Neverland

『こんばんは。今日は何だか、蒸し暑い一日でしたね。夏は終わったというのに、おかしな気分です』


 帰宅してすぐに、スリープモードから復旧したパソコンのモニターには、端的なメッセージが表示されていた。僕はそれを確認しながら、ネクタイを緩める。薄暗い部屋は、彼女が寄越したメッセージの通り、蒸れた空気が充満していた。真夏も過ぎて、稼働回数の減ったエアコンに電源を入れると、ツンとした臭いと共に、冷たい風が部屋を駆けていく。型落ちのポンコツでも、冷やしてくれれば何でも良かった。


『こんばんは。今、帰ってきたところなんですけれど、こちらも蒸し暑くて、参ってしまいます。エアコンとはきっぱりと、おさらばしたはずなんですけどね……』


 キーボードを打ち、返信を入力する。送信が終わると、完了のステータスが、日付を跨いでいることを教えてくれた。先ほどのメッセージの受信時間は、二十二時。僕が帰宅する二時間前のモノだ。彼女はもう、寝ているかもしれない。今日はもうこないだろう。返事は明日の朝かな、なんてどこか諦めにも似た感情を抱いていた。


 メッセージウィンドウを消して立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出す。湿気や仕事のことを、冷たいアルミ缶が吹き飛ばしてくれる。プルタブを引くと、カシュ、と小気味良い音が、ワンルームに響いた。終わり良ければ総て良し。この諺の真意を理解したのは、この歳になってからだった。


 空き腹にビールを流し込み、胡乱なネットの海を覗く。最新のタイムラインを流すために、更新ボタンを押すと、紫色の背景に『never Land』と文字が浮かんだ。それがこの海の名前。照明代わりのブルーライトの眩しさが、僕の目を焼いていく。仕事で見飽きたパソコンでも、プライベートとなれば話は全く別だ。再読み込みまでの時間、ビールを飲みながら待つことにした。


 never Landは、世界有数のSNSだ。十年ほど前からサービスが開始して、今では世界中にユーザーがいる。最初は何者でもない個人が、日常の断片を発信する、ミニブログ程度の立ち位置だった。だけどここ数年でその役割は変わり、企業や有名人どころか、地震情報などでさえ、いち早く入手できる便利ツールへと、進化を果たしたのだ。生活の必需品に、片脚を突っ込んでいると言っても良いだろう。


 無論、それだけ大きなサービスともなれば、使い方は人それぞれだ。イラストや、写真を載せたりする者。それを無断で転載する者。歌を歌う者。寂しさを紛らわせるために、ポエムなんかを綴る者。それだけなら、まだ良かったけれど、最近は些か内情も変わりつつある。世間の出来事に対して、専門家ぶった意見を述べる者。注目されたいばかりに、軽犯罪を行う者。複数のアカウントを使い分けて、他人の悪口を垂れ流す者。上げ始めたら、枚挙に暇がない。もっとも、日常の断片の発信という意味では、どうだろう、本質は変わっていない気もする。


 そんな有象無象たちに、共通しているモノが一つだけある。それは、誰もが正義を持っているということだ。自分の発言を、自分の思想を、自分の理想を、間違いのないモノとして文字に起こし、写真に収め、映像に残し、発信する。人目に付くし、賛同してくれる人間も多いからだろう。傍から見る分には、無法地帯とまるで同じだ。今だってスクロールをすれば、そんな人間の思考に、グッドマークの付く様が見受けられる。


 それでも、ここは名前の通りにネバーランドだ。永遠の地。地球が産声を上げてから、何億年も経てば、人間がそれを穢してきたように、この土地もまた、多くの人間で穢されていく。汚れないモノなんてない。生を認識したその瞬間に、僕たちは穢れているのだ。


 ……と、僕は流れる画面をぼうっと眺めながら、そんなことを考えてみた。帰宅してからやることなんてない。切り抜けるだけの日常も、発信できるくらい確信のある正義も、僕にはなかった。どこにでも転がっている一般市民。そんな僕は、こうして流れのままに見つめる作業が、ちょうど良いのだ。


 流れる情報を肴に、ビールを飲んでいると、メッセージウィンドウに通知が付いた。例の彼女からだ。起きていたんだ。僕は早速、そのメッセージを開く。


『お仕事お疲れ様でした。この時間でも、まだ暑いですよね……。電気代も馬鹿になりませんし、私も早く冬まで封印したいです』


 取り留めのない会話。酔いが駆け回る頭で返信の文面を考える。エアコンの効きが悪いからだろうか。薄っすらと背中が汗ばんでいた。


 僕が彼女と出会ったのは、数年前のことだ。当時の僕は、何を思ったのか、一枚の写真を上げた。何の変哲もない、朝焼けの写真。それが、彼女の琴線に触れたらしく、僕にメッセージを送ってきた。最初は、よくある詐欺とか、美人局に持ち込もうとする類のアカウントかと、警戒していたのを覚えている。だけど、そんな素振りを彼女は一切見せなかった。写真の話から、お互いの話へ。お互いの話から、日常の報告へ。僕たちはこうして、他愛もない雑談を毎日のように繰り返していた。


 彼女に関して僕が知っていることは、ほとんどない。彼女も僕と同じで、頻繁に情報を発信する人間ではなかった。僕が彼女に関して、確証を持てる情報は、二つ。一つは、アカウントの名前は『少女K』というこだわりのないモノであること。もう一つは、写真が好きであるということ。そのくらいだ。そのくらいしか、素性を知らない。出会った頃に、自称歳下と言っていたけれど、それはネットならいくらでも誤魔化せる。もちろん、詐欺や美人局ならつゆ知らず、そんな気もないのに、歳を騙したところで、何のメリットもないだろう。


 それに、僕にとっての少女に対して、確かなモノはそれだけで良かった。知る必要なんてない。このメッセージウィンドウという、澱みの中でのやり取りさえできれば、それだけで良いのだ。


『ありがとうございます。クーラーの効きが悪いせいか、涼しかったのは一瞬だけでしたね……。電気代もどんどん値上がりしてますし。本当に、生き辛い毎日です』


 メッセージを送信して、僕はまた濁流の中へと潜る。話題は、アイドルの不倫と、政治に対するアンチテーゼが目立った。どちらも僕には大して、興味も関係もない話題だ。


 疲れを拭い去るつもりで眺めていたけれど、何だか余計に疲れてしまった。僕は何の気もなしに、少女Kのプロフィールページを開く。今日は写真を投稿していた。前回から、半月ほど経っているだろうか。そこに文言は添えられていない。ただ、夕陽の沈んだ後の薄暗い、海の写真だけが貼られているだけだ。彼女は時折こうして、写真をnever Landに上げる。それ以外に発言しているところを、見たことがない。彼女の写真に対して、誰かが感想を、メッセージとして残すこともあった。だけど、それに対して彼女が返信をしたことは、一切ない。もちろん、僕の知らないところで遣り取りをしているのかもしれないけれど。


 写真は、素直に綺麗だと感じた。携帯のカメラで、撮った写真ではないのだろう。静止する波や木々の枝葉は、拡大してもその存在感をありありと示している。


 少女の撮る写真は、いつも海ばかりだ。しかも、大抵が同じ場所だった。もしかしたら、この海の近辺に住んでいるのかもしれないけれど、それを探るようなことはしない。ただ、調べようと思ったら、すぐにでもできると思う。海には特徴的な桟橋が伸びていて、そこから等間隔に細い電柱が伸びているからだ。こういった場所は、ネットで調べれば写真映えのするスポットとして、ヒットするだろう。いかにも、自己顕示欲の強い人たちの、好きそうな場所だ。ここだって、既に詳細が知られていても不思議ではなかった。


 それでも、少女の素性を探ろうとは思わない。興味がないのとは違う。彼女を知ってしまうと何だろう……、後戻りできない気がしてしまう。まるで、繊細な硝子細工を握りつぶしてしまうかのように。僕にその選択肢はない。だからこうして、彼女がnever Landに上げる写真を時折眺めて、会話をするだけで満足だった。


 そう、それだけで良い。


 だけど……。


 残り一口になったビールを呷り、ゴミ箱へと投げ捨てる。放物線を描いて収まったそれは、からからと軽い音を響かせた。


 僕は、時々この海に独り佇む少女の姿を想像してしまう。明かりの灯る桟橋の下で、静かに佇む少女の姿を。


 波の音も、風の温度も知らない、あの場所に佇む少女の姿を。

 それはどこにも流されない、密かな想い。

 どこにも発信されない、確かな気持ち。

 僕にとって真に楽園ネバーランドと呼ぶべき世界はきっと、少女のいる風景のことなのだ。



 カーテンの隙間から漏れる光が、ちょうど僕の瞼の上に溜まっていた。眩しさを覚えながらも、目を開く。枕元の時計は、午前十時を少し過ぎたところだった。一瞬、遅刻という言葉が頭を過ったけれど、すぐに日曜日だということを思い出す。因みに、昨日も同じようなことを寝起き様に考えたはずだ。


 光が顔に当たらないよう、頭を動かす。せっかくの休日なのだ。二度寝をしなければもったいない。でも、頭はもう起きるべきだと、判断したのだろうか。変に冴えてしまって、目を瞑っても睡魔は遠くへ行ったきり、戻ってきてくれなかった。身体にはまだ、平日の疲労が残っているというのに、酷な話だ。


 手探りでカーテンをちゃんと閉めて、楽な姿勢を取る。身体を起こすのは面倒だ。やることもないので、ぼうっと天井を眺めることにした。天気が良いからか、家族連れやカップルの幸福な声が、外から響いてくる。近所にある複合商業施設へと、みんな向かっているのだろう。あちこちへ行かずとも、そこなら一日を簡単に潰せるくらい、広大な施設だ。


 天井を見るのも飽きた僕は、そちらへと背を向けて、タオルケットを深く被った。薄手だから、遮音は期待していない。お陰で、町中でやっている宗教の演説みたく、有意義な休日と他人といることの素晴らしさを、説教されているような気分になった。誰も疲れて動けない人間のことなんて、考慮してくれていない。弱者はいつだって、怠慢だと見下される世の中なのだ。


 昨日、あの子からのメッセージはこなかった。無論、それでも僕はnever Landに入り浸り、丸一日を費やしていた。休日にどこかへ出かける、なんて発想はない。今日も寝ることに飽きたら、またパソコンを開いて、楽園の濁流に飲まれるだけだ。


 しかし、毎日のようにメッセージを送ってきてくれていたのに、昨日はどうしたのだろう。いつもなら遅くとも、翌日中には返信がくるのに。珍しいこともあったものだ。何か、外せない用事でもあったのだろうか。彼女のプライベートを知らないから、推察しかできない。ただ、メッセージがこないなんて些細なことで、僕は一抹の不安を覚えていた。


 そんな不安は渦を巻き始め、睡魔は更に遠くへと離れていく。お節介な演説たちが、ベッドの上で時間を浪費しているだけだと、僕を責めている気がしてしまう。悶々とした気持ちに苛立ちを覚え始めた僕は、タオルケットを跳ね除ける。渋々ベッドから這い出た。基本的に、返信がこなければ、僕からメッセージを送ることはない。迷惑になるといけないし、催促をしているみたいで嫌だからだ。


 でも、そうも言っていられないような気がした。悪い予感、というやつだろうか。あまりそんなモノを信じる質ではないけれど、今だけはその直感を、否定してはいけない。何故だかそんな不安めいたモノが、心に巣食っていた。


 眩暈のする頭を抱えながら、パソコンの前に座る。電源を入れて起動するまでの間も、不愉快な幸福の声は、小波のように外から流れ込んでいた。


 画面が開くと、パスワードを入力して、早速never Landを立ち上げた。強烈な紫色の光が、画面いっぱいに広がる。痛みを覚えるくらいに、強烈な紫。思わず、僕は目を細めてしまった。


 ホーム画面が表示されるや否や、情報の濁流が溢れる。メッセージ欄には、新着メッセージの通知マークが一件、表示されていた。早速、僕はそこへとマウスカーソルを合わせた。


『こんにちは。お金に困っていませんか? 今ならこのリンクから……』と、そこまで読んですぐに削除する。所謂、投資系のスパムメッセージだ。


「紛らわしい」


 そう独り言ちてから、ついでに通報もしておいた。こういった輩の手の内は、昔から全然変わらない。騙される人間もいるから、このやり方を続けているのだろうか。そう考えると、どうにも世話ない話だ。


 無気力感に包まれながらも、少女Kとのチャットルームを開く。最終履歴は、依然として僕が金曜の夜……、もとい、土曜の零時過ぎに送ったモノで終わっていた。しばらくの間、ぼうっと送信済みのマークを見つめる。僕の送ったメッセージに、目を通した様子もない。時はそこに、凍り付いたままだ。いつもの深夜に送った時とは、違う感覚が胸の内にはあった。もう二度と、少女からのメッセージは届いてこない。そんな永遠にも似た諦め。何故、そんな風に思ってしまうのか。分からない。


 僕はその答えを探すかのように、少女Kのプロフィールページへと飛んだ。トップには、あの夕焼けと海の写真が表示されている。こちらも更新された様子はない。


 寂しい。


 不意に、そんなことを感じてしまった。こんなこと、本当ならなんてことはない。ただ単純に、少女の息を感じられないだけだ。仕事へ行っている時だって、彼女とは断絶されている。それと同じこと。同じことのはずなのに、今は全てが無に帰したかのように思えてしまう。


 つまり、僕の心のほとんどが、気付かない内に少女が占めていたということ。僕はいつから、こんなにも弱くなったのだろう。そんなことを考えながら、僕は少女のアカウントを閉じる。


 ホーム画面に戻ると、そこではまた、誰かの発信した情報が自動的に更新され、流れを作っていた。カラフルなお酒の写真。迷惑行為を撮影した動画。革命家を夢見る少年と、それに石を投げる大人たちの遣り取り。イラストレーターの描いた絵。小難しい言葉を羅列して、政治を批難する老人。自らの正義で他人を下に見る、エリートめいた人間たち。


 僕はそれを流し見ながらも、全てが正しいと思った。一方の意見も、附随する反対意見も読んで、納得する。それだけだ。それだけで、僕の中には何一つとして、新しいモノは芽生えてくれない。様々なペンキを、次から次へと重ね塗るように、他人の考えを刷り込んでいるだけ。次第に僕という持論カンバスは、全て間違いであると否定されているみたくなり、自分の正しいと思えるモノが、曖昧になっていく。


 僕には何もないのだろうか。

 他人が口にする、正しさや間違い。

 それを読み取るだけで、意思の乏しい機械のようなモノが、僕の正体。


 いや……。


 正しいと思えることが、今はないだけだ。

 僕にとっての正しさは、そう……、少女のみだった。


 そんなことに、気付かされてしまった。いつの間にか、僕は少女のことを自分と重ねていたのだ。紅色の夕景に染まった、あの海の写真を脳裏に浮かべる。潮風も、波の音も立たない、静止した海のことを。少女にとっては、ファインダーを覗いた先にある、あの景色こそが、楽園ただしさなのだろう。


 でも、それだって僕の想像でしかない。僕がこう考えていたところで、少女が立った一言、違うと言っただけで、否定に繋がる。僕の正しさなんて、いとも容易く、瓦解してしまうほどに脆い。


 苦しい。


 苦しいのに、僕は濁流から抜け出せない。


 今も誰も彼もが、貶し合いをしている様が流れていく。世界を自分の信じる正しい方向へと導くために。他人を否定して、貶めて、水を穢していく。僕はただ、流れに揉まれながらも、傍観しているだけだ。そんな僕を否定するみたく、言葉の矛先はこちらを向いている。お前の正しさを教えろ。お前はどっちに付くんだ。暗にそう聞かれているようで、落ち着かない。そんなモノたちの正しさなんて、僕は知らないのに。


 少女からのメッセージが欲しかった。


 彼女との遣り取りの間だけが、僕の空っぽの心を満たし、世界に目を背けていられる。


 そうか……。


 この楽園に流れ着く多くの人間もまた、本当は誰かで心を満たしたいのか。自分の正しさに附随する疑問と苦悩から、解き放たれたいのか。それがたとえ、他人を貶す道筋であったとしても。誰かを傷付けるやり方であったとしても。


 みんな、弱い。


 情けないくらいに弱くて、自分なんてモノがない。そんな現実を見ないために、みんなここにいるんだ。家族であれ、友人であれ、名前も知らない人間であれ。空っぽを満たすために、他人を傷付け、そこから流れるモノを注がなければ、心を保てない。その中で溺れて、透明な苦しみに責められなければ、生きていられない。


 ……少女は、どうなのだろう。


 僕へとメッセージを送ってくれなかった昨日は、誰で心を満たしたのだろう?

 そんなこと、知る由もないし、知れるだけの権利もない。それでも知りたいと望んでしまう、僕がいる。もしもそれが、罪であると言われたとしても。


 外から漏れる休日の喧騒が一層、耳につく。窓へ目を遣ると、カーテンの隙間から傾いた陽の光が、強く差し込んでいた。光の中では、小さな埃が舞っている。さっきちゃんと閉めたはずなのに。面倒な気持ちを押し殺しながらも、立ち上がった拍子に、床に置いてあった空き缶の類が倒れた。ビールの缶からは徐に、アルコールの残り香が漂ってくる。嫌な臭いに、つい顔を顰めてしまう。酷い有様だ。そう嘲るように、子どもの笑い声が外から響いてきた。


「分かっているさ」


 カーテンを閉じることを諦め、僕は椅子に座り直す。そう。こんな風に生きることを、生活と呼ぶのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。時間の渦に巻かれながら、死へと向かうだけの、こんな生活なんて。


 虚ろな気持ちのまま、倒れた空き缶を拾い上げて、ゴミ箱へと棄てていく。臭いは慣れたせいか、少しマシになっていた。


 そうしていると、視界の端に映ったモニターに、通知のマークが浮かぶ。手にしていた缶を投げ棄てて、僕はモニターに食らいつく。


 差出人は、少女Kから。

 チャットルームを開き、早速メッセージを確認する。


「……何だろう?」


 画面に開かれたメッセージを見て、僕は首を傾げてしまう。それは、どこかのマップデータと『生き辛いあなたへ』とだけ記された、意味不明なモノだった。間違えて送ったのだろうか。それにしても、こんな怪しいメッセージを送る意味が分からない。


 マウスカーソルを、マップデータのリンク上へと運ぶ。運んだだけで、押すのは躊躇われた。こういうことは、信じたくはないし、考えたくもないけれど……。もしも彼女が、僕を騙そうとしているとしたら。このリンクの正体もマップデータなどではなくて、フィッシングサイトのリンクだとしたら。理性はそう訴えかけていた。何せここは、他人が他人を食い物にすることなんて、日常茶飯事の楽園だ。いくら長い付き合いがあっても、簡単には信じられない。


 冷静なところから、そんなことをつらつらと正論を述べる誰かに、僕は従う他ないと考えた。


 それでも……。


 マップデータに添えられた一言に、何度も目を通す。


『生き辛い』


 その言葉が、妙に引っかかった。一昨日、僕が何気なく送ったメッセージにも、同じ文言が混ざっている。


 生き辛い。


 僕は、この人生が生き辛い。


 まるで、見えない何かに追いかけられているみたいで、いつも不安だ。今だってそう。少女を信じたいと望んでいるのに、自分の中にいる他人が、正義を振りかざす。不思議だ。自分なんていないと言いながら、そいつの存在だけはありありと感じる。そして、言いなりになりながら、彼女へと猜疑の目を向けてしまう。誰かを信じること自体が、間違いみたいな世の中。誰も信じられない。それでも、誰かを信じなければ、僕は孤独の淵へと蹴落とされる。渦の中で、死という到達点に辿り着くまで、たった独り流され続けてしまう。少女の送ってきたこの言葉は、僕を見透かしているようだった。


 だから、僕はリンクを踏んだ。


 セキュリティソフトの警告は出ない。普段から使っているマップサイトが、モニターに表示された。少女の指定した座標に、ピンが刺さっている。

 そこは、海岸だった。写真らしきものは載っていない。それどころか、海岸の名前もなかった。表示されているのは、緯度と経度だけ。航空写真に切り替えても、海という情報以外に、何も分からない。誰もそこを訪れたことがない、ということなのだろうか。


 海岸のある場所は、僕の町からずっと離れている。電車を使っても、最寄り駅までかなりかかりそうだ。時計の時刻は、まだ午前十時。日帰りで行けないこともない。どうするべきだろう。


 そんな逡巡があったのは、ほんの数秒だけだった。

 パソコンの電源を落とし、立ち上がる。

 得体の知れない衝動が、僕の内側を衝いていた。そこに、少女がいるとは限らない。そもそも、少女なんて存在が、本当にいるのかさえ怪しい。


 それでも……。


 誰かに縋ることしかできない僕は、ただ闇雲に、名もなき楽園を目指すことに決めた。



 例の海岸のある最寄り駅に着いた頃には、日の入りが目前に迫っていた。駅員のいない、無人駅で、利用客もいない。山が近く、少し離れたところから、波の音が聞こえてくる。空は晴れていて、行楽日和だというのに、人の気配が全くなかった。


 改札代わりの切符入れに、切符を入れて、外へと出る。駅の前にはコンビニどころか、商店の一つも見当たらない。昨今、話題の秘境駅というやつだろうか。もっとも、そう表するには民家もあるし、中途半端な気もするけれど。


 大きな道路を渡り、海のある方へと向かう。見る限りは幹線道路だろうけれど、車は通っていない。あまりにも閑散としすぎている。立ち並ぶ民家は、人の住んでいるような雰囲気はない。植木鉢や、子ども乗る三輪車なんかは置かれている。でも、どれも手入れはされていないみたいだ。まるで、この町だけが、死んでいるみたいで、気味が悪い。


 それでも、不思議と怖いとまではいかなかった。少女がいるかもしれない、という期待がそれを紛らわせていることもあり得る。でも、もっと違うのは、ここへ来たことが初めてではないような気がしたことだ。実際に訪れた覚えはない。少女の写真に、空気感が似ているからだろうか。考えてもみたけれど、そんな簡単に、片付けられるほどの話ではないだろう。


 家と家の間にある、細い路地を渡り進んで行く。その先には堤防があった。向こう側に、海が広がっているのだろう。近付くにつれて、波の音が少しずつ、大きく聞こえてくる。一歩を踏み出す毎に、心臓が大きく脈を打った。空は黄色く染まり、陽はすっかり傾いている。


 堤防に設けられた階段を昇り、上に立った。開けた視界を、煌めく光が一瞬だけ、白く燃やす。


 眼下には、海岸が広がっていた。少女の写真と同じだ。砂浜は碌に整備もされておらず、漂流したゴミが、そこかしかに散らばっていた。海を遮るモノはなく、地平線がずっと先まで伸びている。薄っすらと白んだ境界線の上を、二羽の鳥が羽ばたいていった。端から端まで見回してみるけれど、人影の一つも見つからない。そんな様子が確認できるくらいに、空気は澄んでいた。


 魂を抜かれたみたいに、僕は呆然と立ち尽くしてしまう。風が髪を乱すのも、どこかで魚が跳ねる音も、意識の外にあって、ずっと遠くの出来事みたいに、遅れてやってきた。目の前の風景から目を離さずに、堤防の海側に設けられた階段を降りる。砂浜に足をつけると、ずっと忘れていた、曖昧な地面の感触が伝わってきた。


 海岸へと立っただけで、風は一層、強さを増す。まだ夏と秋の狭間だというのに、肌を削ぐような、冷たい風だった。


 海へと歩いていくと、右手側に例の桟橋の姿を見つける。そこには、細い街灯が、首を下げて等間隔に並んでいた。季節を跨いだ向日葵を彷彿させる外観だ。僕はゆっくりと、そちらの方角へと足を向ける。


 桟橋までの距離は、近いと見ていたのに、意外と距離があった。地面が砂地ということもあるのだろう。息はかなり上がっていた。それに、この風の冷たさで鼻が痺れていて、余計に疲労を感じてしまう。


 苦難を受けながらも、ようやく桟橋へと辿り着く。ライトのある方へ身体を向けると、そこは奇妙なまでに、少女の載せる写真の位置と、一致していた。


 ここが少女の見ている、光景。

 彼女が生きている、風景。

 僕はその場に立って、彼女の呼吸を感じた。誰もいない、静かな海の前で。あの切り取られた時間が動いている様を、感じていた。




 結局、少女は現れなかった。金曜の写真の景色に、海が近付いていくと、つい寂しさを覚えてしまう。ただ、彼女の景色に現実で立てただけでも、どこか心は満たされていた。


 仕方がない。諦めて帰ろうと、踵を返したところで、足元に何かが当たった。打ち上げられたゴミの中に混じったそれを、僕は屈んで手に取る。それは、砂に塗れた携帯だった。風の影響か何かで、地表に顔を出したのだろう。液晶は罅割れ、充電口なんかにも小さな砂粒が入り込んでいた。機種的には、比較的新しい。落とし物だとしても、落とされたのはここ数日のことだろう。


 立ち上がり、砂を払ってから、電源を入れてみる。ダメもとのつもりだったのに、電源は簡単に点いてくれた。一瞬、画面が暗くなり、歪んだ僕の影を映す。挙動は不安定だけど、問題はなさそうだ。


 流石に、警察へ届けた方が良いだろう。持ち主は探し回っているかもしれない。無闇に中を覗くのは、良心が許さなかった。


 だけど……。


 ロック画面の壁紙に、一つのメッセージが入れられていることに気付く。


『この携帯を拾ったあなたへ……』


 画面が割れているせいで読みにくかった。後にも文が続いているみたいだけれど、読めそうにない。でも、そんな文面が、そこにあることは確かだった。もちろん、悪戯とか、妙な趣味の持ち主であることも否めない。それでも、一つの可能性――、持ち主が少女なのではないか、と考えてしまった。偶然にしては出来過ぎている。


 ……そんな考えはこじ付けだ。そうやって、否定しようとしても、一度過った考えは、なかなか消えてくれない。


 迷いに迷った結果、僕は中を覗くことにした。画面をなぞると、かくついた動きでホーム画面が現れる。不用心なことに、ロックをかけていなかったらしい。


 罅の入って見えにくい液晶画面に、目を凝らす。


 ホームには、たった二つのアプリしか入っていない。


 一つは備え付けのメモアプリ。


 もう一つは『never Land』だった。


 心臓の鼓動は、潮騒を掻き消すくらいに高鳴っている。呼吸が浅い。こんなモノは、誰でも入れているモノだ。さっきまでは、半ば信じ込んでいた必然を、今度は否定しようとしていた。それでも、一つ一つ当て嵌まっていく度に、疑心は確信へと姿を変えていく。


 どちらを先に開くか迷いながらも、僕はnever Landを開いた。後戻りをする、という選択肢は既にない。かくついた挙動の後、アカウントが表示された。



『少女K』



 眩暈が胃の底から、吐き気を持ち上げてくる。動揺のあまり、危うく携帯を落としそうになった。紛れもなくこれは、少女の携帯。おかしな感覚だった。普通に考えれば、ここで携帯を落としたせいで、ログインする手段を失くしただけだろう。でも、今の僕にはそんな在り来たりが、答えであってほしいと願ってしまうほど、嫌な想像が頭を駆け巡る。


 恐ろしい想像を押し流すように、僕はもう一つのメモアプリを開く。そこには、一つのメモが残されているだけだった。


『海で、待ってます』


 最後の一文を読み終えてから、海の方へと目を遣った。


 陽は沈みかけて、辺りには夕闇が広がっている。海面もここへ来た時より高い。夜色の液体の上には、不安定な波が立つ。そんな海に伸びる桟橋は、もう波に飲み込まれかけていた。佇立している街灯が、ノイズを奔らせながら明かりを灯す。


 その桟橋の先。


 ゆらゆらと揺れる黒い影が、海月のように浮かんでいる。

 正体が分からなくて……、

 分かりたくなくて……、

 けれど、分かってしまった僕は、膝から崩れ落ちた。

 空の色が移ろう。

 冷たい風が頬を切る。

 潮の匂いが呼吸と共に香り、

 それに似た味が、舌を撫でた。

 涙。

 苦い感情の味。

 視界に切り抜かれた風景は、写真とは違い、時間と共に進んで行く。

 憑き物が落ちたかのように、鼓動が静まった。

 赤い空が、あの楽園の姿に重なる。

 ああ、そうか。

 君はずっと、この風景と一つになりたかったのか。

 楽園は、人の手によって作られるものではない。

 ただ一人、自分という内なる存在の中にだけ、広がっている。

 そこへ行くために、誰かの手を借りることはできない。

 渦の中でも生きようとする人間には、辿り着けない原風景。

 それでも……。

 きっと少女はそこへ辿り着いた様を、誰かに見届けてほしかったのだ。

 その気持ちを、誰も弱さだと詰ることはできない。

 立ち上がり、桟橋へと向かう。

 靴や着ているものが濡れることなんて、厭いもしなかった。

 等間隔の光は、祝福を表しているみたいだ。

 桟橋の端まで辿り着くと、夜の風が肌に纏わりついてきた。

 潮の匂いに、微かな異臭。

 見下ろすとそこには、こちらを見上げる白い少女の顔が、水の中にあった。

 誰もが弱い。

 その弱さを認められない人間が、こうして死んでいく。

 自らの楽園を求めて、命を絶つ。

 陽は地平線の向こうで沈んだ。

 暗い夜が、水位を上げる。

 だけど、少女の顔は電灯の明かりで、良く見えた。


「さようなら」


 死んだ笑顔にそう告げて、濡れて重たい足取りのまま、踵を返す。

 空には夜の星と、冷酷な笑みを浮かべる三日月が浮かんでいた。

 僕は少女が足を踏み入れた楽園を、穢す気にはなれなかった。

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