第28話 本心

『目を瞑って、体の力を抜いてリラックスしてください。

 あなたは今、深い海を泳ぐ魚です。

 青い海を泳ぐ魚になって、優雅に泳いでいます』


 椎名の声が耳元から聞こえる。

 馬鹿馬鹿しくも思えたが、付き合ってやるか。

 そう思い、俺は意識を集中した。


 目の前に暗闇が広がる。

 そこに広がる雄大な生みを想像した。

 俺は一匹の魚となり、透明な海の中を泳いでいる。


 泳ぐと水流が体を包み、大気の泡が弾けていく。

 キラキラと美しい陽の光が海面より射し込み、海の中を美しく照らす。


『そのままずっと、奥深くに潜ってください。

 ずっと、ずーっと深くです。

 光が差さなくなって、暗闇が広がっています。

 それでももっと奥深くに潜ってください』


 椎名の声が俺を誘導する。

 力を抜いて、その声に身を任せていると、不思議な感覚が全身を包んだ。


 起きているような、眠っているような感覚。

 金縛りに近いのかもしれない。

 頭だけ覚醒して、身体が眠っている。

 妙な浮遊感が全身を包んでいた。


『何が見えますか?』


 音が聞こえる。


『音?』


 何かが弾ける音。

 パチリパチリと、まるで火薬が弾けるような、不思議な音。

 その音に伴い、徐々に光が見えてくる。

 茫漠とした光はやがて形を持ち、情景を象る。


『どんな情景ですか?』


 花火だ。

 昔、友達とみんなで公園で花火をしていた。

 尚弥や水樹もいて、大きな花火パックを買ってきたからってみんなでやったんだ。

 綺麗だった。


『花火が綺麗なのですか?』


 花火が――いや、違う。

 俺は花火を見ていない。

 じゃあ俺は、何を見て綺麗だと思ったのだろう。


 少女が映る。

 俺の視界に、花火に照らし出された一人の少女が。

 浴衣を来て、嬉しそうに花火を眺めている。

 俺は少し遠巻きに、彼女の表情を眺めている。


 思い出した。

 俺が見ていたのは、花火に照らされた水樹だ。


『水樹ちゃん?』


 ああ。

 花火を見つめて楽しそうな水樹を見て、俺は綺麗だと思った。

 それまで、ただの『尚弥の妹』だった水樹が、急に別人になったように見えた。

 ずっと見ていたいって、そう思ったんだ。


『それはあなたにとって、どんな気持ちでしたか?』


 分からないけど、愛しいと思った。ずっと一緒にいたい、大切にしたいって、そう思ったんだ。


 あれはたぶん、そうだ。

 恋だったんだと思う。

 俺の初恋は……水樹だったんだ。


 だんだん、思い出して来た。

 水樹や尚弥がいなくなった時。

 まるで心の一部が崩れ落ちてしまったかのような、喪失感に襲われたのを覚えている。


 尚弥がいなくて寂しかったけど。

 それ以上に水樹がいなくなって、俺の心にあった大切な感情が消えちまったんだ。


『大切な感情?』


 たぶんそれは恋だった。

 俺は水樹がいなくなって、恋を失った。

 失恋したみたいに、心が冷えた。


 ぽっかりと穴が開いたみたいに寂しくて、何も考えられなかった。

 何をやっても実感がなくて、まるで人形みたいになってしまった。


 生きている感覚がなかった。

 日々があっという間に過ぎ去った気がして、抜け殻みたいになったんだ。


『どうやって乗り越えたんですか?』


 ……何がきっかけになったんだろう。

 いや、俺はそのきっかけをよく知っている。

 ある人の言葉が、俺の世界に色を与えた。


 ――お前、バスケに興味あるのか。

 ――なら、バスケやってみないか?


 その人は俺に、そう声をかけた。


 バスケだ。

 夢も、目標も、やりたいことも何もなくて、中学に入って。

 何もなかった俺に、ある日パスをくれた人がいたんだ。


 先輩がいたから、俺はバスケに熱中した。

 先輩が卒業しちまった後も、俺はバスケに熱中することで乗り越えることが出来た。


 バスケだけじゃだめだと思って、勉強も真面目にするようになった。

 頑張るうちに、友達も出来て、大切な仲間が出来た。

 全ての始まりは、あの時から始まっていたんだ。


 小学生の頃の、花火の夜から。


 ◯


 俺がハッと目が覚ます。

 ずいぶん時間が経ったように感じた。

 窓から夕日が差し込んでいる。


「ぐっすり寝ていましたね」


 椎名が横に居た。

 俺の横で本を読んでいたらしい。

 俺が目を覚ましたのを見て、彼女はぐっと伸びをする。


「尚弥と水樹は?」

「尚弥さんは下に居ます。水樹ちゃんは――」


 椎名が指さす方を見る。

 水樹は俺の足元で、座ったままベッドに上体を預けるようにして眠っていた。

 スースーと、安らかな寝息を立てている。


「さっきまで起きていたんですけどね」


「そっか……。悪かったな、付き合わせちまって」


「それで、体の調子はどうですか?」


「どうって……」


 俺は体の感触を確かめる。

 頭がボーッとしない。

 先程まで鈍かった頭が、重りから解き放たれたみたいに軽くなっていた。

 疲れが吹き飛んだみたいに、シャッキリしている。


「めちゃくちゃ元気だ」


「ちゃんと成功したみたいですね? ゴリラさんなので催眠が成功するか心配でしたが。単細胞さんでしたね?」


「細かく罵倒挟むなよ……。でもお前、すげぇんだな」


「あなたが単純で助かりました」


 椎名はにこりと笑う。


「それで、気持ちは分かりましたか?」


「気持ち?」


「自分の本当の気持ちです」


「俺の本当の気持ちって……」


 俺は思い出す。

 先程の椎名とのやり取りを。

 そして、ずっと薄れていた過去の記憶を。


 俺の初恋は、水樹だった。

 そしては俺は、今も――


「俺は、水樹が好きなんだ」

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