君の手を離さなければよかった

天雪桃那花(あまゆきもなか)

秋、思い出の学園祭

 俺は急な知らせを受けて故郷に戻った。


 霜月11月は秋の装い――。

 そろそろ冬の風が舞い込んでくるだろうか。


 今日は思ったより暖かいな。

 羽織ったコートが余計だったか僅かに熱を帯びた肌が少しばかり汗ばむ。


 休日でも列車はさほど混んではいない。あえて席には座らずドア横に立ち座席の終わりのボードに背中を寄りかける。

 朝一の列車の車窓を見つめる。

 

 故郷の地が近づく。

 電車は国分寺を過ぎた。

 木々に森があって背丈を超えるすすきも見えている。


 実家のある所沢も今見えている東京もここいらはほどよく田舎、って感じ。


(信じたくない。てっきり君は幸せにやってると思っていたよ)


 数カ月ぶりかに降り立った武蔵野の地は赴任先の四国より都会だがやっぱりどこかのんびりしている。


 久しぶりに帰って来たのに懐かしさはあまりなくて。


 つい昨日のことみたいだ。

 君とさよならしたあの時のまま。

 時間が止まってる。


 ――君は俺の特別だった。


 俺が子供の頃にはなかった新しい商業施設が出来てお洒落なカフェや本屋も入り賑わっている。立派な神社も建立されていた。


 君は俺とそこでデートをしたりあちこち旅行するのが夢だといった。

 そんなことお安い御用さと俺はすぐに君とデートの計画を立てた。

 時間は君のためならいくらだって都合をつける。

 君と一緒に過ごしたいから君の頼みならどんな事よりなんの予定より優先させた。


 君が大好きだから。

 俺の一番は君だから。



 栄えすぎず寂れすぎない最寄り駅はひと路線しかない。

 駅から歩いて程なくして見えてきた昔ながらの農家の平屋づくり。

 俺が家に着くと玄関前には友達の天野が待っていた。


「お帰り。久しぶりだな、秀人しゅうと

「天野、久しぶり」


 俺は家に上がるようにすすめたが天野はここでいいと話を続けた。


「俺はとても信じられねえ。この目で見るまではな」

「……井川も来んのか?」

「井川が来るわけねえだろ。アイツが来たらマジでただじゃおかねえから」

「奈緒は……」


 息が詰まった。

 声が出ない。


「俺は秀人しゅうと、お前なら良いと思って身を引いたんだ。お前が奈緒と結婚して遠くへ連れてきゃ、こんな事にならなかったんだ!」

「あのさ、天野。実は俺さ奈緒にプロポーズして断られたんだよ。かっこ悪くて誰にも言えなかった。奈緒が恋人として一緒に居たかったのは俺じゃあ無かったんだよ」

「そんな! だってお前たちすごく仲睦まじくて誰が見てもお似合いで」

「周りが思ってくれてるほど奈緒は俺のことが好きじゃなかった。……それだけだよ」


 目の前の天野が喪服を着ているのを見ても実感が湧かなかった。


 君との思い出は幸せの記憶だった。


 君に振られてここにいたって俺には後悔しかないから四国行きはかえってありがたかった。


 まさか君が……。


「井川はどうしてる?」

「知らねえ」

「通夜は六時からだったよな?」

「ああ、俺は葬儀場に手伝いに行くけど。秀人は来るか?」

「いや、ごめん。ちょっと気持ちを落ち着けたいから時間までゆっくりしたい」

「分かった」


 天野は「じゃあ後でな」と去って行った。

 俺は実家に入る。


「お帰り秀人」

「ただいま、母さん」


 母さんが待っていた。

 お茶でも飲む? と言われたのを遠慮し言葉少なにやり取りして、四国に行く前とちっとも変わらない自分の部屋に入ってベッドに寝転んだ。


 慌てて荷造りしたからスーツケースには何を詰め込んだのかは覚えていない。

 天井を仰ぐと奈緒が死んだと知らせを聞いてから初めて泣いた。

 涙が勝手に後から後から流れ出てくる。


「奈緒、なんで死んだんだよ」


 今でも好きな気持ちが消えていない。

 奈緒が幸せだったらと願っていた。

 隣りにいるのが井川の野郎でも、奈緒が笑顔なら俺はそれで良いと諦めがついていた。


   ◇


 奈緒に出会ったのは大学一年生の学園祭でだった。

 文学サークルの店で見かけた奈緒があまりにも可愛くて。

 俺はあの手この手でどうにかお近づきになれないだろうかと画策した。


 大学のメイン通りには白いテントにカラフルなイラストや看板を立てた出店が並んでた。

 自分たちで創作した文学誌を売る純文学サークルの店ではにかみながら話す奈緒が眩しかった。

 勇気を出して奈緒の前に立った。

 格好つけて同じ文学誌を十冊も買ったっけ。

 一目惚れだったんだ。


 まずは友達になって、それから告白しよう。そう決心して。

 やっと奈緒と恋人になれた時を忘れない。


   ◇


 奈緒の通夜に向かう。

 葬儀場の駐車場で天野が井川を殴って罵倒していた。


「俺は奈緒が好きだった! 井川、お前のせいで奈緒はっ」

「……俺のせいじゃない」

「やめろ天野。こんな時にやめろ」


 俺が仲裁に入りなだめると天野は背を向けて走って行ってしまった。

 ――天野は泣いていた。


「井川……。奈緒が死んだ理由って、皆が言ってんのが真実なのか?」


 俺は知りたかった。

 奈緒は井川と楽しく付き合っていると思っていたからだ。


「あー、秀人もそう思ってたんだな。ばあか。俺、奈緒にはとっくのとうに振られてんの。告白したけどばっさり断られた。俺と奈緒が幼なじみなのは知ってるよな? ずっと好きだったし奈緒も俺のことが好きなんかと勘違いしてたんだ。……知らないって残酷なことだな秀人。お前、苦しめよもっと。一生奈緒のこと忘れんな」

「どういうことだよ、井川」


 井川は俺を睨んだまま泣いていた。


「大事な事忘れてんなよ。お前、昔病院で奈緒と会ってるはずだ。秀人さ、中学ん時、サッカーの試合行く前に自転車でこけて骨折して入院した事あったろ?」

「なんで知ってんだ。俺、大学の奴に話したことなんなかない……はず」


 微かになにかが蘇る。

 記憶にぼんやりと、忘れていた日がうっすらと。


「やっと思い出したか? 相変わらずお気楽でムカつく奴だな。奈緒は病院で出会った秀人おまえに恋したんだ」


 一ヶ月ぐらいの入院生活だった。

 退屈していた俺は漫画を読むぐらいしか楽しみが無かった。

 病室より明るい談話室が憩いの場だった。


 そこで同い年の女子が勉強してて話し掛けた。可愛かったから緊張したけど。それから会うたびに話すようになった。

 あの子が奈緒だったのか!


「思い出したか?」

「ああ……。あの子が奈緒だったなんて」


 俺はショックで手が震えていた。


「奈緒が死んだ日のこと話してやるよ。奈緒は幼い頃から難しい病気で入退院を繰り返していたんだ。克服したはずだった。お前と付き合ってる時、また再発したんだ」

「えっ……」

「奈緒がどうしてもって言うから俺と奈緒の母親が付き添って屋上の庭園に連れて行った。風が強い日だったよ。俺が奈緒のカーディガンを取りに病室に行ってた間に、……飛んだんだ」

「……飛んだ?」

「フェンスの向こう側にな。……奈緒はもうあんまり動かないはずの体だったのに。奈緒は最後の力を振り絞ったんだな。母親の手を振り切って空に飛んだんだ。だけどすぐには死ねなかった! 奈緒が落ちた下がバルコニーの植え込みだったから助かったんだ。……なあ? すっげえ痛かったろうなあっ。アアッ、奈緒はさ、秀人。呻きながらもお前の名前ばっかりずっと何度も呼んで奈緒は逝ったんだ」

「井川……」

「なんでお前なんだよ。そばにいたのは俺なのに」


 俺は泣きながら話す井川に掛ける言葉が見つからなかった。

 井川は結局その時の彼女とは別れていて、奈緒のそばにいたんだって知った。


 奈緒が死んだ理由は、俺や周りが聞いた噂は嘘ばっかりだった。

 付き合ってた井川が浮気したから自殺したんじゃない。

 奈緒と井川とは付き合ってすらいなかった。


「飛び降りなくても奈緒は死期が近かった。けど、まだもう少し生きられたはずだ。お前と付き合った記念日に死にたかったってこの手紙に書いてある。お前からのプロポーズが嬉しかったのに奈緒が受けられなかったのは、自分がもうすぐ死ぬのが分かっていたからだ」


 ぐしゃぐしゃに握りしめられた奈緒からの手紙を井川が俺の胸に突きつけてくる。


「秀人、お前は奈緒の手を離したことを一生後悔して生きていけ。幸せになんかなるんじゃねえ」

「……もっと奈緒と話せば良かった」

「奈緒はお前にそばにいてほしかったんだ。だけど負担にはなりたくなかったんだろ」

「奈緒っ……」

「――やめた。秀人、やっぱり忘れてくれ。奈緒のことも俺が奈緒を好きだったことも。お前はまたここから居なくなるんだよな。この土地に残る俺が奈緒のことをずっと想っていく」

「いやだ、俺は奈緒を忘れない。今でも俺は奈緒が好きだ」

「お前みたいな奴が抱えていい想いじゃねえから」


 俺は奈緒への井川の深い愛情を知った。

 自分が恥ずかしかった。

 俺は奈緒が好きだった。

 俺は奈緒が……。


 ちゃんと奈緒のこと見えてなかった。

 向き合えてなかった。

 独りよがりで自分の気持ちばかりだったんだ。


     ◇


 奈緒の葬儀が終わった。


 次の日、赴任先に戻る前に大学に寄った。


 ちょうど学園祭がやっていた。

 並んだ出店でみせの数々、ステージからは軽音部の賑やかに演奏する音楽が流れる。

 学生や訪れてる人の楽しそうな声が聴こえてる。


 どこか自分とは違う世界の出来事みたいだ。


 今朝から冷え込んだ。

 目の前に昇る吐く息が白い。


 歩む道には小さな森、落ち葉が降る。

 銀杏やもみじ黄色や朱色に染まった葉がはらはらと落ちてくる。

 色鮮やかな葉の絨毯が踏むごとに音を鳴らす。

 枯れ葉が風に舞う。


(奈緒……)


 俺が奈緒と出会った学園祭も、もう遠い遠い日になった気がした。


 奈緒の笑顔が思い出せなかった。


 あんなに好きだった奈緒の微笑んだ顔も耳に心地よい声も俺にはもうすぐには浮かばない。

 最期の別れで見た眠ったような奈緒の顔が脳裏から離れない。

 現実にはとても思えなかった。


 だが井川の苦しそうな怒った顔と天野の泣き顔だけがはっきりと頭によぎっては消えた。


 いつかここに戻りたいと思うだろうか。


 雲が碧紫や橙や珊瑚色に染まる夕焼けが胸に痛いほど美しい。


 小高い丘からは遠い地に在るはずの冠雪した富士山がはっきり青く見えた。


 武蔵野の地はこんな日も胸が苦しくなるほどに綺麗で長閑だった。



            了


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