02.暗闇のフリーダム
「あの拳銃は拾ったんだ」
ぼくの実家、『黒の湯』は曾祖父の代から続く銭湯だ。どんな内装をしているかは『銭湯』と聞いて真っ先に思い浮かぶステロタイプが最も適切だろう。男湯と女湯が大きな壁で区切られていて、それぞれに洗い場と浴槽が設置されている。ただそれだけ。サウナもなければ水風呂もない。体を洗って風呂に入ることだけを目的とした、面白みのない銭湯だ。せめて名前の通り黒い湯が湧き出していれば、少しは話題になっただろう。
このようにつまらない銭湯なので、最近は近場にできた健康ランドに客を奪われつつある。なんでも、そっちはサウナだけで9種類もあるらしい。「そんな多種多様な方法で体を蒸して気持ちいいのだろうか」と疑問に思ったぼくは一度そちらに伺ったことがあるのだけど、結論から言うとめちゃくちゃ気持ちよかった。初心者にやさしい低温サウナや嗅覚からも癒されるアロマサウナはもちろんのこと、開放感溢れる露天風呂にはただ入浴する以上の価値を感じられたし、風呂からあがった後の休憩スペースに設けられている漫画本コーナーも、ヴィレッジヴァンガードを生涯の友とするくらい読書好きなぼくにとって喜ばしいものだった。
商売敵の風呂屋の息子でさえこの満足度なのだから、世間一般の方々が健康ランドの虜になるのは当然であると言えよう。
アピールポイントが無駄に長い創業年数くらいしかない古びた銭湯と新進気鋭の健康ランドの対立構造において、軍配がどちらに上がるかなんて分かりきった話である。真っ当な経営で勝利を収めるよりも、国からナントカ文化財として保護してもらうことを検討した方が、まだ延命の余地があるというものだ。
しかし我らが黒川家の大黒柱にして『黒の湯』3代目こと親父殿は、そこで諦めるような男ではなかった。なんと彼は4代目候補であるぼくに家業の命運を託したのだ。自分の息子を健康ランドどころかディズニーランドにさえ負けない立派な経営者に育て上げるべく、涙を堪えながら親としての情を捨て、過酷な試練を課したのであった……というのは戯言だったり嘘だったりするわけで、実のところ、ぼくは都合のいい労働力として、閉店後の『黒の湯』の掃除を任されていた。
塾から帰った後。
誰もいない男湯にて。
ぼくはひとり、お湯を抜いた浴槽をブラシでゴシゴシと磨いていた。
以前はこの作業を妹とふたりで分担していたのだけど、先日、自室でサバイバルナイフを構えているぼくを見て腰を抜かした妹から家族会議で破茶滅茶に怒られた結果『一ヶ月の間、風呂掃除をひとりですること』と約束を迫られたので、現今ぼくの作業量は倍になっているのである。
……ふっ。
殺人鬼としての宿命なのか、なにかと独りになりがちな人生だぜ。
家に帰ったらこんな『手伝い』が待っているのだから、寄り道したくなっても仕方ない。まさかその先で殺人現場に遭遇するとは思ってもいなかったけど。
とはいえこのソロプレイ、なにも悪いことばかりではない。
閉店して両親も妹も家に引っ込んでいる『黒の湯』に人の目は皆無。つまり、そこでは何をやってもバレないのだ。
たとえば、帰り道で偶然出会った殺人鬼を招くとか。
「2週間くらい前の話になるかな。その日はうっかり寝坊しちゃってね。遅刻しそうだったから近道で裏路地を使ったの」
男湯と女湯を区切る壁。そのてっぺんに、ほんの少しだけ空いている隙間から、彼女の声が聞こえる。きっと向こう側で、まだ栓を抜いていない温かな湯船に浸かっているのだろう。…………。いや、別に今、肌色かつ桃色のやらしい想像をして顔が耳まで赤くなってなんかないからね。ないったらない。全然ない。性欲が欠けているぼくは、そういうゲスな思考と無縁なのだから。マジで。
「寝坊したことも近道をしたことも、それまでに何度かあったけど、あの日はひとつだけ、それまでと違うことが起きたんだ」
「…………」ぼくはブラシをかけながら、彼女の話に耳を傾ける。
「道端のポリバケツにうっかりぶつかって、中身をぶちまけちゃってさあ。『うわ、めんどくさいことになったな』と思いながら足元を見たんだよ。そしたらゴミに紛れて、新聞紙とガムテープでぐるぐる巻きにされてる、いかにも怪しいブツが転がってたんだよね。で、開けてみたらなんと、中身はピストルだったのです」
「なんだか映画みたいですね」
具体的なタイトルは思い出せないけど、そう思った。『タクシードライバー』だっけ? いや、トラヴィスは拾ったんじゃなくて売人から買ってたから違うか。
「たぶん半グレ連中が隠してたんだろーね。この街で拳銃持ってる奴なんて、警察以外だとアイツらくらいだし」
えっ。ぼくが暮らしてる街ってそんな物騒な連中がいるの?
「いやー、あの時は驚いたな。本物の銃なんて、初めて見たからさー」
ざぱ、と音が響く。彼女が湯船から上がったのだろう。
「だから私は、拾った拳銃で悪党をぶっ殺すことに決めたのです」
「ん?」
あれ、おかしいな。
掃除に集中しすぎて聞き逃してたか?
話が急に飛んだ気がする。
もう一度聞き返そうとしたけど、それよりもガラララピシャンと女湯の扉が開け閉てされる方が早かった。どうやら彼女は脱衣所へと移動したらしい。
しばらく経って、次は男湯の扉が開く。開けたのはもちろん彼女だ。あの公園からここまで直接来て、着替えなんて用意する暇がなかったのだから当然だけど、その服装は風呂に入る前と同じ制服である。
彼女は脱衣所備え付けのタオルで髪を拭きながら言った。
「ドライヤーどこ?」
「すみません。ウチはドライヤー置いてないんですよ」
「銭湯なのに……!?」
彼女は目を丸めると、「ならばこれで済ませるしかない」と言わんばかりにタオルの勢いを更に強めた。そんな乱暴に拭いたら髪を痛めそうだ。
「あの」ぼくは言った。話を戻すために。「どうして、拾った拳銃で人を殺そうと思ったんですか?」
「んー?」
次は彼女が不思議そうな顔をする番だった。少し傾けた頭から、まだ水気のある髪が揺れる。
いや、首を傾げたいのはこっちなんですけど……──ぱちゃ。
ぼくが困っている間に、彼女が男湯へと這入ってきていた。
せっかく拭いた足が濡れることも厭わず、タイルをぱちゃぱちゃと踏み締めて、ぼくに近づく。
やがてぼくたちの距離が10センチにも満たなくなる。
ここまで近づかれて、ようやくぼくは彼女の背が高いことに気付いた。もしかして年上なのだろうか? てか睫毛なっが……。同じ人間とは思えないくらい綺麗な人だ──と。
そんな風に。
彼女の上背や顔にばかり目が行っていた時。
ぐに、と何かで下腹部が押される謎の感触があった。
その正体を探るべく、下を向く。
いつのまにか彼女が取り出していたピストルの先端が、ぼくの下腹部に食い込んでいた。
あとは引き金を引くだけで、ぼくの風通しがよくなってし、ま、……
「 」
もはや悲鳴さえ出ない。
例えるなら、潰したストローに息を吹き込んだような音が喉の奥で微かに鳴った。
一方、心臓は鼓膜の横に引っ越してきたのかと思うほどに、やかましくなっている。
「あ、あたってるんですけど……!?」
「あててんのよ」
一般的な思春期の男子が最も憧れるとされる台詞って、こんなシチュエーションで言われるやつだったんだ。
銃口から逃げるように後ずさる。すると彼女は当然のように前に進み、せっかく開いた距離を再びゼロにした。殺人鬼からは逃げられない……!! いや、そもそもぼくから招いたんだけどさ!
え!? なに!? もしかして怒ってる!? ドライヤーが無かったのがそんなに地雷だったのか!?
「この状況で」
銃を握る手をぐりぐりと回し、ぼくの下腹部にストレスを与えながら、彼女は言った。
「君は私に勝てる?」
ぼくは首を横にぶんぶんと振った。
「じゃあ……次は君の身近にいる人で、一番強い人を思い浮かべてみて」
銃口を向けられてパニックになり、鼓動のうるささで思考が乱されている脳味噌にそんな想像を可能とする余裕なんてあるはずがないのだけど、しかし不思議なことに、ぼくの脳裏には夏の大会で全国まで勝ち進んだという空手部所属のクラスメイトの顔が浮かんでいた。脳の本能的な部分が「彼女の言うとおりに働かないとマズい」と必死になっているのかもしれない。
「そいつが君の代わりにこの状況に立ったとして、私に勝てると思う?」
ぼくは再び首を横に振った。
「ちょっと腕っ節がいい程度のチンピラだったら?」
ぶんぶん。
「だよね〜」
その反応に満足する点があったのか、彼女は大きな両目をニマーと細め、笑みを浮かべた。
「特に理由はないんだけど、前からずっと思ってたんだ。『なんでもいいからぶっ殺してみたい』って。だけど私は見ての通り、ただの学生だから、それを実行に移せるわけがないじゃん? 襲った所で返り討ちに逢うのがオチだよ。だからずっと、そういう願望は頭の中の妄想で済ませていたんだ──だけど」
銃が手に入った。
「欲求があって、それを可能にする力もあるなら実行に移さなきゃソンだよね。運転免許を取得したのに人を轢殺しないようなものだよ」
例え話の時点で狂ってる自論を、制服女子は展開する。
「どうせなら老若男女で分け隔てがないように、産婦人科から老人ホームまで幅広く襲った方が、平等にやれてる感じがあって気持ち良いんだろうけど、弾数が限られている一丁のピストルだと、そうはいかないからさ。だったら最初からターゲットを悪党の半グレいっぽんに絞ることに決めたんだ──これが私が人を殺す理由。分かった?」
そう言って、彼女はようやくぼくの体から銃口を離した。
途端にぼくの体を縛っていたプレッシャーもなくなり、腰から力が抜けてその場で尻餅をついてしまう。その拍子に手から離れたブラシが、からからと音を立ててタイルの上を滑っていった。
「で、どう?」彼女は聞いた。「私の話を聞いた感想は」
「……イカれてると思いました」
「はっはー、正直者め」
彼女は笑って、足の爪先でぼくの脚を突いた。公園でも思ったけど、足癖が悪い人なのかもしれない。
「けど私に言わせれば、君も相当イカれてるけどね。普通、殺人犯を自分ちの銭湯に呼んだりしないでしょ」
まあ、そのおかげでいいお風呂に入れたんだけどさ──と呟く彼女。
「それじゃ。私はそろそろ帰るとするよ。「会ったばかりの男の子の家に夜遅くまでいた」なんてことがバレたら、パパとママに怒られちゃうから」
どこまでも冗談っぽい口調と共に、彼女は脱衣所へと去っていく。
「今日はありがとね。いつか機会があったら、次は一番風呂に入りに来るよ──あっ、そうだ」
脱衣所の扉を通る直前に、振り返ってこう言った。
「いいお風呂をいただいたお礼に教えてあげる。次の殺人は来週の今日。同じくらいの時間に駅前の地下通路でやる予定だよ。殺人に興味があるなら是非おいで」
そして扉は閉められた。
彼女が去ってからしばらくの間、ぼくは自分の心臓がうるさくて立ち上がることができなかった。
ババンババンバンバン! 女良 息子 @Son_of_Kanade
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