Ordinary

 月のない空が、僕を見下ろしていた。風は所有者を探すように、棄てられた空き缶を転がす。週末の、深夜二時ではよく見かける光景。それを横目に、帰路を進む。終電をわざと逃した僕は、二駅離れた駅から徒歩で帰っているところだ。思った以上に脚は疲労を覚えている。タクシーを使う余裕なんて、僕の財布にはない。そもそも、知らない誰かと、狭い車に乗り合わせること自体が嫌いだ。


 空には、長年掃除のされていない部屋の埃みたいに分厚い雲が、隅々まで広がっていた。今朝、確認した天気予報の降水確率はゼロだったはずだ。けれど、この調子なら、一雨くらいは降るかもしれない。それならそれで良い。雨が降れば、止むまでどこかで雨宿りをするだけの話だ。幸いにも、僕が歩いているのは高架下だから、雨を凌ぐには打って付けだろう。


 遠くなる空き缶の転がる音を、意識に残しながら歩く。終電を逃して帰るようになったのは、ここ最近のことだった。好き好んで孤独を選んでいるわけではない。それなりの交友はある。遊ぶことだって、人並みには好きだ。何でもそうだけど、時間と空間を共有すれば楽しい気分になる。


 それでも、こうして独りを選んでいるのは、他人といる時に垣間見える虚しさに、気付いてしまったからだ。例えば、会話にある僅かな間隙に。例えば、同時にグラスを傾けた時の、無言に。その虚しさは、寂しくも苦しくもない。寧ろ、息継ぎのようにさえ感じている。海面から顔を出す一瞬に、本当の自分なんてモノが、見えたような気がしてしまう。その息を吸った時の心地よさが、どうしようもなく虚しい。まるで、楽しいという言葉は、僕の足に付けられた足枷で、その重さによって、時間の底へと沈んでいた。そんな気がしてならない。


 そうやって考えてしまうのは、僕が自分でありたいと、どこかで願っているからなのだろう。だけど……。


 本当の自分なんて、この身体にはないことを知っている。

 海面の向こうに見えたモノが、自分であるなんて考えは錯覚だ。

 本当の自分の姿は、他人たちの心の中にある。

 自分だと思い、信じ込んでいた存在は、ただ相手が僕に投影している虚像。

 楽しいと感じているのも、悲しいと感じているのも。他人に投影された僕が、振る舞うべき姿を演じているだけだ。そこに能動的な意思なんて、本来はない。


 いつの間にか、人間たちの織り成す関係性の海の中で、僕は息を継げずに溺れてしまった。溺れた人間は、次第に呼吸を忘れてしまう。他人の投影する像を紡げずに、自分だとされてきたモノも信じられなくなってしまう。それでも、日常という潮の流れに、身を預け続けるしかない。だから僕は、誰にも侵されない時間を作ることにした。息のやり方を、思い出すために。


 代わり映えのしない高架下の景色を眺めながら、僕は歩き続けた。まだまだやっている店もあるみたいだ。でも、ほとんどは電気も消して、寝静まっている。金曜日なら、嬌声が聞こえてくる時間帯だから、おかしな感じだった。


 何だか、代わり映えのしない景色だ。ほとんど同じルートばかりを歩いているので、正直なところ、飽きがきていた。疲労がいつもより、どっと圧しかかってくるのも、そのせいだろうか。どこかで一休み入れよう。どうせ、家に帰っても出迎えてくれる人はいないし、明日も予定はない。確か、もう少し歩いたところに、小さな公園があったはずだ。そう考えて、運良く見つけた自動販売機で飲み物を買った。一缶八十円のアイスコーヒー。歩き疲れた身体には、値段も冷たさもほど良くありがたい。

 蒸し暑さのせいで、肌にはじっとりと汗が滲んでいた。空き缶を転がしていた風はいつの間にかなりを潜め、空気は沈殿している。


 深い闇へと落ちていくような感覚。


 その心地良い陶酔を、ゆっくりと掻き混ぜるように、どこかから歌声が聞こえてきた。


 最初は、勘違いかと思った。だけど、耳を欹てるとよりハッキリと聞こえてくる。女性――、というよりは、少女じみた幼さの残る声。酔っぱらった誰かが、歌っているわけではなさそうだ。発音はしっかりしているし、何より、歌おうという意思がこちらまで伝わってくる。


 自然と、歌の聞こえる方に足を向けて、歩き出す。その歌声の聞こえてくる場所ははちょうど、目的にしていた高架下の公園だった。僕は何となく、足音を殺しながら、公園へと近付いていく。公園とは言っても、遊具なんてない。ベンチが置かれているだけの、質素な場所だ。両方の入口には金網が設けられていて、高架下ということもあり、コンクリートの天井に覆われている。そのため、外から眺めるだけでも、閉塞感が強い。夜中に人が来ることなんて想定していないのだろう。電灯の一つもなく、夜闇が迷い込んだかのように澱んでいる。


 その中心に、僕は人影を見つけた。


 ぼんやりとしたシルエットは、距離があって顔までは窺えない。だけど、目を凝らさずとも分かるくらいに、真っ白な服に身を包んでいた。こんな時間帯だから、見る人によっては、幽霊のようにも見えるだろう。けれど、僕はそこまでオカルトを信じているわけではないから、然程、驚きはしなかった。着ている服は、ワンピースだろうか。長袖で、しかもスカートは足元まで丈がある。肌の露出は少ない。なのに、遠目でも分かるくらいに、身体のラインは細く、しなやかだ。


 知らぬ間に足を止めて、歌に聴き入っていた。静かな夜に、間違いなく響いているのに、あの空虚な缶の音にさえ、潰されそうなくらい、儚い歌声。歌われている曲は、聞いたことがない。悲しいメロディの割に、よく聴くと明るい歌詞だった。だけど、それを不快だとか、滑稽だとか思う気持ちは湧いてこない。


 とても、懐かしい。


 不思議とそんな風に感じた。思い出とか、記憶とか。そういったモノたちに埋もれた、触れることのできない部分をそっと擽られているかのような、懐かしさ。


 何だろう……。


 言い表すための、適切な単語を僕はいくつも並べられる。なのに、言葉にしてしまえば嘘くさくなり、彼女の歌を穢してしまうかのような、脆さもあった。


 そうして聴き入っているうちに、歌は終わってしまう。静まり返った公園には、残響もない。風と、ずっと遠くで唸る車の音だけが、背景の音となった。拍手をすることも、声をかけることも、許されない雰囲気だ。歌声の主もまた、その場にじっと留まっていた。その間、聴こえてこないはずの歌声が、鼓膜を震わせている。


 いけない。


 やっと目的を思い出したのは、何分くらい経ってからだろう。缶コーヒーの水滴が、手の平を伝う感覚で我に戻った。邪魔をするのは悪いし、時間もかなり遅い。声をかけると彼女も怖がるだろう。そう思い至って、僕は来た時同様に、音を立てないよう、金網状のフェンスからそっと離れる。


「ねえ、あなた」


 僕の背中に声をかけられた。彼女の声だ。気付かれたのだろうか。僕は言い訳を頭で捏ねながら、徐に公園の方へと振り返る。視界の悪い影の中に、僅かな光を反射させる双眸が見えた。


「聴いて行かないの?」


 真っ白のスカートが闇の中で揺れる。それは、深海で魚をおびき寄せる魚の光みたいな誘惑だった。胸の内側で、近寄らない方が良いと本能が叫ぶ。だけど、僕は少しの逡巡の後、考えていた言い訳も簡単に棄てて、公園へと足を踏み入れた。


 少女の方へと近寄る度、静けさはより深くなる。まるで、暗くて、足元も良く見えない深淵を歩いているみたいだった。時間も空間も、ここだけが何もかも違う。

 ゆっくりと歩み寄って、ワンピース姿の彼女の前に立った。背丈は僕よりも頭一つ分くらい低い。


「こんばんは」彼女の口元が、薄っすらと動く様が分かった。近くで耳にする声は、歌声よりも遥かに弱々しい印象だ。


「こんばんは」


 僕たちは挨拶を交わしてから、無言で向かい合った。目が慣れてくると、茫々とした影が、徐々に浮かび上がってくる。

 夜に溶けていた黒く長い髪。血の巡りを感じさせない雪の肌。冬の枯れ枝のような指。薄くて細い、唇と鼻梁。僕の影の映る、アーモンド型の目。

 そして何よりも、彼女は想像通り、少女と称しても良いくらいの儚さを、身体に纏っていた。


「さっきの歌……、その、素敵だったと思うよ」僕は無言に耐え切れなくなって、ようやく話しかける。自分でもどうかと思うくらい、取って付けたような感想だった。


「そう、それはどうも」僕のインスタントな感想に、少女は素っ気なく頷く。本当はこんなことを伝えたいわけじゃない。ただ、最大限表せる今の言葉だ。だから、そうやって足蹴にしてくれた方が、僕としても助かった。


「どうしてこんな夜遅くに?」


「さあ。歌いたくなったから、かな」表情を崩さないままに、少女は答える。笑みには、どこか物憂げで、退屈そうな感情が窺えた。


「あなただって、どうしてこんな遅くに歩いているの?」少女もまた、社交辞令のようにそんな質問を返してくる。


「終電を逃したんだ」


「ふぅん。わざと?」


「……どうして、そう思うの?」不意を突かれたせいで、僕の鼓動は乱れる。僕は少女の瞳を覗く。暗い瞳の奥は、どこまでも夜が続いていた。視線を離したくても離せない。胸の内の苦しみが、身体の全てを少女へと固定している。


「だって、あなたは私と同じ匂いがしたんだもの」少女は一歩、僕へと近付く。ふわりと、甘い香りが鼻腔に広がった。「私と同じで、自分の心が分からない。自分の存在が分からない。そう……。自己が他人から与えられたモノだと、絶望している。だから、他人からできるだけ遠ざかって、自分というモノが、本当は何なのかを確かめようとしていた」


 ――そうでしょう?


 何もかも見透かすような少女の瞳に、僕はつい悪寒を覚えてしまった。笑みには、先ほどとは違った感情が浮かんでいる。それは、喜びに感じた。いや、本当にそうなのだろうか。少女に対して、正しいと思えるモノ全てに否応なく猜疑が混じってしまう。目に見える表情では確かなのに、それを決定付けようとすると、疑わしくなる。まるで、霧を掴もうとしているみたいだった。


「私も、分からないの」僕に背を向けて、少女は公園の暗い方へと踏み出した。「世間一般的に言う、心とか、自分とかが。だって、私たちは誰かがいないとそれを証明できないのに、どうして自分というモノを信じれるんでしょうね」そう言いながら、少女はベンチへと腰かけた。再び暗闇の中に、白い服だけが浮かぶ。


「私は、それを感じてみたい。何にも縛られていない、自分という存在がこの身体を動かしているのなら、それを確かめてみたいの」


 少女はポケットから何かを取り出すと、口元へと運んだ。そして、それが煙草だと分かるよりも早く、火を点けた。


「流石にまずいんじゃないかな」ゆらゆらと、煙が昇る様を見つめながら、僕は遅すぎる忠告をした。明らかに、少女の方が僕よりも歳が下だ。顔立ちからしても、やっぱり二十歳は越えていないだろう。


「私、二十歳だよ」それでも、少女は気にも留めずに煙を吐いた。


「……信じるよ」


 僕は諦めて顔を背けながら、そう言った。本当に二十歳なら、そんな単語を使わないだろう。でも、無理に止めるのも面倒だったので、追求しない。


「さっきの話なんだけど」僕は少女の隣へと腰をかける。煙草は嗅いだことのない、甘さを含んでいた。「僕も確かに、君の言う通りの人間だ。でも、どうして君は、僕に声をかけたんだい?」


「私はあなたを知らないから」口から吐いた煙は、無風のせいで、靄みたく空気の中に留まった。「そして、あなたも私を知らない」


「それが理由?」視線を横にずらすと、少女は前を向いたまま頷く。煙草の火種がパチパチと音を立てた。

 それっきり、僕たちはまた会話を失ってしまう。少女は煙草を吸い、僕は少し温くなったコーヒーのことを思い出し、それを飲んだ。


 一口、また一口。

 自分の手にしたモノを、消費していくだけ。

 少女は煙草を吸い終えると、続けざまに火を点ける。

 僕はそれに合わせるみたく、コーヒーをゆっくりと飲んだ。

 まるで、お互いがお互いに、違った方法で呼吸をしているかのように。


 時間の流れは、もうとっくに狂っていた。彼女の足元には、かなりの吸い殻が溜まっている。少女が煙を吐く度に、空気は湿気を帯びていく。雨の気配。まるで彼女は、どれだけ自分が煙草を吸えば、雨が降るのか、なんて実験をしているみたいだった。


 そんな馬鹿げたことを考えていると、本当に雨が降り始めてしまう。大粒で、勢いも強い。俄かに白み出し、遠くまで見えなくなる。二人だけの空間が、更に閉鎖されていく。僕たちの間には、それでも会話はなかった。もっとも、この雨の中だと、お互いの声は届かないことは、分かりきっている。


 少女がついと立ち上がり、僕の前へと来る。何の脈絡もないし、理由も語らない。ただ淡い笑みを浮かべて、僕を見下ろしていた。だから、僕も理由は聞かず、幽鬼のような少女の姿を見つめる。


 そうして――、彼女は呼吸を挟むと、歌い始めた。

 僕たちを包む雨の音が静まる。

 充満していた煙草の匂いが霧散する。

 コーヒーの冷たさと味を忘れる。

 蒸し暑い空気が消える。

 少女の歌だけが、世界を包む。

 まるで、ペンキで全てを塗り潰してしまうかのように。

 僕の感覚が、少女という色で溢れ返る。

 それは、身体だけではなく、内側までいとも容易く入りこんでくる。

 さっき、初めて歌を耳にした時の、あの言い表し難い感情が、蘇った。

 僕はまた、自然と言葉を探そうとする。

 けれど、すぐに諦めた。

 そんなことは、無意味だ。

 眼前の少女を言葉で表そうとすることに、意味はない。そして、それは一つの絶望でもあった。少女を表せないという、絶望。

 呼吸も、歌う様も。

 僕は何一つとして、真実めいた表現をできない。

 それがとても――、この世の何よりも恐ろしいことだと、僕は思った。

 歌はいつの間にか終わっていた。もう残響さえその場にはない。しばらくの間、気を失っていたみたいに、茫然としていたらしい。


「名前……」自分でも弱々しいと思える声で、僕はそう口にする。「名前は? その曲と、君の」


「名前なんてないよ」少女はそっと、僕の耳元に口を寄せる。「だって、それは自分を縛る呪いだもの」彼女から流れ落ちた髪が、肩を撫でた。


「呪い……」


「あなただって、そうでしょう?」


 耳朶を震わせる少女の声に、僕は眩暈を覚える。名前……。僕の名前。少女の名前。そうだ。そんなモノは呪いでしかない。僕たちの魂を縛る呪い。


「思い出さなくて良い。あなたが何と呼ばれていたか」


 頬と頬が合わさる。死んでいるみたいに、冷たい頬だ。甘い匂いが僕の肺を満たす。夜の風景が、平衡感覚を失った。雨の音はより一層、強く響く。


 苦しい。


 苦しい?


 僕は本当にそう感じているのか?


 それは、与えられた意味だ。伝ってくる感覚はどれも、魂を覆う薄汚れたフィルターを通している。それを真実だと言い張るなんて、ただただ傲慢なことではないのだろうか。


「歌を、聴かせてほしい」僕は少女の肩に手をかけ、そっと身体を離す。彼女の顔は直視できない。目を合わせてしまうと、何かが決定的になってしまいそうだったから。


「君の歌、もっと聴いてみたいんだ」


「そう、それがあなたなのね」少女はそう言うと、僕の手に自分の手を重ねた。

 僕は確かめたいのだ。歌を耳にした時に、内側で渦巻いていたあの感情が、何なのかを。あれが――、あれこそが、僕自身なのだと思う。忘れてしまった、呪われていない自分自身。確証なんてものはない。自分を知るということはつまり、他人に映し出された姿を、この心として認めてしまうことだから。


 おかしな矛盾だ。他人たちが作り出した、僕という像に絶望していたのに、内側を覗いた時に見える自分にさえ、僕は希望を見出せずにいる。


 ただ、少女と過ごすことができれば、その先を目にできるような気がする。

 僕が本来的に、何者であったのか。

 それを思い出したい。

 生まれたままの魂が、どれほど白いのか。

 縛られていない自分が、どれほど脆弱なのか。

 そして、その魂で呼吸する世界が、どれほど素晴らしいモノなのかを。

 僕はきっと、そんな自分を見出せた時にこそ、こんな世界を棄てられるのだろう。


「残念。時間切れみたい」


 少女は僕の頬に両手を添えて、優しく上へ向ける。伝ってくる冷たい温度は、細い指の形を露にしていた。力は入れられていないはずなのに、不思議と抜け出せそうにない。


「あなたは、私を必要としてくれた、それだけで十分よ」


「どういうこと?」


「私の名前も、歌の名前も、あなたは知っているはず」


「……歌?」



 ――歌って、何のことだろう。



 そう聞こうとしたけれど、僕は既に声を失っていた。頭の中が、真っ赤なモノで染まっている。まるで、階段からいきなり突き落とされた後みたいに、理解が追い付いていない。少女の輪郭が、段々と歪んでいく。彼女の後ろ。空中に、何かが見えた。

 線。

 細くて紫色の、線。

 僕は手を伸ばし、それを掴もうとする。柔らかな肉の感触。飛んでいく。意識が、どこかへと。


「ほら、あなたを呼んでいるわ」

「ここだけで生きていくなんて、できないのでしょう?」

「だから、あなたは私を殺すのね」

「でも、忘れないでほしいこともあるの」

「私にかかった名前のろいを……、名前のろいたちを」

「あなたの奥底で、私は生きているということを」


 輪郭を失った誰かの表情が、僕を笑っている。

 耳の奥で誰かが歌っていた。

 僕を正しく揺らす言葉たち。

 だけど、その意味が分からない。

 


 そうだ。


 僕たちはみんな、何かを与えられて生きている空虚なモノなのだ。

 だから僕は、その者たちの待つ朝へと消える。

 少女を求めることは、その者たちにとって、許してはならない行為だから。

 僕も、少女も。

 お互いがお互いに、与え合って生きている。


 ああ、でも……。


 僕は少女に何を与えたのだろう?

 少女は僕に何を与えたのだろう?


 思い出す。

 思い出してはならないことを、思い出す。

 そう……。

 僕が彼女に与えたのモノ。

 それは――、

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