Enigmatic
視界の端を一羽の烏が飛んで行く様子を見て、我に返った。
辺りを見回すと、開けた場所にいた。鳩尾の辺りまでの高さの柵が、身体の前にはある。地面は汚れていて、苔や雑草が、タイルを割って生えている。ここは、学校の屋上の上だ。
僕は一体、何をしていたのだろうか。何か、とても大切なことをしている最中だった気がする。だけど、それが何だったのかを思い出せない。自分のいる場所を理解しても、尚更に謎は深まるばかりだった。
確かに、普通は立入禁止のこの場所で、一日の大半を過ごしている。旧校舎ということもあり、施錠されていなかったことを知ってから、ここでサボタージュを行うようになった。ただ、今日に限っては、理由が分からない。目的があって、ここへきた実感だけがあった。
仕方がない。思い出せないのなら、自分が考えているよりも、大切ではないことだったのだろう。自分の判断基準ほど、当てにならないモノはない。
早々に思考を切り替えて、僕は上着のポケットに忍ばせた煙草を取り出し、火を点ける。柵に身を乗り出すと、冷たい鉄の温度が、シャツ越しに伝わってきた。大人の真似事をする僕をせせら笑うかのように、午後の柔らかな風が、煙草の灰をさらっていく。夏の終わりも近い。そうなればまた、日常がやってくる。与えられて、奪われるだけの日常が。
柵の下を覗く。五階建ての校舎の上ということもあり、かなりの高さがあった。下は駐車場みたいだけど、そこも使われていない。そもそも、来年にはこの校舎が取り壊されるという話も出ているらしい。近々、大規模な整理も入ると、風の噂で聞いた。だから、今はただの、コンクリート造のケースと化している。
他人の目が、僕を見つめる気配。誰かが影で、僕を笑う声。そういった、しがらみめいたモノから、ここは解放してくれる。誰からも、あると認識されているのに、ないように扱われる場所として。僕も、同じように。
でも、本当になくなったら、それから僕は、どうやって過ごせば良いのだろうか。少なくとも、あと二年以上は、この学校に通う予定だ。居場所をなくしてしまったら、日常へと強制的に押し戻されて、今より暗い生活を送る羽目になる。それは惨めったらしい。日常とは、終わりのない終わりだ。その中に生きる人間は、魂を摩耗している。そんな人間としての在り方を、受け入れる覚悟なんて、僕にはない。
なら、いっそのことここから飛び降りてしまおうか。
不意に、そんな考えが脳裏を過った。
終わりのない世界を終わらせるためには、磨り減らし消えてしまうか、粉砕するしかない。永遠は、自ら殺す以外に終わらせる手段がないのだから。
重さに耐えきれなくなった煙草の灰が、地上へ向かって落ちていく。灰は目で追うよりも早く、見えなくなる。ほとんど口にしていないのに、半分以上は燃焼していた。それでも、肺はニコチンを十分に堪能していたみたいだ。短くなった煙草を、鉄柵に押し付けて火種を消した。
生きていくのが、こんなにも苦しいのはどうしてだろう。痛覚を通さない苦痛が、肌の下を巡る。煙草を吸っても、お酒を飲んでも、苦しみからは解放されない。僕はただ、自分の生きられる場所で、息をしたいだけなのに。何かに縋ってもその先で、また苦痛に沈んでしまう。まるで、それこそが、人間の本来の姿であるみたいだ。
遠くの風景を眺める。さっき視界の端を飛んでいた烏は、もうどこにもいない。吐き出した煙も、臭いさえなくなっていた。太陽も雲も、本当に動いているのか、と疑わしくなるくらいに、変化のない景色だ。
退屈だから、みんなどこかへ行ってしまったのだろう。
一所に留まることは、何にもできないのだから。
でも、ここに通う僕以外の生徒たちは、こんな輪を乱すようなことをしない。
退屈だけど、みんなこの場所に留まっているのだろう。
誰かが笑いながら口にした『死にたい』という言葉を、思い出す。そうだ。退屈を終わらせたいのなら、死んでしまえば良い。でも、当たり前だけど、みんな本当は、死にたくはないのだ。死ぬのだけは怖いのだ。死にたいと言いながらも、勇気を持てないのだ。だから、この日常を甘んじて生きている。縛られた、味気のないガムのような毎日を過ごしている。それが一番の平和だと、信じ込みながら。
『生きることが苦しいのなら、それよりも強い苦しみを味わえば良いの。その先で、命を落としてしまったとしてもね』
僕はそう教えてくれた人のことを思い出した。
死にたいと言った誰かと同じように、笑いながらその人は僕の目の前で死んだ。
怖くても、苦痛から抜け出したいと呟いて、簡単に自分の手首を包丁で切った。
生まれてきた意味も、生きている意味も。
他人から与えられた全てから、解放されるのだと、その人は言っていた。
だけど、そうはならなかった。
世界はその人が死んでからも、意味を与え続けた。葬儀を執り行い、身体を焼いて、墓に名を刻み、誰かがその人を語り、苦しかったのだと、心を定義付けた。
そう。
本当は、永遠から抜け出したとしても、自分という存在は、人々の隙間を彷徨い続ける。どうだろう。そう考えれば、死ぬことにも意味が与えられた気がしてならない。生きる意味とか、義務めいたモノから逃げたくてそうしてきたのに、全てが無駄になってしまう。
つまり……。
そもそも初めから、全て無駄だったということだろうか。
生まれてきたことこそが、そもそもの間違い。答えを出せない破綻した式の前で、怠惰に過ごしているだけ。次を見出すことも、破り捨てることもせずに、ただダラダラと解答を考えている、フリをしているのだろう。
つまらない思考で、時間を浪費していると、チャイムの音が鳴った。今から開始なのか、休み時間に入ったのかは知らない。そもそも、ここまで届いてくるような喧騒もないから、判断のしようがなかった。
そんな静寂をノックする音が、背後から聞こえてくる。階段を踏みしめる音。静かな屋上に、その音はよく響いた。こんなところに、誰だろう。背後を振り返ると、ちょうど視線の先の窓に白い影が映った。
錆びついたドアが、甲高い音を立てて開く。
その先に立っていたのは、一人の少女だった。
「何してるの?」
挨拶とか、驚きよりも早く、少女は疑問を投げかけてきた。僕の姿が、向こうに見えたのだろうか。それにしても、狼狽も戸惑いもなさすぎる。僕はただ呆然として、口を開けたまま答えられない。そんな情けない姿を一瞥してから、少女は振り子のように長い髪を揺らしながら、こちらへと近付いてきた。綺麗な黒髪は、陽の光を受けて、艶の良さを放っている。僕は、少女の瞳に映る自分自身を見つめながら、未だにぼうっとしていた。まるで、不思議な現象を目にしているみたいな気分だ。いつの間にか、彼女は手の届くくらいの距離にまで近付いていた。そして、何を言うでもなく、じっと僕の目を見つめ返してくる。
知っている。
知っていることを、思い出す。
僕は以前、少女と出会ったことがあるはずだ。どこでだったのかは思い出せない。うちの学校の制服を着ているから、どこかですれ違っただけか、あるいは何かしらの有名人なのかもしれないけれど。
でも、少女と会って、何か会話を交わした気がする。
内容は憶えていない。
ただ、会話をしたという記憶だけが、脳みその底に落ちていた。
「どうしてここに?」
黙したまま見つめ合うのに、耐えられなくなって、僕は少女に問いかける。少女は僕を見つめたまま、毛先を指でくるくると回す。安物の鉛筆みたいに、細い指だ。そう言えば、僕は彼女の質問に答えていなかった。そう思ったけれど、少女自身も、聞き返してこなかったので、僕は答えない。
「ここへ来たいと思ったから」少女は溜めた割に、端的な答えを口にした。表情はない。強いて言うなら、整った顔立ちが相俟って、冷たい印象を受ける表情だ。
「鍵が開いてること、知ってたの?」
「まあ」
「普段から、よく?」
少女は面倒くさくなったのか、軽く頷いただけで、質問を切って捨てた。僕の隣に移動すると、さっき僕がやっていたみたく、鉄柵に身体を預けてから、腕をクッション代わりにして、頭をうずめていた。僕よりも頭一つ分くらい背が低いからか、高さはちょうど良いみたいだ。
「で、そういうあなたは、よく来るの?」腕の中で頭をこちらに向ける。
「僕は毎日ここにいるよ」僕も同じように鉄柵に身体を預けた。遠くの景色を眺めてみるけれど、相変わらず変化はない。「君と会うのは、初めてだよね?」
「ううん」と、少女は首を横に振った。「初めてなんかじゃない」
想像していなかった答えを返されて、僕は彼女の方へと顔を向けた。彼女は僕の視線に気付いていないのか、ずっと前だけを眺めたままだ。まるで、どこか遠い、僕の目には映らない景色を見つめているかのようだった。
「私はあなたに、毎日会っているわ。毎日、こうして喋っている。あなたは憶えていないでしょうけれど」
「何かの冗談かい?」
おかしなことを言われて、僕はつい動揺してしまう。どこかで出会ったような気はしていた。会話をしたという記憶も、朧気だけどある。でも、毎日ここで会っているなんてことは、流石にないはずだ。
それとも、少女の言う通り、本当に僕が憶えていないだけなのだろうか。
「無理もないわ」少女は、深く溜息を吐く。そして、スカートのポケットから煙草を取り出すと、すぐさま火を点ける。
「流石に、良くないと思うよ……」紫煙が、空へと昇っていく様を見遣りながら、僕は自然とそう口にしていた。自分が言えた義理じゃないことは、重々承知している。だけど、何だろう。以前にもこうして、誰かが煙草を吸っているところを、咎めた憶えがある。それが誰だったのかは忘れた。この少女だったのか、他の誰かだったのか。誰にしても、僕は指摘するべきだ、と義務めいたモノで口を動かしていたことに、違いはない。
少女は僕の言葉に耳を貸さず、深呼吸をするみたいに煙を吸った。そうして吐き出された煙は、有害なモノなんて含まれていないかのように、薄っすらとしている。
「あなただって、人のことを言えた義理じゃないでしょう?」
「えっ……?」
焦った声を発した僕の顔の前に、少女は煙草を見せつけてきた。
「だって、これを教えてくれたのは、あなただもの」
僕が、煙草を教えた?
冗談にしても突飛な話に、つい辟易してしまう。揶揄うとしても、流石に無理がある。僕が煙草を吸っているのは、臭いなどで簡単に分かるかもしれない。それでも、友人や家族にさえ、喫煙を問い質されたことも、吸っていると話した覚えすらなかった。だから、誰かから聞いたという線はないはずだ。
「沈黙は肯定よ」
「いや……、そんなはずは……」
意味不明な言い分に、僕の心はすっかり乱されていた。どうしても、僕に認めさせたいらしい。頭の中で、どうにかして少女のことを思い出そうとしてみる。けれど、どうだろう。あと少しで思い出せそうだ、というところで、上から踏みつけられるかのように、記憶に蓋がかかってしまう。
「……会っていたとして、僕たちはどんなことを話していたんだい?」僕は溜息を押し殺して、ヒントを求めた。
少女の言っていることを、認めたくはない。だけど、否定することも今の僕には難しい。事実、会ったかもしれないという、曖昧な記憶は存在している。頼りにはならないけれど、それに輪郭を与えることの方が、楽な気もした。
「今みたいなこと」と、僕の質問に対して少女はまた、あっけらかんと答える。
「僕と君は、毎回こんな会話をしているのかい?」
「まあ、そういうことね」少女は煙草を消すと、吸い殻を柵の向こう側に投げ棄てる。舌打ちのような落下音が、地上の方から小さく聞こえた。
「まるで、記憶障害みたいだ」それは、僕だけではなく、少女に対しても言ったつもりだった。彼女の言い分を信じるのなら、僕の方がおかしい。けれど、僕の主観からしてみれば、狂っているのは少女の方にしか思えない。
「そうじゃないよ」少女は首を横に振って、否定する。
「なら、どういうこと?」
「あなたの中で、時間が壊れているだけ。今も、昔も――、未来でさえも」
「そんなSF小説を、以前読んだことがあるよ」僕は笑いながら言った。
「そんな話もしていたわね」ジョークにジョークを返すつもりで答えたのに、至って真面目な表情だった。少女は柵に背を凭れかからせて、僕とは反対側を向く。「でも、これはある意味で、あなたにとっては現実なのよ」
そう。これは紛れもなく現実だ。煙草の味もするし、匂いも分かる。鉄柵を握れば、硬さも冷たさも感じる。空の色だって、さっきから変わらずにオレンジ色のままだ。街は夕景に染まっていて、さっきの烏も、ぐるぐると同じところを飛び回り続けている。
何も変わっていない。
変わらないからこそ、現実なのだ。
「ところで、いつまでここにいるの?」
少女にいきなりそんなことを言われて、我に返る。考えに耽っていると、つい沈黙してしまうのが、僕の悪い癖だ。
「いつまでって、学校が終わるまでだよ」僕は短くなった煙草を一口吸う。舌の上には、濃いニコチンの味が、突き刺さっていた。
「もう、学校は終わってるわよ」
またしてもおかしなことを言われて、僕は口を噤んだ。
学校が終わった?
そんなはずはない。まだ始業すらしていないはずだ。僕はさっき、教室に鞄を置きに行ってから、すぐにここへ来た。それで、少女と出会って……。
それで、どうしたのだっけ……。
ついさっきのことを思い出そうとしただけで、頭が痛くなってしまう。駄目だ。これだとまるで、僕の方が狂ってみるみたいだ。
頭痛を和らげたくて、空を仰ぐ。そこには、グレーの分厚い雲が広がっていて、一羽の鳥がグルグルと僕たちの真上を飛んでいた。風はそよそよと吹いている。揺れる空気は湿りを帯びていて、雨の気配を感じた。ここに屋根はない。降り始めれば、たちまちのうちに雨ざらしになってしまう。雨に濡れるのは嫌いだ。冷たい雨に濡れてしまうと、煙草を吸えなくなる。
「あなた、いつ煙草に火を点けたか憶えてる?」
少女のいる方を向くと、彼女は僕の手元に指をさしていた。僕は自分の指に挟まった煙草を見て、少し考える。
「いつって、さっき点けたじゃないか」
しかも目の前で、吸っても良いかと聞いたはずだ。その証拠に、先端には火種がランプのように灯っている。まだまだ減ってもいない。わざわざ聞くまでもないことだ。
顔を俯けて、僕は煙草を見つめる。何だか気分も悪くなってきた。少女がさっきから、訳の分からないことを問い質してくるからだろうか。聞いてくる分には構わない。でも、ここまでされると気が狂いそうになる。
まるで、自分の行動が、本当に自分の行ったことなのか。そんな疑いが、頭の中を侵し始めて、確証が持てなくなってしまう。
「ねえ、君は……」
顔を上げて、視線を向ける。だけど、その先に少女はいなかった。目の前にいると思っていた少女はいつの間にか、僕の隣で陽を背にして立っている。後ろからの陽光のせいで、表情に翳りが差していた。
「……どうしたの?」
さっきまでとは様子の違う少女に、僕は声をかける。具合が悪いのだろうか。血の気が引いていて、ただでさえ白い肌は、更にその白さを増している。
「私が、いけなかったのね」少女は、独り言ちるように言った。「私が、生まれてきたいと願ってしまったことが、そもそもの間違いだったの」
困惑する僕を余所に、彼女は独白を続けた。何か、気に障ることをしてしまっただろうか。目を伏せて呟く少女を見つめながら、僕はできる限りのことを考える。その間も、掻き混ぜられているかのような、不快な感覚が、胃の底で蠢いていた。もしかすると、その不快な感覚が、態度になって表れていたのかもしれない。それならば、悪いことをした。確かに、少女の意味不明な問に、苛立ちにも似た気持ちを抱いている。でも、それを態度に表すことは、話が別だ。
「悪いことをしたよ。ごめん。君は真面目に話していたんだよね」
居心地の悪さを誤魔化すように、煙草を一口吸った。だけど、少女は僕の言葉に耳も傾けず、俯いた顔をなかなか上げない。
そんな遣り取りをしていると、暗く濁った空からついに、雨が降り始めた。俄かに勢いを強めて、僕たちを濡らす。煙草の火は、あっさりと消えてしまう。中へ入ろう、と言おうとしたけれど、何故だろうか。雨に濡れる少女の姿を目にしていると、声をかけることがかえって憚られた。そうしているうちにも、雨は僕たちの身体から体温を奪っていくというのに。
「ねえ、私を殺して」
何の脈絡もなく、顔を上げると、少女はそう言った。頬には伝った雨が筋を作っている。
少女は一歩、僕に近付くと手を取る。雨で濡れているからか、手の平は硬くて冷たい。死人を思わせる手だ。彼女は、僕の手を取っただけで何もしなかった。ただじっと、その温度を伝えるだけが目的みたいに、握られている。僕もまた、振り払って拒んだりはせず、受け入れていた。
僕たちの視線の合間を、雨のカーテンが遮る。顔の距離は近い。なのに、彼女の瞳は、遥か彼方にあるみたく、遠かった。
殺して、と言ったきり、少女は口を閉ざしていて、時間だけが過ぎていく。
目的が本当に分からない。気まずくて、一瞬目を逸らしてしまった。けれど、少女は僕をじっと見つめ続けていた。
緊張を含んだ汗が、背中を伝う。
彼女の顔にも、汗が浮かんでいた。
もうすぐ、夏が来る。
気を紛らわせるためか、脳裏では勝手に、そんなことを考えていた。
「君がそう言ったとしても」お互いにこうしていても、埒が明かないし、このままだと、二人して倒れてしまいそうだ。そう考えた僕の方から、沈黙を破った。「僕には君を殺す理由がない」僕はじっと、彼女がしていたように真剣な表情を作って見つめる。「それに、君がそう言うのなら、理由を教えてほしい」
「私が、あなたの中から生まれたがっているからよ」
少女の口から漏れた吐息が、空気を白く濁らせる。もう何を言われても、驚くことはなかった。それは、少女をおかしな人間だと、捉えているからではない。自分の中にも、えも知れない妙な感覚が巡っているからだ。
「寒くなってきたね」
空を仰ぐと、いつの間にか雪が降り始めていた。少女の纏う黒いコートにも、僅かに積もり出している。僕はそれを握られていない方の手で、払ってやった。悴んだ指先にとっては、酷な冷たさだ。
そう言えば、以前にも誰かにこんなことをした。酷く寒い、底冷えする冬の日だったはずだ。どこで、誰とそんなことをしたのかまでは、思い出せない。ただ、とても大切な人と、とても大切な日にそんなことをした。
昏い瞳を覗いていると、僕はつい記憶を辿ろうとしてしまう。
ずっと大切にしてきたはずのモノを、忘れている。
忘れてはならない日々を、忘れている。
きっとそれは、日常という濁流が、僕から奪ったのだ。
取り戻さなければならない。
たとえ、手懸りなんてなかったとしても。
少女は僕に、そんな焦燥感を思い起こさせる。
失くしてしまったモノを、取り戻さなければならない。
彼女が、その人に似ているからだろうか。
どこかで会った気がするというのも、その人と重なっているからだろうか。
分からない。
答えだけを提示された式を見つめているみたいで、もどかしい。
「ほら、私を殺してよ」
記憶の霧に迷い込んでいた僕を、少女の声が引き戻す。頭上には、月のない夜空が広がっていた。少女は握った僕の手を、そっと自分の首へと宛がう。
「何をやっているんだ、君は」
恐怖から、僕は少女の手を振り払い、一歩後退さる。心臓が早鐘を打ち、息も上がっていた。ただ手を首元へと、持っていかれただけだ。言葉にしてみれば、それだけのこと。なのに、僕は心の底から恐怖している。分かりたくなくても、理由は分かっていた。きっとあのまま、首を掴んだままだと、僕は本当に力を入れていただろう。そして、少女の望み通り、命を奪ったに違いない。
そんなことを考えてしまう僕が恐ろしくて、
そんなことを考え自体が、僕の本質のようで受け入れ難い。
それに……。
僕はやっぱり、以前にも同じようなことを経験している。この月のない夜空のように、暗い空間で、誰かの首を締めようとした。捻じれて複雑に絡まった紐を、簡単に解けないように、憶えているのに、思い出せないことが多すぎる。
「君は……、何なんだ、一体」
目の前にいたはずの少女は、ほんの僅かの間、目を離した隙に消えていた。
急いで辺りを見回すと、ちょうど背後に彼女の姿を捉える。だけど、安堵していられる状況ではなかった。
「何をやっているんだ!」
少女は鉄柵を乗り越えた先で、向こう側を背にして立っていた。蒼すぎる夏空を駆ける風が、彼女の服を揺らす。手は柵を握っているけれど、放せば簡単に落ちてしまうだろう。それに、あの細い指では強風には耐えられないことは、目に見えていた。
止めなければ。
頭の中で、何度もそんな命令が巡っていた。なのに、脚が竦んで動かない。もしも失敗したら? もしも間に合わなかったら? いや、そもそもこの距離は間に合わない。一歩でも足を踏み出せば、きっと終わる。そんな臆病たちが、僕の身体を雁字搦めにして、簡単に諦めを覚えさせていた。
「あなたを救うには、もうこれしかないのよ」
少女の頭上を、小さな流星が駆けていく。
「教えてあげるわ」
少女の黒い髪が、雪の混じった灰色の風で靡く。
「私はもう、どこにもいない」
少女の引き攣った微笑みを、大粒の雨が濡らす。
「私はもう、どこにもいけない」
少女の言葉を、夕陽へと飛んで行く烏の鳴き声が嘲笑う。
「だからあなたは、あなたの生きるべき場所で、私を覚えていて」
そうして、少女の身体が、激しく移ろう空へと倒れていった。
弱く燃える蝋燭の火のように、
無防備な魚が鯨の口へと吸い込まれていくように、
一瞬で、呆気なく。
地面にぶつかった音は、ずっと聞こえてこなかった。それは単純に、僕が聞きたくなかったからかもしれない。何にしても、あの高さだ。落ちて助かっているはずがない。
僕の心は、酷く冷めていた。
動揺どころか、怒りも悲しみも、湧いてこない。
ただ、死んだという事実だけを、他人事のように分析している。
そうだ。
お陰で全てを思い出せた。人は分からないことがあるから、恐怖する。分からないことがあるから、動揺する。全ての恐ろしさの根源には、狂気にも等しい不明が存在している。少女を理解して、全てを思い出した僕に、その恐ろしさはなかった。そして、記憶として蘇ったモノのせいで、僕の心は死んでしまったのだ。恐怖の反対は、安全ではない。無だ。何にも靡けない、つまらなさのせいで、僕の心は死んでいる。
そう。
少女を生み出したのは僕だ。
彼女が出て行った、あの冬の日から。
僕はあの現実で全てを忘れてしまった。
山を登る時に、無駄な荷物を棄てていくように、生きるべきとされた日常の中で僕は、少女との日々を棄て去ったのだ。それでも、心は憶えていた。棄ててしまったモノが、山を登る僕自身と同じくらい、大切だったのだから。
だから、今度こそ誰にも邪魔されない、二人だけの世界を創り出した。
奪われ続けるだけの、終わりのない終わりの中でも、この世界なら、二人で生きられる。
なのに……。
それが僕を狂わせていた。
日常が魂を摩耗させていくように、
狂気もまた、磨り減らされていく。
気付かぬうちにゆっくりと、逃避してきた僕の世界が、日常へと変化していったのだ。そうして、僕はまた彼女を失う。それこそが運命であるかのように。
少女はそれを理解していた。僕の中では生きられないと、分かっていたのだ。
だから、生まれることを拒んでまで、僕の前から消えようとしたのだろう。二人の日々における一瞬の全てが重なった、今日という
「それでも――、君といたい」
望む。
それがたとえ、背信とか逃避だと、蔑まれたとしても。
少女のいない日々を過ごすくらいなら、いなくなってしまった方が良い。
鉄柵へと手をかけ、下を覗く。地上には華のように赤く散った染みができていて、その上には少女の身体があった。顔はうつ伏せで見えない。
「許してほしい……。僕もいなくなることを」
誰にともなくそう言って、柵に身体を乗り出し、落ちていく。
冷たい風の感触。
視界に広がっていく、少女の屍。
赤い鉄と、淡い花の匂い。
逆様になった。
全てが透き通っていく。
滞っていた全てが、流れ出していく。
僕は再び、時間になっていく。
抱えきれないほどの『自分』という曖昧な存在が、砕けて散っていく。
それで良い。
だってそれは――、世界を否定した存在への、細やかな罰なのだから。
◇
目を覚ますと、僕は鉄柵に背を預けていた。太陽はすっかり傾いていて、校内にはざわめきが低く響いている。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。全身が重くて、節々も痛む。無理な体勢だったのもあるのだろう。まるで、自分の身体じゃないみたいだ。
屋上の鉄柵の隙間から、中庭に面した校舎の時計を確認すると、すっかりお昼休みは終わっていた。誰も声をかけてくれなかったのだろうか。今から戻れば、教科担当の先生に怒られることは必至だ。
立ち上がり、大きく伸びをする。屋上に吹く風は、とても清々しく、気持ち良かった。まだ頭には眠気と疲労が残っているけれど、致し方ない。あとは教室で小言を聞いた後に、ゆっくり眠れば良い。
そんな怠惰を欠伸に忍ばせながら、校舎内へと通じるドアへと向かう。
ふと、僕は何かを忘れている気がして、振り返った。僕の座っていたところに目を遣ったけれど、何も落ちていない。制服のポケットを弄っても、落としたものはないみたいだ。
何だろう。
……そう、ものじゃない。
僕は誰かと、待ち合わせをしていた気がする。いつも一緒にいた、誰かを待っていたような……。
奇妙な感覚に、薄ら寒さを覚えてしまった。生憎と、こんな不良学生につるんで、せっかくの授業の時間を無駄にするクラスメイトはいない。みんな根の真面目さだけが、取柄なのだから。
きっと、嫌な夢を見たせいだ。
内容は既に忘れたけれど、とても後味の悪いモノだったことだけは、憶えている。
僕はそう結論付けてから、ドアを開いた。
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