、人間にそれはできない。そうするためには、生を終わらせて、輪廻転生とやらに期待する他ないだろう。もちろん、生まれ変わりなんて与太話を信じるほど、自分に絶望を抱いてない。
木々から伸びた長い影を踏みながら、森の端を目指す。折り返してここまで戻ってくる頃には、夕方になっているだろうか。運動としては最適だろう。ただ、出てきた時間が悪かった。森へ来る時は、いつもなら正午きっかりに家を出る。だけど、今日に限って頼まれごとを引き受けたせいで、出た時間が遅くなってしまった。この調子だと、町へ戻るまでに夜を迎えているかもしれない。かと言って、いつものルートを端折るのは、後味が悪い。それに、急いで歩いたところで、何も良いことはない。時間に追われるのは嫌いだ。常に一緒の歩幅で、歩いていたい。
そんなことを悶々と考えている間も、ペースを崩さずに歩いた。草木の揺れる音と、鳥の鳴き声だけが、静かに響いている。そういえば、猪や熊なんかと、今まで出くわしたことはなかった。他に動物はいないのだろうか。そういった疑問はあるけれど、興味まで昇華はされない。みんなが信じている迷信を、律儀に守っているわけではないけれど、入ってまで調べようという気もなかった。ただの散歩で命を落としたら、後で間抜けだと笑われる。
しばらく進むと、緩やかな傾斜に差しかかった。感覚的には、中間地点を少し過ぎたポイントだ。低い丘のようになっていて、頂点まで行って右手側を向けば、町を一望できる。
暑くはなくとも、シャツの下には汗がじっとりと滲んでいた。いつも通り、そこで小休憩を取ろう。息が少し弾みがちになるのを感じながらも、頂上へと辿り着いた。
気持ちの良い風が、頬を撫でていく。ここから見下ろす町の姿は、何度見ても圧巻ものだ。南側には湾が広がっており、それを挟んだ向こう側には、また町がある。そこは、この町よりも汚いらしい。実際に行ったことはない。だけど、僕にはあまり信じられない話だった。
あの向こう側の町は、夜になると沢山の光が灯る。煌々と、まるで星空が地上まで繋がってしまったかのように。それを、僕の町の住民は、穢れた恐ろしい町の証拠だと忌み嫌っていた。理由はやっぱり知らない。それだって、住民たちは知らないのかもしれない。
人間は、何かを恐れて生きている。世界やら文明やら、隣人やら神様やら。様々なモノを恐れ、時に機嫌を取りながら、時に罵倒し誹りながら。
きっと、理由なんてどうでも良いのだろう。そうしないと自分を守れないという、本能に従っているだけだ。その本能にさえ従っていれば、後は何でも良い。だから、僕たちは平気で何かを貶める。自分の心を守るために、恐れを抱き、拒絶することを厭わない。それを忘れた人間から、死に近付いていてしまう。そういう風に働く仕組みが、人間の心のどこかに隠されているに違いない。
そうじゃなければ……。
人間の心は、とても汚いモノということになる。何の理由もなく、全てを穢してしまえるほどに、汚いモノ。そんな事実を認めたくはない。少なくとも、僕が生きている間は。
……いや、よそう。頭を振って、思考を掻き消す。確信を持ってしまえば、本当にここで生きていけなくなってしまう。それは辛い。何かを嫌ったり、憎んだりする気持ちほど、重たくて湿気たモノはないのだから。
汗もマシになったところで、先へと足を向ける。下りになっているし、少しは楽だろう。そう思いつつ、坂の下へと目を遣ると、白い影が綿のように揺れた。
何だろうか。気になって目を凝らすと、影の中から一人の少女が立ち上がった。周りにあった綿たちが、ピタリと動きを止める。その正体は、毛並みの白い犬たちだった。みんな飼い主であろう少女の顔を、見上げている。宛ら、神に祈りを捧げる敬虔な信者のようだ。
小型から大型まで、ざっと五、六匹はいるだろうか。その犬たちと同じ色をしたワンピースを、少女は纏っていた。しかも、肌の色も病的なまでに真っ白だ。長い髪だけが他と違って、黒色をしている。周りの色と相俟って、草原に現れた大きな目玉を、彷彿とさせた。
少女たちは、僕に気付いていない。犬たちも、彼女の顔を見上げながら、息を切らしている。僕は声をかけて驚かせたくなくて、その場で息を殺して立ち止まった。
「さあ、行きなさい」少女の声は、距離はあったけれどよく聞こえた。「あなたたちはもう、自由なんだから」
そう言って、少女は森の方へと指をさす。すると、犬たちは勢いよく森の方へと走っていった。何の躊躇いもなく、真っ直ぐに。白い体躯は、暗晦の森に呑まれて、数秒も経たずに見えなくなった。そして、草木を揺らす音も次第に遠くなっていき、遂には聞こえなくなってしまう。
少女は犬の消えた森の方を、じっと見つめている。手元をよく見遣ると、首輪とリードらしきものが握られていた。
仕方がない、今日のところは引き返そう。何があったのか知らないけれど、人が近くにいるのは迷惑だろう。
諦めて、踵を返そうとしたところで、少女の目がこちらを捉えた。僕は突然のことで、動けなくなってしまう。いつもなら、挨拶か会釈の一つでもして誤魔化せただろう。だけど今は、こんな状況のせいで良い言葉が出てこない。
「こんにちは」
ぎこちなく佇んでいたところで、少女の方から挨拶をしてきた。距離はあったけれど、彼女が微笑みを浮かべていることは分かる。このまま帰るのもおかしな気もして、会釈を返してから少女のいる方へと降った。
「あの犬たちは、どうしたの?」僕は森の方へ目を遣りながら問う。
「解放したの」簡単な計算の解を答えるみたく、少女は言った。迷いも、躊躇もない。
「解放って……、つまり、棄てたってことかい?」僕は横目に彼女を見る。
「あなたの目から見れば、そういうことになるのかしらね」
あっさりと、少女は僕の言葉を認めた。動揺している素振りはない。寧ろ、自分は当然のことをした、と言っているかのような態度だ。
「どうして、そんなことを?」
「あの子たちは、自由になるべきだったからよ」少女は尚も淡々と、微笑を崩さずに答える。「私という束縛から、解放されるべきだったのよ」
「そんなの、君の一方的な都合じゃないか」
自分の表情が、固くなるのを感じた。そんな僕を一瞥してから、少女は森の方へと目を遣る。その横顔には、悲し気な雰囲気が張り付いていた。でも、僕の中に湧いた、怒りにも似た不快な感情は、意思とは無関係に膨れていく。彼女の言い分は、あまりにも独善的だ。どれだけ言い繕ったところで、無責任であることに変わりはない。
「私はそれでも――、たとえ誰に何と言われようとも、あの子たちを、私から解放してあげたかったのよ」
そう言って、少女は唇を噛んだ。桜の花弁にも似たそれは、悔しさで歪む。僕はそれを目にして、口を噤む。哀愁に濁らされた空気は、その場に沈黙として充満していった。森から犬たちが、戻ってくる気配はない。かと言って、断末魔が聞こえてくるわけでもなかった。どうなっているのか分からない。そもそもの話、ここへ放った時点で、どうにもできないことは、目に見えている。
僕はまだ、少女が犬たちを森へ放した理由に、納得していない。どれだけ正当めいた理由を掲げられたとしても、彼女のやったことは、酷いことだと思ってしまう。
それでも、僕はそれ以上、何かを口にするつもりはなかった。決して、悲しそうな横顔から、感傷に侵されたわけではない。彼女にとっての正しさが、僕の正しさとは違うという、当たり前のことを思い出しただけだ。批難したところで、時間が巻き戻るはずもない。あれこれ口を挟むことだって、独善的で無責任な行いだろう。それに、彼女の言っていた通り、あの犬たちは少女という束縛から、解放されたがっていたのかもしれない。だからこそ、僕が彼らの気持ちを代弁しようとするなんて、烏滸がましい。
「君なりの、優しさだったんだね」僕はそう言ってから、森を見つめる少女の後ろを、挨拶もなく通り過ぎる。
「ねえ、これだけは覚えていて」少女が僕の背中に声をかけて、呼び止めた。僕は振り返らずに、ただ彼女の声に耳を傾ける。「知らず知らずのうちに、自分というモノが、他人に規定されていくのは本当に――、本当に、悲しいことだ、って。あの子たちも私も、そして、あなたも」
「そうだね、ちゃんと覚えておくよ」
僕はまた、歩き始める。草を踏む音が心地良い。耳に聞こえてきた声は、すぐに小鳥の囀りに掻き消されてしまった。ほんの数分、立ち話をしていたつもりだったのに、空は煙草の煙で汚れたビニールみたいに、黄色く染まっていた。
冷たい風が吹く。視界の隅に映った花が、それに耐えるみたく揺れていた。花の名前は知らない。だけど、黒い花弁と、老婆のように首が曲がっていて、奇妙な印象だった。何故だろう。妙にその花の印象が脳裏に焼き付いてしまい、さっきの少女の姿を心に呼び起こした。白いスカートと、黒い髪を風に靡かせる少女の姿を。
僕はそれを振り払うかのように、頭を振った。少女の虚像に附随して、あの嫌な感情が蘇ってきたからだ。冷酷で気味が悪くて、そのくせ拒絶し難い無慈悲な感情。そう。あれに身を任せそうになった時、僕は些かの心地良さを覚えそうになった。知ってしまえば戻れないと、理性が訴えてくれなければ、危うかっただろう。
でも、仮にもあのまま、アレが溢れていたとしたら……。
きっと、僕は少女の全てを否定していたに違いない。町の住民たちが、森や向こう側の町を、口汚く罵るかのように。
次にまた、この感情が溢れてしまいそうになった時、僕はどうなってしまうのだろうか。
想像もできないし、もう味わいたくもない。けれど、人生というものは、奇妙なモノで、似たような経験を何度も繰り返すことある。だから、いつかこんなことを、僕はまた体験するのだろう。考えただけでも、恐ろしくてたまらない。
……あの少女なら、どうするのだろう?
ふと、そんな考えが頭を過った。
僕は歩みを止めて、何となく振り返る。
その視線の先に、少女の姿はなかった。
どこへ消えてしまったのだろうか。
穢れのないあの少女は、どこへ……。
空を仰ぐ。
ぽつぽつと浮いていた雲は流れ、青と黄色のグラデーションが、時を刻んでいる。
風はいつの間にか凪いでいた。
花はただ、地面を見つめて、太陽から目を逸らしている。
森の方からは、寂し気な犬の遠吠えが、微かに聞こえてきた。
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