マイ・ロスト・シティー エピローグ
水の中から、救い上げられ、やっと息を吸えたかのように。
呼吸をととのえ、胸に手をあてて深呼吸する。
ここはおそらく、天国のはずなのに、まだ、生きているような気がする。
起き上がってあたりを見渡すと、そこは平凡な家の個室。
薄紅色のカーテンが頬を撫で、心地よさに包まれる。
見たことのない、だがしかし、ロココ様式のランプと、ルーベンスのあの絵画があることに、どこか懐かしさを感じている。
そして、なぜか異様さをはなつ、一凛の凛々しいローズマリーが僕に微笑む。
「死んだはずなのに」
よくわからない感情。
ああ、あなたは誰であったか。
僕に、希望をくれた人。
僕に、託してくれた人。
僕に、人間として生きることを、教えてくれた。
だがそれは、不純なエゴに包まれていた。
「生きている」
ドアノブが回るかすかな音がした。
僕は、一体誰なのだろう、と身構え、カーテンに顔を隠す。
「具合はどう」
優しい、なめらかな女性の声。
僕の方に近寄ってきて、頬に手をやる。
「エウ...レカ?」
女性の方をみると、宝石のような目が僕をひきつけた。
女性は、エウレカは、うなずいた。
「そう、あなたは生きている」
僕はただ茫然として、窓辺に目をやった。エウレカを直視できなかった。
「...私が行くのが遅かったら、死んでいた」
「死ぬのも...悪くないと思った。この世界は、欲望にまみれた世界で、生きていたくない」
「でも、あなたは生きている」
「そう...不思議なことに。僕が選んだんだ。チャーリーが、僕に会ってほしい人は、君だったんだ。...劇と同じさ」
「そして、あなたは生きている。でもまだ終わってない。だって、この先はあなたが作るんですもの」
エウレカはポケットから、そっと銀行の小切手を僕に差し出した。
僕はそれを受け取って、チャーリーの筆跡をしばらく眺めてから、小切手の端を折った。
「...本当は、これをバラバラにして、この窓辺から捨ててやりたい」
「出来なくてもいいのよ」
エウレカは、分かったように口角を上げて、うなずいた。
僕も笑った。
僕は部屋を出ようと、ドアノブに手をかけようとした。
「チャーリーは、あなたを息子だと言っていた」
エウレカはそう言った。
「いいや」
ドアノブを握った。
「僕は、ただ一人の父親の息子だ」
僕はそう言って、部屋を出た。
白粉が残る路面を歩く。
マンハッタンに戻ってきた。
顔を上げれば、まだ少し、しんしんと降る雪と、古びた摩天楼が見える。
まるで、チャーリーが言っていた、高くそびえたつビルに、紙吹雪舞う凱旋パレードが行われているようだった。
僕が知らない、”あの頃”を思い起こさせる。
だがしかし、もう違うのだと、また前を向いて歩いた。
チャーリーと過ごしたあのパブがあった場所へと向かう。
そこには、
ロココ様式のランプも
ルーベンスの絵画も
老朽化した机や椅子も
窓辺から見える建設中のビルも
もう、何も無い。
新しい事業のために、すべて取り壊されてしまった。
僕は野原になったそこに座って、
何も書かれていない
『無常と切実』の366ページ目を開いた。
道端に生えているローズマリーが、ただ風に揺れていた。
『マイ・ロスト・シティー』 エピローグ 終
『マイ・ロスト・シティー』 水野スイ @asukasann
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