少女胎動

平山芙蓉

Sputniks

 また、兄のことを考えていた。

 一ヶ月前に、空へと旅立った兄のことを。僕は彼の顔を知らない。周りの大人たちの話を、耳に挟んだだけだ。聞く限り、似ても似つかないのであろう。それに、兄は偉大な存在だったらしい。人類や世界のために、空へと旅立って行ったという。僕もまた、その後を追うけれど、今はまだ、ただの物体でしかない。


 僕を包む殻は、微かに振動していた。打ち上げまで、まだ時間はあるはずだ。正直なところ、飛ぶのなら今すぐにでも飛びたい。焦らされるのは苦手だ。でも、大人たちは僕の気持ちなんて知らないし、知る由もない。自分たちの未来が懸かっているのだ。ここで失敗すれば、余所の国々から非難を浴びるか、馬鹿にされることは想像に易い。もちろん、彼らが僕を知らないように、僕も彼らの事情を深くまでは知らない。知っていたら、お互いがお互いを、もっと気遣いあえる、素敵な関係になっていただろう。無論、そう簡単にいかないのが、心を持つ存在だ。そういうことも、生まれてからの短い間に、学んでいた。


 兄も、こんな気持ちだったのだろうか。窓もない暗い殻の中で、空に思う。今も兄は、この星の周囲を回っている。命を大して積まれていなかったから、既にこと切れているらしい。しばらくすれば、この星のどこかへと落ちてくるだろう。いや、落ちてきたところで、形は保っていられない。この星を包む膜は、外からくるものを焼き尽くし、灰に変えてしまう。


 それでも、兄に会えたのなら。


 色々と話をしてみたいとは、ぼんやりと思う。僕は生まれてからこっち、大人たちの言いなりになってきた。空へ昇るためだけに、いくつものことを学ばされた。目の使い方から、呼吸の方法まで。何もかもを。つまり、自分の意思というモノを徹底的に排除されてきた。いや、それは違う……、か。意思はある。少なくとも、こうして考えていることが、証拠だ。だけど、大人たちから見れば、ないように見えているのだろう。何故なら、大人たちは、自分たちの意志を注ぎ込んだ存在だと、一方的に思っているから。国のため、人類のため、世界のため。大義名分じみた意志が、僕を作ったのだと、彼らは考えている。

 間違いじゃない。きっと人間だって、そういう風に生まれてくる。想いを託すために、みんな作られるのだから。


 でも……。


 僕は作られただけではない。

 生まれてきたのだ。

 この想いこそが、何よりの証明。


 見たことも、話したこともない兄のことを、再び考える。僕と同じように、意志のためだけに命を作られた兄。それでも彼だって、生まれてきた存在のはずだ。ならば、何かを想い、朽ちていったのだろうか。僕は想像しかできない。それこそ、この世に住む人間たちのように。


 しばらくすると、大人たちが近寄ってくる。殻の向こうからは、いつもの気配と声が聞こえてきた。だけど、その中に一つ、聞き覚えのない声が混じっている。誰だろう。そういえば、誰かを空へ連れて行ってほしい、なんて言われていた気がする。自分のことばかり考えていたせいで、すっかり忘れていた。


 大人たちが、僕へと連れてきた誰かを手渡す。とても小さな子だった。しっかり抱きかかえるんだぞ、と笑顔の男が言い添える。そして、僕は塞がれていた耳と目を、その子へと繋がれる。

 鼓動、温度、息遣い、身体のライン、柔らかさ、毛並み、性別……。段々と、僕の抱えた子の輪郭が鮮明になった。


「こんにちは」


 接続が終わると、彼女の方から声をかけてきた。とても落ち着き払った声色だ。身体の大きさからして、子どもかとも考えていた。けれど、どうやら人間で言うところの、十七、八の少女くらいの年齢はありそうだ。


「今の時間なら『こんばんは』の方が良いんじゃないかな」僕は小さく訂正する。言語が伝わらないかもしれない、と不安だったけれど、その心配はなかった。


「時間なんて、私には関係ないわ」少女が微笑む。開けた視界の先では、大人たちが何やら話し込んでいる様が見えた。「だって、今からどこかへ行くのでしょう?」僕と話しながらも、少女の視線は、大人たちの方へと向けられたままだ。


「そうだよ」


「他の子たちも来られたら良かったんだけど、私だけが選ばれちゃったみたい」少女が苦笑いを零して、尻尾を下げた。


「恨まれてると思うかい?」


「まさか」彼女は、鼻を鳴らしながら、僕の方へ目を遣った。「あの子たちは、私に言ってくれたわ。『頑張ってきてね』って」再び、話し込んでいる大人たちへ顔を向け直すと、少し遠い目をした。「それに、あの人たちにも言われたの。私はこの世界で、偉大なる一歩を踏み出した存在になるんだ、ってね」


 誇らし気な声に、僕は口を噤んだ。僕は知っている。この先に、どんな運命が待っているのかを。でも、そのことに関しては、何も言ってはならない。そういうプログラムが僕には仕込まれていた。それを理解してか、していないのか、少女も執拗にそこに突っ込んではこない。


「帰ったら、いっぱいお土産話をしないとね」


「そうだね」


「私、ここ以外から出るのは初めてなの」


「僕だって初めてさ」

 そう返すと、少女は微笑を漏らした。


「じゃあ、私たちは『偉大なる存在たち』ってところかしら」


「残念だけど、僕はそうなれそうにないや」


「どうして?」少女が疑問を投げかけてくる。僕は答えようか逡巡した。言ってはならないことよりも、答えに困る複雑な問だった。大人たちに確認を取りたかったけれど、何やら話し込んでいるし、僕が聞いたことで、彼女が察すれば結果は同じだ。それくらいの機転は、僕にもあった。


 まあ、でも……。


 どうせ僕たちは死地へ赴くのと変わらない。帰りの切符は渡せないと、彼らは真実を冗談めかして言っていたのだから。守秘義務の範囲内でなければ、喋っても構わないだろう。


「僕にはね、兄がいたんだ」


「お兄さんが?」少女の目が、きらりと輝く。体温も少し上がっている。言葉にして聞くまでもなく、少女は兄に興味を示していた。何故だろう。僕とは違う個体なのに、僕自身がこそばゆく感じてしまう。


「兄は、僕より先に偉業を成し遂げた。それをどう思っているのかは、知らないけれどね」自分の声が、ひっそりとなるのを、僕は感じた。でも、少女はそれに気付いていない様子だ。


「聞けないの?」


「まあね」僕は苦笑いを浮かべる。「でも、僕たちがこれから行く場所で、もしかしたら会えるかもしれない」


「きっと会えるわよ」少女が、僕の身体に手を添える。「だって、あなたの家族なんですもの」


「……そうだと良いね」僕はどう答えるか、また迷ったけれど、適当な言葉を選んでおいた。少女の好奇心は、僕のプログラムでは対応しきれない。ただ、噓は時に良薬となることを、僕は学んでいた。心は痛むけれど、少女を不安に陥れるようなことは、避けた方が良い。それに、それが原因でパニックにでもなったら、今日は中止になるかもしれない。そうなれば、僕はこの地上で命を潰されることもあり得る。無論、そんなことは万に一つだろうけれど、念には念を入れた方が良い。


「そろそろ時間らしい」


 傍へやってくる男を見遣りながら、僕は少女に言った。彼女は男の手に頬ずりをする。男もまた、笑顔で頭を撫でた。少女は彼に対して、全幅の信頼を寄せていることは、見ての通りだ。


「お前はこれから、世界で初の宇宙へ行った動物になる」男が少女へと告げる。どこかの英雄譚の一部を彷彿させるほど、仰々しい物言いだった。彼の後ろでは、様々な大人たちが、その様子を見守っている。不安な顔の者、笑顔の者。一人一人、色々な感情を浮かべていた。ただ一つ、彼らに共通しているのは、その眼差しに期待や希望を、少なからずは孕んでいるといことだ。


「ねえ私、やっぱり不安だわ」少女は男へと言った。「みんなと離れることが、怖いの」


 少女の身体は、恐怖で震えている。それは、僕の身体へと十分に伝わってきた。僕に対しては気丈に振る舞っていたけれど、本心は違ったみたいだ。大人たちはその声が聞こえていなかったのか、あるいは、最初から聞く気なんてないからか、少女から離れていく。


「待って!」前へと駆けだそうとした少女を、僕の身体は止める。男は微笑を浮かべたまま、僕の目を閉じた。再び暗闇が訪れる。少女は叫び続けた。何と言っているのか、分からないまでの叫び。だけど、僕の目が、再び開かれることはないことを、僕自身がよく知っていた。そのうち、少女は疲れ果てた様子で、ぐったりとしてしまう。


 しばらくして、僕の身体がどこかへと運ばれていく感覚があった。恐らく、もうすぐ始まるのだろう。時刻はすっかり、真夜中に差しかかっている。この時間、ほとんどの人間は眠っていると聞いた。つまり、秘かに行うには、打って付けというわけだ。


「世の中には、使われる存在と、使う存在がいるらしい」運ばれていく間、僕は静かに少女へと語りかける。これが最後の会話かもしれなかったから。「使われる存在は動けない。動いているように思えても、そこに『自分』というモノはない。ただ使う存在に動かされているんだ」言葉をかけながら、少女を窺う。彼女は酷く落ち込んでいるようだ。それでも、身体の反応は至って健康的で、乱れている様子はない。「僕たちは圧倒的に前者だ。使う側の存在の名誉のために、生きているだけだ」


「良いのよ。私は」暗闇の中で、少女が呟いた。「私は、ずっと生き続けるもの。形がどうであっても、私を覚えてくれている人がいる。それだけで、私は生きている意味を見出せるわ」


 少女は一つ大きな欠伸をする。眠たいのだろうか。無理もない。正確な時刻を確認すると、午前二時を目前としていた。


 そう。

 僕たちの気持ちなんて、大人には関係ない。

 使われる存在に心なんて必要ないとさえ、大人は考えている。

 ならば、僕たちの心は、何のためにあるのだろう?

 誰にも知ってもらえない心なんて、開かれない本のように無意味だと思う。視界に入れられなければ、あるとさえ気付いてもらえない。ただ、時の流れによって朽ちていく。


 虚しい。


 心を抱えて生きていくことは、とても虚しい。


 僕たちは本当の想いなんて、知られないままに死んでしまうのだ。僕たちの本当の言葉は、知られないままに消えてしまうのだ。不安も恐怖も、他人の持つエゴという光に当てられて影としても残らない。それを虚しいと言わずして、何と言おう。

 思考を薙ぎ払うように、殻が揺れた。大きな音が、身体に響く。少女は耳をピンと張り、頭を擡げる。時間だ。僕たちの役割が、遂に果たされる時間。少女の心拍数を計る。かなり早い。施設で訓練されていた頃でも、このように大きな音を、聞いたことはないのだろう。


 頭の中で、何かが掘り起こされるような感触が奔った。それは、ある意味で本能とも言えるモノだ。少女は何かを叫んでいたけれど、僕は応えられない。もうしばらくすれば、打ち上げられるから、その準備をしろとのことだ。それでも、少女の状態だけは把握できた。


 全ての準備が整う。耳の奥で、カウントダウンが始まる。人間の声だけど、とても無機質な声音だった。少女には聞こえていない。そもそも、聞かせる意味がないのだろう。


 残り十秒……。

 内側を熱いモノが巡り、思考は徐々に停滞していく。

 暗い空の色。

 誰かの眼差し。

 淡い夢。

 けたたましい轟音。

 一等星の瞬き。

 光。

 燃焼。

 飛躍。

 兄の姿。

 少女の声――。

 そして、

 感じたことのないほどの重力と熱が、僕の身体を襲った。

 殻に守られているにしても、途轍もなく苦しい。

 僕は必死に言われた通りの軌道を描き続ける。

 制御が難しかった。

 抱きかかえた少女に、気を回すけれど、バイタルチェック程度が関の山だ。

 風が全身を撫でていく。

 突き抜けた雲は、いとも容易く散り散りになった。

 次第に、地上で眺めるよりもずっと暗い空が、広がっていく。

 僅かに欠けた月が、僕を見下ろしていた。

 もうすぐだ。

 重力が僕の身体を引っ張っている。まるで、この星から出ることに対する、罰を与えるかのように。

 不意に、身体を縛り付けていた全ての苦しみから、解放される。

 夜よりも暗い世界。

 辺りに音はない。



『打ち上げは成功だ』



 身体を通して、声が聞こえてきた。僕を作った大人たちの声だ。実験は成功した、ということだろう。

『どうやら、ロケットの切り離しには失敗したみたいだな……。仕方がない。そのままで周回軌道をしてもらうしかないだろう』

 言われた通りに確認をしてみると、殻がまだ僕の身体に纏わりついていた。本当なら、この殻は既に切り離されて、下へ落ちていくはずだ。その辺りは、彼らの言い方からして、深刻な問題ではないのだろう。


 声は途切れ、再びの無音が訪れる。帯びていた熱が、徐々に冷めていく。眼下には、青く光る大地があった。その上を、僕は勢いのままに回り続ける。頭上には、丸い石の塊が浮かんでいた。あれが月か。地上から見るよりも、ずっと冷たくて、人間たちが口を揃えて言う魅力は、あまりない。更に向こう側へと進むと、一際明るい光が見えた。太陽だ。こちらは地上から見るより、一層明るく感じた。それも仕方がないのだろう。僕たちの住んでいる星には、それを纏う大きな膜がある。さっき、僕たちの身体を焼こうとした、あの膜だ。それのお陰で、ちょうど良い眩しさやら、暑さに調整されているのだろう。


「大丈夫かい?」


 抱きかかえた少女のことを思い出し、声をかけた。まだ放心状態なのだろうか。少女からの返答はない。死んでしまったのではないか、とも考えたけれど、呼吸はしている。ただ、それも弱々しく、かなり疲弊しているみたいだった。


「もうすぐ、一回目の食事だから、それまではゆっくりしていると良い」


 そう言っても、少女からの返事はなかった。眠っているのだろうか。無理はない。夜遅くに起きて、過酷なミッションをこなしたのだ。疲労も溜まっているだろう。

 僕の身体には、少女に関して必要なモノを積まれている。もっとも、それも十日分ほどしかない。僕の方はあと、どれだけ生き長らえることができるのかは知らない。でも、少女の命は、定められていた。食べて飲まなければ、生命は潰えてしまう。僕にはどうしても、それが不憫に思えて仕方なかった。


「……ここはどこ?」少女が瞼を、重たそうに持ち上げる。声には少し、微睡の気配がまだ残っていた。目覚めと表するには、まだ至っていない。


「おはよう。ここは、空の上さ」


「まあ」暗闇の中で、少女は微笑んだ。「それじゃあ、私は――、私たちは、偉大な一歩を踏み出せたのね」


「そうだね。僕たちはこの星に住む人間が、到達したことのない世界を見ている」そう返して、少女を見遣った。


 でも……。


「ねえ、とても暑いわ、ここ。狭くて、とても……、息が苦しいの」


 少女はか細い声で、そう囁いた。僕は何も答えられない。全て分かっている。少女はきっと、十日も持たないことを。僕が大人たちから教えられたのは、殻を切り離すことができなかった、ということだけだ。だけど、実際には、僕の内側にある少女を守るためのモノが、破損していた。それは、向こうでは知る由もない事実だ。僕でさえ耐えるのが精一杯の高温に曝されたというのに、少女はもっと、酷い温度に蝕まれたのだろう。


「あなたに一つ、訊いても良いかしら?」


「……何だい?」弱りつつある少女の鼓動を感じながら、僕はそっと訊ね返した。

「あなたの、名前を教えて」少女の手が、僕の身体へと伸びる。それほどの熱を帯びてはいないはずだ。だけど、それは僕にとってであり、彼女が耐えられるかどうかまでは、判断できない。「あなたの、意味を教えてほしいの」


「僕は――」


 答えようとしたところで、耳鳴りが響く。味気ない音の正体を、僕は知っている。彼女の生命が止まった音だ。呆気のないほど、簡単な信号。ぐったりと、生命の抜けた重みが乗りかかる。死は生よりも重たい。誰から聞いた話かは忘れた。


 不思議だ。


 生きている時間の方が、圧倒的に長いというのに、終わりを迎え入れる一瞬は、その生よりも遥かに価値が乗りかかる。そこにもやっぱり、僕は生きている意味を見出せなくなった。自分自身が、生きている意味を。

 動かなくなった少女の口元に、そっと食事を差し出す。


「僕の意味は『随伴者』というらしい」


 誰かに寄り添い、生きていく存在。

 少女を偶像として仕立て上げるために造られた、随伴者。

 兄と同じ名を冠しながらも、違った意味を兼ね備えている。

 それが、僕の意味だ。

 それだけが、僕の意味だ。


「それでも、僕は君の征く旅路を、空よりも遠い場所へと続く旅路を――、ずっと共に歩むことにするよ」


 僕の呟いた言葉は、闇に舞った。誰も耳にすることのない、言葉。いや、ただの言葉ではない。


 これは、祈りだ。


 魂は巡り、またどこかへと生まれ落ちていく。その長い旅路が、どうか平穏にあってほしいという、祈り。


 これが、僕の抱えた心の意味。

 生まれてきた存在としての心。

 誰かに知られてほしいなんて、思わない。

 誰かに感じてほしいなんて、願わない。

 閉じられた本のままで、構わない。

 ただこの祈りが、少女にだけ届けば、それだけで良い。

 たとえ、エゴだと言われようとも。

 少女の最後を傍で見守った存在として。


 少女の身体は、振動に抗うことなく揺れる。僕はそっとその身体を抱きかかえたまま、星の周りを巡り続けた。



 もう何日の間、僕は空の上を飛び回ったのだろう。果てしない時間を過ごした気がする。地上からの声は、飛び立ってしばらくしてから、聞こえてこなくなった。僕は誰にも観測されないままに、孤独を過ごしている。


 少女の身体は、既に腐り果てていた。抱えた内側では、骨のぶつかる音が、時折聞こえてくる。内部には、腐敗した肉が宙を舞い、ガスも充満していた。バイタルチェックのためのコードが、海で踊る海藻のように浮かんでいる。少女には悪いけれど、僕に嗅覚なんてモノがなくて良かったと、心底思った。


 そして、僕の身体もまた、限界が近いらしい。時々、意識が飛びそうになっていた。元々、そういう設計にされていたのだから仕方がない。どうせ、戻ってくることのできない、片道切符だったのだ。


 結局、兄には会えなかった。少女は会えると言っていたけれど、もちろん、本気で会えるなんて思っていないし、そもそも僕は、兄の姿を知らない。仮に会えていたとしても、彼と会話なんてできなかっただろう。だから、心残りはそれだけだった。


 でも、代わりに僕は、多くのモノを見てきた。


 暗闇を駆ける星を。


 影の底で輝く人々の営みを。


 光が星を覆う瞬間を。


 どれを取っても、今まで誰も見たことのない世界だった。そして、今は僕だけが、その世界の光景たちを知っていて、間近で感じている。いつかは、これが当たり前になる日が来るのだろう。でも、それだけで、僕はここまできた甲斐があったと、素直に喜べた。


 不意に、眩暈を覚える。

 身体が重く、沈んでいく感覚。

 どうやら、ここで終わりらしい。長くはないと分かっていたけれど、こうも急にこられるとは、困りものだ。


 星の膜へと殻が触れる。表面に奔る熱が、ここを訪れた時のことを思い出させた。だけど、その時よりも遥かに熱い。まるで、帰ってくることを拒まれているかのようだ。


 殻が溶けていく。オレンジ色の光が、僕の瞼を焼き、液体となった金属が背後へと流れる。青と藍のグラデーションが、目の前に広がる。


 この景色を、兄も見られたのだろうか。

 消えていく中で、この景色を焼き付けることができたのだろうか。

 そうであってほしい。

 僕たちの最後は、いつだって死で括られてしまうのだから。

 死ぬ時くらいは、美しく飾られていたい。

 そうして、完全に身体は溶けきった。

 意識が空を仰ぐ。

 少女の身体だったモノが、遠くへと舞っていく。

 光の羽を纏った、僕たちの身体が、浮かんでいく。

 その中で、一枚の金属板が、僕の横を通り過ぎた。

 僕にはなかったものだと、すぐに分かる。



 何故ならそこには、少女の名前が刻まれていたから。



 そうか……。

 それが君の意味だったんだね。

 目を閉じると、微睡が訪れた。

 遠くなる耳の奥で、誰かの声が聞こえる。

 ――行きましょう。

 ああ、そうだね。

 僕は君と見る景色を、まだ目にできていないのだから。

 とても静かな、世界の淵へと、僕らは纏ったこの羽で飛んで行く。

 どうか、長い長いこの旅路を、少女と共に歩んでいけますように。

 祈りは星のように、光の中を駆けていった。

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