July

 七月一日の昼頃、僕はとある少女の家を訪れていた。外の気温は、月を一日跨いだだけなのに、もう少しで三十度に届きそうなところまで上がっている。さっき買ったばかりの飲み物も、すっかり温くなっているかもしれない。そんな心配をしながら、合鍵を使い、部屋へと入った。ドアを開けると、外とは裏返しのような冷気が、頬を撫でてくる。遅れて、様々なモノが入り混じった臭いが、鼻を衝く。一歩間違わなくとも異臭だ。そろそろ近隣からクレームがくるかもしれない。かく言う僕も、ドアを閉じる頃には、臭いが気にならなくなるくらいには、慣れてしまっている。


 靴を脱いで部屋へと上がる。簡素なワンルームの室内は、カーテンが閉じられていて薄暗い。臭いの割には、部屋は綺麗にされている。部屋の奥に、仰向けで眠る少女の姿を見つけた。人が入ってきたというのに、死人みたくじっと動かない。呼吸も浅く、寝息さえ聞こえてこなかった。


 彼女は僕の従妹だ。高校へ進学して、一人暮らしを始めたのは良いものの、すぐに不登校となり、今は引き籠りになってしまった。理由は知らない。ただ、堕落しているというわけではなさそうだ。僕はそんな彼女を、親戚からどうにかしてほしいと頼まれ、時々こうして顔を出している。大方、誰でも良かったのだろうけれど、家が近いから選ばれたのだろう。


 どうせ起きないと踏んで、足音も気にせず、部屋の真ん中にあるテーブルへと向かう。テーブルの上にある、リモコンの温度を確認すると、最低温度まで下げられていた。親戚の人には、電気代がかかりすぎているから、節電をさせろと今朝、電話口で言われたばかりだ。頼むのは良いけれど、これではまるで飼育係みたいだ。そんな悪態を飲み込んで、平均的な冷房の温度へと設定を変更する。


「おはよう」


 ようやく少女は目覚めた。寝覚めが良いのか、瞼はしっかりと持ち上がっている。もしかしたら、狸寝入りをしていただけなのかもしれないけれど。布団から身体を起こすと、サイズの合っていない寝間着の裾を引き摺りながら、こちらへ近付いてくる。


「今日は早かったんだね」


 リモコンを抜き取って、少女は言った。時刻は十二時。早いとは言えないだろう。


「君のお父さんが、電気代を何とかしてくれ、だってさ」設定温度が元通りになる音を聞きながら、そう返した。少女は興味もなさそうに、ふぅん、と僕の言葉を切って捨てる。もっとも、言うことを聞いてくれるなんて、最初から考えていない。ただ、何も言わないのは親戚の叔父さんに、申し訳が立たないから、やることはやった、というポーズが欲しかっただけだ。


 少女は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、コップにも入れずに口を付けた。大胆に傾いた飲み口から、彼女の頬を液体が滴っていく。案の定、噎せ返ると、咳と共に噴き出したお茶が、床を濡らした。彼女は気にする様子もなく、ペットボトルを冷蔵庫へと戻す。それも、過去に何度か指摘したので、僕は放っておくことにした。


 ビニール袋の中から、買ってきた自分の飲み物を取り出す。呆気に取られていたから忘れていたけれど、僕も喉が渇いていたのだ。キャップを開けると、炭酸の小気味良い音が響く。


「それで?」少女が僕の前の席に座る。「今日は何の用なの?」


「用っていう用はないよ」僕も少女に倣って、椅子へと腰かける。一応、彼女の家だから、彼女が座ってから座るのが、礼儀だと思った。


「そう。物好きなのね、あなたも」


「頼まれたからね」


 顔を覗いてくる少女の視線から逃れるように、僕は台所へと目を逸らした。流しの中には、山のように食器やら、インスタント食品の食べ残しが積まれている。臭いの原因は間違いなく、あれらだろう。掃除をするべきか、と考えたけれど、今朝がゴミ収集の日だったと思い出してやめておいた。幸いにも、エアコンのお陰で、まだ蠅は湧いていなさそうだ。そういう意味でも、この部屋の設定温度は適温なのかもしれない。


「ねえ、煙草ある?」返事をするより早く、少女の手は、僕の買ってきた袋へと伸びていた。


「あるけど、そこにはない」ズボンのポケットから煙草を取り出して、机の上に置く。「言っておくけど、君は未成年だろう?」


「良いじゃないの、別に」少女は箱から一本取り出し、テーブルの上のライターで火を点けた。「どうだって良いことを気にするのね、あなたって」吐き出した煙は、エアコンの風に吹かれて、黄ばんだ天井へと昇っていった。


 僕は呆れて……、というより、諦めて何も言えない。仕方がないので、僕も煙草を取り出し、火を点ける。無言の時間が続いた。二人の吐く煙は、上へ上へと昇っては、そこに停滞していく。そう言えば、この部屋は禁煙だったはずだ。もし煙草を吸うなら外で吸えと、親戚にも言われていた。煙草を燻らせながら、そんなことを考える。深く吸って、吐き出してしまえば、すぐに忘れられるほど、どうでも良いことだった。


 そもそも、僕は少女がもう一度、学校へ通えるようになるまで、面倒を見てくれ、と頼まれただけだ。それ以外のことは頼まれていない。最低限、禁止されていることに注意をするくらいが、本来的な義務の範疇だろう。だから、彼女が何をしようと、僕には関係のない。もっとも、こうして未成年に煙草を与えていることが露見すれば、色々と問題にはなるのだろうけれど。


 そう言えば、少女がこれに興味を示したのはいつだっただろうか。煙を吐く少女の顔を見ながら、記憶を巡らせる。僕たちがこうして過ごすようになってから、それほど時間は経っていない。なのに、明確には思い出せなかった。僕が煙草を吸っていることだって、いつ知ったのだろう。少なくとも、指摘されない限り、吸わないはずなのに。吸わなければ臭いに敏感にはなると、聞いたことがある。それにしたって、この部屋の臭いに掻き消されてしまうのではないか、とも思う。


「何?」


「いや、何でもないよ」僕は首を横に振りながら、記憶の流れを止めた。思い出せないことは、無理に思い出さない。それが僕の主義だ。それに、少女も大して興味はなかったらしい。それ以上、問い詰めてくるようなことはなかった。


「それで、君はどうして学校へ行きたくないんだい?」話題も特にないので、いつも通りの質問を僕は投げかけた。


「行きたくないなんて、言ってないわ」短くなった煙草を、少女は灰皿へと押し付ける。


「事情があるのなら、聞かせてほしいんだ」


「事情、ね……」


 少女が考えるように目を伏せると、会話は途切れてしまう。しつこく聞くのはやめておく。この手の話題で深く問い詰め、心を余計に閉ざされるのは避けたいところだった。それにこれは、自戒と牽制の意味合いが強い。お互いに、会っている理由を忘れないようにするための問答。ダラダラと二人で過ごしていれば、いつかはお互いがお互いから抜け出せなくなる。依存は、本来の目的とか、役割が喪失した時から始まる現象だ。この質問を忘れた瞬間、きっと僕は少女と過ごす時間を日常だと勘違いするし、彼女も同じようになるだろう。そうだ。これは日常ではない。少女と僕の時間は、全く別の存在の中に流れている。それを忘れて馴れ合いが始まってしまえば、良くない方向へと傾いてしまうだろう。


 煙草を消して、僕は飲み物を一口飲んだ。やることはない。十分にも満たない時間で、今日のノルマは達成された。時間が音も立てずに死んでいく感覚を、煙草の煙に覚える。この部屋には、娯楽という娯楽が一切ない。ゲーム機はもちろん、テレビや携帯の類も。一度、僕がYoutubeで動画を見せたことがあったけれど、つまらなさそうにしていた。元来、そういったモノに興味がない子みたいだ。彼女が僕といる時にしていることと言えば、寝るか、煙草を燻らせるか、ご飯を食べるくらいしかない。


「ねえ」


 僕が次の煙草に火を点けた時、少女が沈黙を破った。


「何だい?」そう答えながら、肺へ煙を入れる。


「出かけても良い? 久々に」


 少女の言葉のせいで、煙を上手く吸えなかった。噎せ返りながらも、彼女の顔を見遣る。ふざけているのか、と思ったけれど、至って真剣な表情だ。


「どういう風の吹き回しだい?」僕は眉間に皴を寄せながら聞いた。

「やりたいことがあるのよ」

「何?」

「自分探し」


 ……頭を抱えたい気分だ。だけど、二ヶ月も引き籠っていた少女が、外へと出たいと言うのには、正直なところ感心を覚えた。どんな心境の変化があったのだろうか。それを確かめたい気もしたけれど、聞いたところで、逆効果だとも思ってしまう。外へ出たいと言ってくれただけでも、ありがたい話だ。それに、学校生活へ復帰する取っかかりになるかもしれないのなら、何でも構わない。


「良いよ、行こう」


 僕がそう答えると、少女は立ち上がった。


「着替えるから、出てて」


 彼女が手で追い払うような仕草をする。

 点けたばかりの煙草を消して、僕は暑い外へと出て行った。




 十分ほどして、少女が出てくる。日に焼けていない真っ白な肌は、陽光を反射して目に痛いくらい眩しい。服はノースリーブのワンピースを纏っていた。こちらも肌に負けず劣らず、真っ白だ。恐らく、買ってから着る機会がなかったのだろう。感想を口にしようにも、湯だった頭では、難しかった。そう言えば、少女の私服を見たのはこれが初めてだ。子どもの頃と、寝間着姿が印象的だから、とても新鮮だった。


 鍵を閉めてから、僕たちはアパートの階段を降りる。歩道と二階廊下の高さは、精々が三メートルくらいのはずなのに、暑さは何倍にも増した気がしてしまう。飲み物も煙草も置きっ放しなことを思い出したけれど、もう一度階段を上る気には、なれなかった。


「それで、どこへ行くんだい?」僕は隣に立つ少女へと聞く。


「さあ、どこでも良いわ。あなたの行きたいところへ、行ってちょうだい」


 随分と投げやりな答えに、僕はまた頭を抱えそうになった。言い出した人間が無計画なのは、質の悪い話だ。しかし、それはけっこう真面目な回答だったらしい。少女は動く素振りや、どちらへ向かいたいかの意思さえ、見せてくれなかった。


 仕方なく、僕は街の中心とは反対側へと足を向ける。平日とは言え、お昼時だ。街へと出向けば人混みは避けられない。僕は人混みが嫌いだし、彼女も久々に外へ出て、揉みしだかれるのは、酷な話だろう。


 少女は特に反対もせず、黙って隣を歩いてくる。暑さのせいで、身体中が汗ばんでいた。建物に反射した光たちが、遠慮なく目を焼く。先に見えるアスファルトの上では、陽炎が意地悪をするように踊っていた。蒸れた夏の匂いが、身体に染みついていく。


「何も、こんな日に出ることなんて、なかったんじゃないかな……」顎先から滴る汗を拭いながら、僕は愚痴を零してしまう。


「良いじゃない。どうせ、あなただって、暇なんでしょう?」


「そうは言っても、さ……」


 口を動かす度に、汗がまた顎先に溜まり、落ちていった。それが鬱陶しくて、僕は口を閉ざしてしまう。横目に少女の様子を窺ってみる。彼女は、久々の日光を浴びているはずなのに、汗一つ浮かべていない。冷房に当たり過ぎると汗を掻けなくなると、聞いたことがあるから、その類なのだろうか。何にしても、倒れられないようにだけ、気を遣うことにした。


 それからしばらくの間、目的もなく歩き続けた。僕たちの街は、都会ほど大きくはないけれど、背の高い建物が乱立している。昔はもっと下町らしく、多くの商店や民家が並んでいた。もちろん今だって、生活に必要とされるスーパーや商店は根強く残っている。だけど、大半は取り壊されてしまい、マンションやビルへと姿を変えてしまった。遠くまで望めた風景も、モザイク模様で遮られ、空は人工物で狭く縮こまっている。そして、そこに何があったのかさえ、もう思い出せない場所も多い。沢山の幸せを叶えるために、小さなモノたちは消えていく。僕たちの覚えていた街の姿は、もうここにはないのだ。


 ……でも、本当の姿なんて、何にしてもないのだろうとも思う。昨日の自分も、一年前の自分も、今の僕とは違っている。その時の自分を僕は憶えていないし、たとえ憶えていたとしても、何故そんな自分だったのかは、分からない。僕たちは、変わり続けて、忘れ去られていく。永遠にそのままでいることは、誰にもできない。時間という概念が、僕たちの中に流れている限りは。


 風が吹き、少女のワンピースが揺れる。気付けば、僕たちはかなり遠くの方に辿り着いていた。道幅は車がギリギリ二台と半分、通れるくらいだろうか。両端は、長方形の建物で挟まれている。新築だろうか。人のいる気配はない。いや、そもそもこの通に、僕たち以外に人がいるようには思えなかった。身体の向いている先には、東西に伸びる私鉄の線路が敷かれている。そこを越えると隣街だ。こんなところへ来ることなんて、用事がない限りはほとんどない。


「向こうに渡る?」


「あなたが決めて」僕の問いかけに、少女は大して興味もなさそうな口調で答えた。


「結局、本当に自分探しなんてしているのかい?」暑さのせいか、腹の底で沸々と、苛立ちが沸いているのを感じた。「君が外へ出たいと言ったのは嬉しい。実際、君はもう二ヶ月も外へ出ていなかったのだから。でも、目的もないようだと、僕だってその、不安になるんだ」言葉を選びながら、僕は口にする。冷静を装ってはいるけれど、端々の語気は自分でも些か、荒っぽくなっていた。年下の女の子を責め立てるというのは、気持ちの良いものではない。少女は僕の言葉を聞いても黙したままで、答える気は見せてくれなかった。


 埒が明かない。思考をそう割り切って、辺りを見回す。ちょうど視線の先、踏切に近い道路の反対側に、自動販売機を見つけた。かなりの距離を歩いたからか、喉はカラカラに渇いている。やっぱりあの時、労力を惜しまずに、飲み物を持ってくるべきだった。僕は無言でそちらへと向かう。少女はその後ろに付いてきた。だけど、反対側へ渡ると、彼女は日陰に隠れるみたく足を止める。


「君も何か飲むかい?」心配になりながらも、ポケットから財布を取り出す。少女はただ、建物の影を浴びながら、俯いているだけだ。その表情には、物憂げな感情が浮かんでいた。


「どうしたんだい?」


 声をかけると、少女は徐に顔を上げる。真っ直ぐと、黒い瞳が僕を捉えた。まるで、落とせば割れてしまう宝石のような、冷たい瞳。車二台と半分の幅は、通る分には狭くとも、向かい合う分には意外と距離がある。瞳の中なんて尚更だ。なのに、何故だろう。彼女の瞳に映る僕の姿はとても――、とてもよく見えた。


「私は、もう必要ないみたい」少女は唐突にそんな台詞を吐くと、口角を上げた。「あなたはきっと、その先へと行くべきなんだと思う」


「何を言ってるんだ、君は?」支離滅裂なことを言い出した彼女に、思わず聞き返してしまう。


「あなたは、向こうへ行くべきだわ。そうすれば、きっとまた日常を繰り返せる。それに、そうすれば私は、あなたに与えられた意味からも、抜け出せる」


 ――本当に、生まれてこられるのよ。


 少女の声は、ともすれば聴き逃してしまいそうなくらい、小さい。だけど、辺りは静寂に満ちているお陰で、耳元で囁かれているみたいに、よく聞こえた。


「ねえ、本当に……、何を言っているのか分かないよ」


「思い出して」足を踏み出した僕を、少女の言葉が制止させる。「本当に自分を探していたのは、誰だったのかを」


 僕はまだ、彼女の言葉の意味が分からなくて、空っぽの思考を巡らせる。本当に自分を探していた人間。それは、少女のはずだ。彼女があの家で、自分探しをしたいと言い出して……。いや、そうだったのだろうか。


 目の前の少女の影が、曖昧になっていく。段々と、全てがぼやけて、輪郭が崩れる。


 誰だ?


 僕はこの子を知っている。昔から一緒にいた、大切な人だ。そう理解しているのに、同じくらい、何も思い出せない。彼女と過ごした記憶が、すっぽりと抜け落ちている。


「これは、私とあなたが、自分を探すために必要なことだったのよ」


 混乱する頭に、少女は追い打ちをかけてくる。


「人はみんな、意味を与えられて生きているのよ。あなたも、私も。あなたは多くの人々に意味を与えられてきた。私はあなたに、意味を与えられてきた。でもね、それは呪いと同じよ。自分という唯一無二のモノを、内側へと閉ざすための呪い」


 そうだ。


 彼女の言う通り、僕は多くの意味を与えられてきた。名前を、人生を、あるべき姿を。いつだって、僕を動かしていたのは、他人の中にある虚像だった。いつだったか、そんな継ぎ接ぎの存在は、自分ではないと気付いた。いや、自分だと信じたくはなかった。だから僕は……。僕は、どうしたのだろう……?


「思い出して」今度は少女が僕の方へと、近付いてくる。「自分が何者であったのか、知るための気持ちを。それこそが、あなたがあなたでありたいと願うための、衝動だったことを」


 少女の声が頭の中にこだまする。記憶と意識が、声によって掻き混ぜられていく。僕と少女の関係。それさえも、時間の中で呆気なく拉げて、思い出せなくなってしまう。


「あなたは、向こう側へ行くべきよ」冷たい手の平が、肩に置かれる。いつの間にか、少女は僕の傍にまで迫っていた。間近になった少女と、顔を合わせる。「ここにいても、何も解決しない。きっと、私との時間が日常になって、朽ちてくだけよ」


「なら、君はどうするつもりだい?」


「私は……」口籠ると、少女は僕から顔を逸らした。その視線の先には、静まり返った隣街の風景があった。「向こう側へはいけないわ」首を横に振って、少女は答えた。「だってあそこは、あなただけが、いても良い世界だもの」


「そんな……」


「悲しそうな顔をしないで」少女が僕の頬を撫でて、微笑んだ。「きっとこの世界に、私は刻まれ続けるわ。そうすれば、思い出せなくとも、生きていけるようになるはずよ」


「おかしい。おかしいよ、そんなの」必死になりながら、少女の細い腕を掴む。酷く熱のない肌だった。


「死に方を選びたいのよ、私は。それが、自分で自分を規定するための手段だもの」


「なら、僕はそうならないってことかい?」


「ううん。あなたは、あなた自身の絶望から、抜け出すことができるわ。そうしたら、こんなところじゃなくて、もっと素敵な場所で、あなたは自分を選ぶことができる」


 細い腕が、僕の手からすり抜けた。降り注ぐ陽光が、目に染みる。痛い。痛くて仕方ない。


「そこで見届けていて。私が、私になる瞬間を」


 踏切の真ん中へ少女が立つ。すると、それまで息を潜めていたかのように、警鐘がけたたましく響き始めた。列車の気配が地面を伝ってくる。少女はそれでも動かない。白いワンピースのスカートが、夏の風に揺れていた。


 身勝手な僕の夢が、身勝手な少女の惨劇で終わる。その予感が、ずっと僕の内側で回っていた。なのに、身体は竦んで動いてくれない。何故なのか、脳の片隅に居座った冷静な理性が、考える。だけど、僕はそれを認めたくなくて、何度も自分の脚に動けと、無駄な命令を下した。そよ風が次第に勢いを付けながら、こちらへ向かってくる気配を感じる。僕はそれでも、とぼとぼと情けない足取りで、少女の近くに行った。


「やめてくれ、僕を置いて行かないでくれ!」


 必死に、白いワンピースの後姿に向かって叫んだ。踏切のバーから身を乗り出し、彼女をこちらへと引き戻そうと、必死に藻掻く。だけど、僕の身体はそれ以上先へ入れない。何か、不思議な力でも働いているんじゃないか、と疑ってしまうほどに。そう。あの冷酷な理性は、少女を引き留めたいと願う本能以上に、身体を生かそうとしているのだ。僕自身もきっと、それに抗おうにも、抗えない。それを心が理解すると、僕はより一層、情けなさを噛み締める他なかった。


「さようなら」


 最後の一言を合図に、少女の身体へと巨大な鉄の塊が突っ込んでくる。

 本当に僕は、愚かな人間だ。


 自分の嫌ってきたことを、大切な人にもしていたのだから。


 それでも。


 僕は君さえも愚かだと思っている。

 何も変わらない。

 誰も変わらない。

 変えられない。

 僕たちは……。

 僕たちは、同じような絶望を、繰り返し続けるだけなんだ。



 踏切の警鐘が、街の静寂を踏み潰していた。強く吹く風に染みついた臭いが、鼻腔を擽る。血肉に塗れ、穢れた視界。それでも、空は気持ち良く晴れており、遠くの飛行機雲も見てとれた。


 線路の左手側には、緊急停止した急行列車が止まっている。そこから、人の降りてくる気配はない。列車を動かす車掌でさえ、止めた理由が分かっていないみたいに。いや、本当に分かっていないのだろう。僕だけが、惨劇を見つめていたのだから。


 目の前には、真っ赤に染まる線路があった。空の色とは対照的な、赤く濡れた線路が。敷かれた錆色の石は、更に深く色付いていていて、枕木には飛散った液体が染み込んでいる。彼女の着ていた白い服の布切れが、鳥の羽根みたく宙を舞う。方々には細切れになった肉が散っており、それは僕の足下にも、いくつか転がっていた。それでも、少女が生きていたという事実だけは、嫌でも残っている。


 少女が死んだ。


 見る影もないくらい、無残に。


 僕はその肉片の散らばる線路を、意味もないのにしばらく見つめた後、顔を上げた。踏切の向こう側の騒がしさが耳に届く。視線の先には、大勢の人たちが佇んでいた。さっきまではいなかったのに。みんな、僕を見る目は恐ろしいくらい、冷ややかだ。ここにいることを、咎めるかのような呪いの瞳。


 分かっている。

 僕はここで生きていけない人間で、本来いるべき世界は、そちら側なのだと。

 境界線に立っていた僕は、少女の肉片を踏みながら、向こうへと歩いて行った。

 爽やかな夏の風が、僕の背中を押す。

 後ろは振り返らない。

 振り返ったところで、そこにはもう、何もないだろう。

 遮るバーを跨ぎ、多くの人間のいるところへと立つ。


「おかえり」


 誰かが僕にそう声をかける。


 暖かい。


 人に迎え入れられることは、こんなにも暖かい。


 忘れていた温度を思い出す。


 胸の内側がチクリと痛んだ。


 冷たい感覚が、傷の場所を教えてくれる。


 だけど、それも一瞬のこと。


 人々の暖かさのお陰で、冷たさはすぐに消えてしまった。


 そして。


 僕の背後では、何事もなかったかのように、世界が回り出していた。

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