第39話 魚
練習試合が始まった。
競技ごとに開催されるらしい。
「水樹はどの種目に出るんだ?」
練習試合とだけあって、特にプログラムのようなものは用意されていない。
どの種目をどのような順番で進めるかも一切分からないわけだ。
すると椎名は「平泳ぎですよ」と言った。
「水樹ちゃんは平泳ぎが得意なので」
「へぇ……平泳ぎ」
「お魚さんみたいな感覚になれるそうです」
「魚……?」
そこで、ふと以前のことを思い出した。
――泳いで、どこか遠くに行けたらって思ってた。
いつか、水樹が俺に言った言葉だ。
泳ぐという手段は、かつての水樹にとって、きっと辛い現実や馴染めない環境から逃げ出すための手段だったのだと思う。
でも、今は違う。
かつて逃げ出すためだった手段は、今の水樹にとっては戦う手段になっているんだ。
大切なものを守るための手段に。
「何でそこまでして……」
「水樹は、元気なハルにぃが好きだからだよ」
俺が呟くと、横に座っていた尚弥がにこりと笑う。
「水樹、ハルにぃにバスケ辞めないでって言ったんでしょ」
「知ってたか」
「一応、僕がハルにぃの様子伝えてたからね」
今はアップで、順番に部員たちが各レーンを使って軽く泳いでいる最中だ。
その中に、水樹の姿もあった。
尚弥は、階下にいる水樹の姿を眺める。
「水樹はたぶん、ハルにぃに輝いて居て欲しかったんだろうな……」
「輝く?」
「バスケをしてる時のハルにぃ、キラキラして見えたよ。楽しそうだったし、活き活きしてた。昔、僕らをよく連れまわして遊んでくれてたハルにぃだって思ったよ。僕だけじゃなくて、多分水樹もそう思っていた」
尚弥はこちらを一瞥する。
「ハルにぃにとって、バスケ部の自分で居ることは、誇りだったんじゃないの?」
「誇り……」
「ハルにぃは僕らのお兄さんでいることを大切にしてくれていたでしょ。それと同じくらい、ハルにぃにとってバスケをすることは大切だったんじゃないかなって」
「それは……」
そうかもしれない。
何となく、尚弥の言葉がストンと腑に落ちた気がした。
バスケをしていた柚がキラキラと輝いて見えたように。
俺も、周囲から見たら、バスケに夢中だったんだろう。
たぶん、俺が自分で認識している以上に、俺はバスケが好きだった。
バスケ部を引退した時に感じた、大きな喪失感。
インターハイの夢が絶えたからだってずっと思っていた。
でもたぶん、それだけじゃない。
俺がずっと通りたいと思っていたバスケの道が途絶えた。
だから俺は、バスケを終わらせようとしたんだ。
他にいくらでもバスケなんて継続できるのに。
自分のこだわりの強さが、それを許さなかった。
俺は、自分で自分のバスケの道を奪った。
そしてそのことに、自分で勝手に絶望していたんだ。
きっと水樹は、そのことを知っていた。
だから頑固な俺にきっかけを与えようとして、賭けを持ち出したんだ。
「俺って、バカだな……」
俺が呟くと、「今頃気づいたのですか?」と椎名が呆れた声を出す。
「ゴリラさんは元から筋肉おバカですよ?」
「……かもな」
「でも、人を裏切らないおバカさんです」
椎名は不敵な笑みを浮かべる。
「だから、水樹ちゃんとの約束は、裏切れないと思います」
俺は水樹の賭けを飲んだ。
水樹が勝てば、俺は彼女との約束を果たす。
俺の馬鹿げた独りよがりな決意と後悔を、水樹は打ち払おうとしている。
やがて、試合が始まった。
自由形、クロール、バタフライ、背泳ぎと続いていく。
そしていよいよ、水樹が泳ぐ平泳ぎ二〇〇メートルとなった。
水樹が第二レーンに立っている。
「水樹って二年で初めて水泳部だよな?」
「はい」
「さすがに勝つなんて無謀じゃないか?」
俺が尋ねると椎名は「そうですね」と頷いた。
「確かに、簡単には勝てないと思います。何せ、あの第五レーンの人は、地区大会の中学記録保持者らしいので。それから水樹ちゃんのレーン、大会では不利なレーンとされてますから」
そう言えば、いつか聞いたことがある。
水泳では早い選手ほど中心に配置されるのだと。
中心の方が波が少なく有利なのだそうだ。
外側のレーンからの勝者は、滅多に出ない。
今回は大会ではないから、配置と記録はあまり関係ないみたいだが。
それでも、記録保持の選手が有利に練習出来るようにはされているらしい。
「大丈夫なのかよ、あいつ」
「ゴリラさんは知らないのですか? 水樹ちゃんの速さを」
「ああ見えても、水樹は水泳が大の得意なんだよ」
「そんなにか?」
「ほら、みんな! 始まるわよ!」
聡実の言葉に全員が視線を向ける。
号令で選手がスタート台に立ち、一斉に静止。
公式試合を見ているかのような、静寂が訪れた。
やがて、ピッというスタートの号砲と共に、一斉に選手が水に飛び込む。
水樹もしなやかに水の中に入ると、魚のように体を動かし、綺麗に浮上した。
そこから、手を使って水の中を進んでいく。
水を掻き分ける、という感じではなかった。
スルスルと、水の間を縫うように潜り込んでいく。
流れに逆らわず、どんどん速度を上げていくように思えた。
正直、見ていてわかるくらい早い。
「水樹、めちゃくちゃ早ぇな……」
「そりゃそうです。水樹ちゃんは部で一番なんですよ」
「マジかよ」
俺が感心していると、尚弥が「ずっと毎日練習したからね」と付け加えた。
「部活の他にスイミングスクール行ったり、走り込みもしてたみたいだよ」
「あいつ……頑張ってたんだな。全然知らなかった」
「格好つけたかったんじゃないかな。ハルにぃに良いところ見せたくて」
「そっか……」
最初はほぼ同率だったレースも、後半になるとやがて圧倒的な差が出てくる。
競っているのは、水樹と第四レースの選手。
地区大会の記録保持者の選手だ。
相手はかなり早いが、徐々に水樹が差を詰めている。
でも同時に、ゴールが迫ってきた。
勝てるかどうかは分からない。
俺は叫んだ。
「水樹! 頑張れ!」
すると。
まるで俺の声に反応するように、水樹の速度が速まる。
水の中を進むその姿は、まるで海を泳ぐ魚のように見えた。
差が詰まる。
二人が並んだ。
「ラスト!!」
俺が叫ぶと同時に。
水樹が相手選手をグンと追い抜かし、トップに立った。
そのまま、ゴールに手を着く。
「やりました、ゴリラさん! 水樹ちゃん勝ちました!」
「水樹すごい!」
「相手の選手って地区トップなんでしょ!?」
三人がはしゃぐ中、俺は思わず笑うことしか出来なかった。
「はは、あいつ、すげぇな……」
私だって出来るんだから。
いつものイタズラっぽい表情でこちらに手を振る水樹の姿に、そう言われた気がした。
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