第四十二話

 翌朝、隗囂かいごうは登庁するために自宅の門を出た。健康な成人男性が乗る二輪の馬車ではなく、婦女や老人が乗る四輪の馬車に、劉秀りゅうしゅうの手を借りて乗り込んだ。劉秀と家内奴隷の老女に見送られ、隗囂を乗せた馬車が走り出した。馬車が見えなくなると、劉秀は老女に一礼し、徒歩で太学たいがくへ移動した。


 太学に到着すると、劉秀は人を捜した。半年前、南陽なんよう郡で進学の準備をしていた時、劉秀は兄、劉縯りゅうえんの知人から、南陽郡出身の学生が太学にいることを教えられた。その学生を劉秀は捜した。それらしい学生を見つけ、南陽の人ですか、と声をかけた。違うと答えられた。声をかけては違うと言われることを何度か繰り返した。太学の講義が始まる時間が近づいた。劉秀は捜すことを諦め、講堂へ向かおうとした。


 右腕に筆記具と簡冊を抱え、どたどたと騒がしく駆けてくる学生がいることに、劉秀は気づいた。その学生は地を蹴る足に草鞋を履き、後で履き替えるつもりなのか布靴を左手に持ち、食べかけの無発酵パンを口に咥えていた。兄の知人から聞いた学生と容姿の特徴が合致していた。あの人がそうではないかと思い、劉秀は無発酵パンを咥えた学生に話しかけた。


「あの、あなたは南陽のしゅ――」


 南陽の朱仲先ちゅうせんですか、と訊ねようとした劉秀の前を、無発酵パンを咥えた学生は猛然と走り抜けた。残された劉秀の肩の上を、一月の冷たい風が吹き抜けた。ぶるりと劉秀は肩を震わせ、講堂の方へ体を向けた。挨拶は後にして講義を受けようと思い、歩いて講堂へ移動した。移動する途中、何人もの学生が劉秀を足早に追い越した。何をそんなに急いでいるのだろう、と劉秀は首を傾げたが、その謎は講堂に到着した瞬間に解けた。講堂の中は講義を受ける学生で溢れ、講堂の外の回廊も学生と筆記具で床が埋められていた。劉秀は回廊に入ることすら出来ず、前庭で講義を受けることを余儀なくされた。その日は悪いことに曇天で、講義の途中で白いものが帝都の市街に降り始めた。庁舎で簡冊に目を通していた隗囂が、雪に気づいて簡冊から目を上げた。王邑おうゆうの邸宅を訪ねようとしていた竇融とうゆうが、馬車へ乗り込もうとした足を止めて空を見た。宮殿の奥で大事に飼われている白色の鸚鵡が、天地の性、人を貴しと為す、と粉雪を見て鳴いた。講義が終わり、学生が講堂から去り始めた。劉秀は入れ替わるように講堂の中へ駆け込み、暖を取るために置かれていた金属製の方形火鉢の前に身を屈めた。講義が始まる前、劉秀が話しかけようとした学生が、がたがたと震えている劉秀に話しかけた。


「もしかして、南陽の劉文叔ぶんしゅくか? 劉伯升はくしょうの弟の?」


 劉秀は話しかけてきた学生を見上げ、かくかくと頭を上下させた。学生は苦笑し、劉秀の隣に腰を下ろした。


「話は聞いている。今朝は悪いことをしたな。今日は珍しく雪か雨が降りそうだから、もし庭で講義を受けることになれば大変だと、つい先を急いでしまった。許してくれ」


 言いながら、学生は近くに置かれていた文机を引き寄せ、その上に筆記具を置き、簡冊を広げた。筆に墨汁を含ませ、何も書かれていない簡冊に文字を書きながら、劉秀に話し続けた。


「もう十何年も前の話だが、聖上がかん大司馬だいしばをしていた時、太学の入学資格を大幅に緩めたろう? あれで太学の学生の数が増えて、講堂の中に入り切らなくなった。一応、講堂を新しく建てるという話はあるようだが、建てる土地を確保できないらしくてな。おれが入学した時から、これが太学の日常の風景だ。勿論、庭でも学べる方が、学べないよりはましだけどな」


「あの――」


 学生が筆を走らせている簡冊へ、劉秀は目を向けた。


「――それは、何を書いているのですか?」


孝経こうけいだ。市で売るために書き写している」


「市で売る?」


「学費の足しにするんだよ。孝経は庠序でも使われるから売れやすいし、暗記しているから早く書ける。おれたちのような貧乏学生の心強い味方だな」


「あの――」


 劉秀は火の方へ目を戻し、火で温めていた両手を裏返した。


「――言いにくいんですが、そこ、順番を間違えています」


「あ?」


「徳義は尊ぶく、の次は、作事さくじのっとる可く、です。その次が、容止ようしは観る可く」


「お? ……あ、本当だ」


 学生は小刀を取り、正しくない文章が書かれている箇所を削り落とした。ふ、と息を吹いて木屑を火の中へ飛ばすと、改めて筆に墨汁を含ませた。


「今日の午後、貧乏学生の皆で銭を出し合い、市で簡冊を買う。一度に大量に買えば安くしてもらえるし、一人よりも大勢で押しかける方が値切りやすいからな。劉文叔も書いて売る気があるなら、一緒に行こう」


「お願いします。……あ、その――」


 暖を取るために火へ向けていた体を、劉秀は学生の方へ向き直らせた。


「――南陽の朱仲先、で間違いないですよね?」


「そういえば、まだきちんと名乗っていなかったな」


 学生は手を止め、筆を置いた。劉秀の方へ向き直り、胸の前で両手を重ね合わせた。


「姓名は朱祜しゅこ、字は仲先。仲よくやろう、劉生」


 午後、雪が降り止んだ。劉秀は朱祜と朱祜の仲間たちに連れられ、帝都の市場へ移動した。大路の中心を走る馳道ちどう――煉瓦が敷き詰められた皇帝専用道を避けて歩いた。途次、劉秀は市場での売買について朱祜から助言を受けた。


「市で物を買う時は、欲しい物の値段を最初に訊ねては駄目だ。まず他の品の値段を訊いてから、目当ての品の値段を訊く。こちらが何を買おうとしているかを知られると、値を吊り上げられるかも知れないからな。だから、こちらが本当に欲しい物は、出来るだけ知られないようにする」


「なるほど」


「ま、今回は顔馴染からツケで買うから、その必要は無いけどな。もし粗悪品を高値で買わされたら、貰を踏み倒す。そんなことをされたら困るから、向こうも客を騙すようなことはしない」


 帝都の市場が見えてきた。帝都の市場は城壁の内側に設けられており、その広さは地方の小さな都市に匹敵し、周囲を壁に囲まれている。市場内は複数の区画に分けられ、区画を通る道の左右に店舗が並び、店舗と店舗の隙間では露天商が商品を広げて客を呼び込んでいた。劉秀が市場へ入る門を潜ると、市場の中心の広場に建てられた三層の楼閣が見えた。楼閣の前では公開処刑が行われており、罪人が斬首される様を見物しようと大勢の男女が群れ集い、良民を害した罪人に罵詈雑言を浴びせていた。朱祜の仲間の一人が通行人を呼び止め、あれは誰の処刑かと訊ねた。通行人は子供を連れた母親で、処刑を見たがる子供の手を引いて広場から離れながら、劉子輿りゅうしよさ、と答えた。劉秀の周りで、ど、と笑いが起きた。


「聞いたか。劉子輿が処刑されるとさ」


 朱祜が笑いながら広場の方を指した。朱祜の仲間の一人が、これで何度目だ、と口の両端を上げた。劉秀は意味がわからず、両目を瞬かせた。朱祜が劉秀に説明した。


「劉子輿というのは、漢の孝成こうせい皇帝の子だ」


 孝成皇帝は先年に死去した太皇太后王政君おうせいくんの子で、外戚の王氏一門を不本意ながらも重用し、結果的に王氏の横暴を許した皇帝であるが、皇后との間に子を生せず、側室に産ませた男児も悉く夭逝したことから、自らの甥を帝位継承者に指名した。孝成皇帝の死後、王氏一門は新たに即位した皇帝に敵視され、一時的に没落することになるが、実は孝成皇帝の子供たちが幼くして死んだのは、皇帝の寵愛を独占したい皇后が密かに殺害したからであり、唯一、劉子輿という幼児だけが民間に匿われて生き延びた、という噂が孝成皇帝の死の数年後に流れた。


「あくまでも噂で、本当かどうかはわからないけどな」


 噂が流れた当時、孝成皇帝の皇后は皇太后となり、太皇太后王政君と後宮で権力闘争を繰り広げるも、最後は六璽争奪戦に敗れて自殺に追い込まれていた。皇后が孝成皇帝の子を殺したという噂は、王氏一門が政敵を中傷するために流したものであり、劉子輿という幼児が生き延びたという噂は、復権した王氏一門が幼帝を擁立したことを快く思わない者たちが、王氏一門が流した噂に便乗する形で流したものではないか、と当時の中立的な識者は考察している。


「それに、劉子輿はこれまでに十回は処刑されている」


「十回も?」


「一回目は、そん将軍に捕らえられて首を斬られた」


 朱祜が言う孫将軍とは、匈奴フンヌ単于ぜんう国との戦争で戦病死した立国りっこく将軍孫建そんけんのことである。大しん帝国が成立した年の夏、孫建が帝都の大路を馬で進んでいると、子供たちが俗謡を歌う声が聞こえた。可愛いものだ、と微笑ましく思いながら孫建が歌声に耳を澄ますと、新帝国が滅んで漢帝国が再び興る、という意味の歌詞が子供たちの小さな口から出た。孫建は驚いて馬を下り、その俗謡は誰に教えられたのかと子供たちに訊ねた。劉子輿、と子供たちは答え、劉子輿がいた方を指差した。


「二回目も似たようなものだ。三回目は人を騙して捕らえられ、四回目は人を脅して捕らえられた」


 朱祜の仲間の一人が、人を脅したのは五回目だろう、と異を唱えた。別の仲間が、いやいや、五回目は叛乱を企てた罪で斬首されたはずだ、と主張した。


「とにかく、そういうわけで、劉子輿という男は十回は処刑されている。何度首を刎ねられても、また騒ぎを起こすのだから、劉子輿は本当に懲りない男だ」


 今度の劉子輿はどんな顔をしているかな、と朱祜の仲間の一人が広場へ目を向けた。別の仲間が、前に処刑された劉子輿は髭面の大男、その前は容姿端麗な優男で、晒された首を見て女たちが溜め息をついていた、と回想した。これまでに劉子輿を自称する者が何人も現れ、そのたびに官憲に捕らえられて処刑されていることを、劉秀は理解した。処刑された劉子輿たちの中に本物はいたのだろうか、と考えていると、朱祜の仲間の一人が、おれたちも処刑を見物に行こう、と言い出した。朱祜は仲間の提案を笑い飛ばした。


「もう劉子輿の処刑は見飽きたよ。それよりも、早く簡冊を買いに行くぞ。そのために市へ来たんだからな」


 劉秀と朱祜と朱祜の仲間たちは、文具が売られている区画へ移動した。簡冊を安く販売している露天商に、十年後の千石、すなわち帝国政府の高官に恩を売る好機が来たぞ、と朱祜は言い、また来たか、と嫌な顔をする露天商に、更に値を安くするよう仲間たちと共に交渉した。おれたちは奇貨だ、奇貨居くべし、という言葉を知らないのか、と朱祜が熱弁を揮う間に、劉子輿の処刑が執行された。劉子輿の首に斧が振り下ろされた瞬間、わ、と群衆が上げた歓声が、劉秀の耳に届いた。楼閣の前に劉子輿の首が晒され、雲間から斜めに射した陽に頬を照らされた。夕食の時間が近づいて群衆が散じ、劉秀も簡冊を抱えて帰路に就いた。


 劉秀が下宿先に帰ると、家内奴隷の老女が夕食の支度をしていた。劉秀は夕食の支度を手伝い、種火から火を熾し、竈へ薪を運んだ。男手があると助かる、と老女が劉秀に感謝した。隗囂が庁舎から帰宅した。食事の後、劉秀は宛がわれている部屋へ退き、早速、簡冊に孝経を書いた。陽が没し、辺りが暗くなり、文字を書くことが難しくなり始めた。器に満たした油に灯芯を挿した灯りを持ち、隗囂が劉秀の部屋を訪ねてきた。暗い場所で読み書きすると目が悪くなると言い、隗囂は文机の上に灯りを置いた。


「何を書いているのかね?」


「孝経です。市で売り、学費の足しにします」


「なるほど。しかし、孝経か」


 隗囂は考え込んだ。劉秀は首を傾げた。


「孝経が、何か?」


「劉生は、孝経は既に習い覚えているはずだな?」


「はい」


「数ある書物の中から孝経を選んだのは、売れやすく、且つ早く書けるからであろうと推察するが、どうか?」


「仰せの通りです」


「わたしが思うに、学生の本分は学業であり、書物を読むに書くより優れた方法はない。書物を書き写すには読まねばならず、読んだ文章を書くことで二読、三読することになるからだ。然るに、劉生は今、孝経を書き写しているが、既に習い覚えている孝経を書き写しても、学業に資するところは少ないのではあるまいか?」


「それは、そうかも知れませんが、しかし――」


「来なさい」


 隗囂は灯りを取り、劉秀の部屋を出た。中庭を通り、主屋にある自らの書斎へ劉秀を案内した。劉秀に灯りを持たせ、簡冊が積まれた書棚を探りながら劉秀へ訊ねた。


「柔は剛に勝つ、という言葉を聞いたことは?」


「似た言葉なら聞いたことがあります」


「柔く剛を制す、のことだな。あれは三略さんりゃくに出てくる言葉だが――」


 三略、とは古代の軍事書で、古代連合王朝の聖王に仕えた賢者、太公望たいこうぼう呂尚りょしょうの著作とされるが、古代連合王朝には存在しない兵科である騎兵に言及した文章があることから、実際に三略が書かれたのは古代連合王朝崩壊後の七王国時代、ちょう王国が七王国初となる騎兵隊を創設した後と考えられている。


「――三略は、これの影響を強く受けている」


 隗囂は一巻の簡冊を書棚から取り、劉秀へ渡した。


老子ろうしだ」


 老子、とは孔子こうしと並び称される古代の思想家、李耳りじの通称で、李耳が著した書物の名でもある。


「老子は孔子と思想を異にするが、孔子をして龍の如しと言わしめた賢人だ。その教えは広大にして細を漏らさず、世界の成り立ちから政治、戦争、男女の情愛に至るまで多岐に渡る」


 男女の情愛、と聞いて劉秀は顔を僅かに赤くした。一方で興味を覚え、灯りを近くの文机の上に置いた。隗囂の目を意識して、殊更に真面目な表情を作り、紐を解いて簡冊を広げた。目についた文章を心の中で読み上げた。


 罪は欲するよりだいなるはく、咎は得るを望むより大なるは莫く、うれいは足るを知らざるより大なるは莫し。


「こちらも面白い書物だ」


 変なことを期待するな、と叱られた気がして恥じ入る劉秀を横目に、隗囂は書棚から新たに簡冊を引き出した。


孟子もうし。孔子の孫に師事し、孔子の正統な教えを継いだとされる孟軻もうかの著作だ。これの最も有名な一節は、民を貴しと為し、社稷しゃしょくは之に次ぐ、であろうな」


「母から聞いたことがあります。何というか、凄い言葉ですね」


「国よりも民。数多の王侯将相しょうしょうを戦慄せしめたであろう言葉だ。しん始皇帝しこうていが儒学を弾圧し、多くの書物を焼いたのは、これを地上から消そうとしたのかも知れない。孟子を読むのであれば、こちらも押さえておきたいところだ」


 隗囂は更に別の簡冊へ手を伸ばした。


孫卿新書そんけいしんしょ


 孫卿新書は、儒学の系列に属する思想家、荀況じゅんきょうが著した思想書で、後の世では荀子じゅんしと呼ばれている。


「孟子は人の本性を善と説き、善なるがゆえに、人は誰しも正しい教えを受ければ聖人になれると主張した。孫卿新書は逆に、人の本性を悪と説く。悪であるからこそ、古の聖人が定めた礼法を厳守せねばならないと」


「……あの――」


 劉秀は隗囂の説明に違和感を覚え、恐る恐る、という態で口を挿んだ。


「――思ったのですが、孟子と孫卿新書は、一見すると正反対のようですが、実は同じことを主張してはいないでしょうか?」


「……劉生」


「あ、その、失礼しました。僕が浅学で――」


「よくぞ気づいた」


 隗囂は顔を綻ばせた。


「その通りである。孟子の性善説せいぜんせつも、孫卿新書の性悪説せいあくせつも、古の聖人から学ぶべし、と説いている点は共通している。一方で、導き出された結論は同じでも、論が拠るところは大きく異なることも事実である。それをよく表しているのが、孫卿新書の教えを更に発展させた――」


 書棚の隅に積まれている簡冊に、隗囂は目を向けた。


「――韓非かんぴだ」


 韓非は七王国時代の末期、かん王国の王室に生まれた人物である。貴い身分ではあるが、生来、吃音きつおん――発話障害の一種を患い、家族を含む周囲の人々から吃非と呼ばれて嘲笑された。それゆえか、人の本性が善であるとは信じず、性悪説に傾倒した。人は愚かで嘘つきで欲が深く、残忍で傲慢で怠惰で憶病であると信じた。乱世の原因は人が邪悪だからであり、乱世を終わらせるには国が人を力で支配するしかないと考えた。法律で縛り、刑罰で威圧し、褒賞で誘導する。それが最良の政治であると考えた。聖人に学べ、という性善説、性悪説に共通する教えを、非現実的な理想論であると批判した。人は学べば変わる、善くなれると信じる儒者たちを、国家を惑わして世界を腐らせる毒蟲と断じた。


 韓非の論説は、韓非の祖国の韓王国では妄言と嘲られた。韓非は自らの考えを簡冊に書いて王に提出したが、王は簡冊を一読もせずに宮廷の芸人に渡し、皆の前で読み上げさせた。芸人は王の意を酌み、韓非の発話障害を真似て簡冊を読み上げた。その場に居合わせた者たちは手を叩いて大笑いした。韓非の言葉は誰にも届かず、韓非が提出した簡冊は棄てられた。数年後、韓王に棄てられた簡冊は紆余曲折を経て国境を越え、韓王国の西隣の国、秦王国の王都咸陽かんようへ入り、秦王へ献上された。簡冊に目を通した秦王――後の始皇帝は、そこに書かれていた文章を読んで感動した。


うれいは人を信ずるに在り。若き始皇帝の心を捉えた、韓非の言葉だ」


 災いは人を信じることから生じる、という意味の言葉である。


「始皇帝は韓非に会いたいと思い、謀略を用いて韓非を咸陽へ呼び寄せた。そして、韓非と数日、熱心に語り合い、その後、韓非を殺した」


 秦王国は軍事大国であるが、文化的、科学技術的には後進国であり、他国から優秀な人材を招いて要職に就けていた。秦王国の発展に貢献した文官は、その多くが他国出身者であるが、秦王国出身の人士は他国人に要職を占められていることが不満で、他国人を秦王国から追放するよう王に請願していた。始皇帝は韓非を高く評価していたが、他国人である韓非のために要職を用意することは難しく、仮に用意できたとしても、発話障害を患う韓非が周囲の悪意から自分を守れる可能性は低く、他国への亡命を強いられるであろうことは容易に想像できた。だから、始皇帝は韓非を殺した。優秀な人物は味方にするか、敵になる前に殺す。その戦国乱世の鉄則を、後に乱世の勝者となる男は冷徹に遂行した。


「韓非を殺した後、始皇帝は韓非の教えを基にして秦を治めた」


 書棚の隅に積まれている韓子かんし――韓非が著した二十数巻の書物から、隗囂は目を逸らした。


「秦は更に強大になり、六国を滅ぼした。最初に、韓非の祖国である韓。次に、秦と祖を同じくする兄弟国であり、始皇帝生誕の地でもある趙。趙の次は。魏の次は。楚の次はえん。そして、最後はせい


「秦が勝利したのは――」


 劉秀は顔を俯かせた。


「――韓非が正しかったことを、意味しているのでしょうか?」


 これまで自分が学んできたことは、全て無意味なのか。


 冬季の冷たい風の音が戸外から聞こえた。下を向いている劉秀の顔を、文机の上の灯りが音も無く照らしていた。一度は逸らされた隗囂の目が韓子へ戻り、隗囂の手が韓子へ伸ばされた。た、と杖が床を打つ音を微かに響かせ、隗囂の影が劉秀に近づいた。


「韓非は、人を信じてならない、という教えを世に広めるために、五十五篇、十万字から成る韓子を書いた。しかし、人を信じてはならないと、人に信じさせようとすることは、大いなる矛盾を含んではいまいか」


 あ、と劉秀は声を漏らした。隗囂は劉秀の横で体を屈め、韓子を含む三巻の簡冊を文机の上に置いた。


「韓非は己の矛盾から目を逸らした。幾度、裏切られようとも、今度こそはと人を信じ、教えを説かずにはいられない。そういう己と向き合うことから韓非は逃げた。己から逃げる者が、真理に近づくことはない。漢の孝宣こうせん皇帝が王道と覇道の混用を是とし、覇道、すなわち韓非の教えのみを用いることを非としたのは、韓非が真理から遠いことに気づいていたからであろう」


 隗囂は杖を両手で握り、自らの体を立ち上がらせた。


「少し話が逸れた。韓非の教えは完全ではないが、その論理の鋭さには目を瞠らされる。老子、孟子、孫卿新書も、それぞれに奥深い教えで満ち、且つ書き写して売れば孝経に劣らない値がつくことは間違いない。劉生が望むのであれば、これらの良書を生に貸し出そう」


「よろしいのですか?」


 劉秀は隗囂を見上げた。隗囂は頷き、書棚の方を顧みた。


「書物は人に読まれてこそ生きる。劉生に読まれることで、この棚の良書は新たな息吹を得る。読書を嗜む者の一人として、これに過ぎる喜びはない」


 鐘の音が屋外から微かに聞こえた。夜の訪れを告げる鐘が帝都の各所で叩かれ、城門や城内の区画の門が閉じられた。劉子輿の首が晒されている市場の門も閉じられ、歓楽街の路地を照らす灯も次から次へと消された。城外の貧民街では家事を終えた女たちが一軒の家に集まり、一つの小さな灯りを囲んで共同で機織をしていた。十歳になるかならないかくらいの少女が、母から指導を受けながら糸を紡いでいると、不意に戸が叩かれた。糸を紡ぐ手を止め、戸の方へ向かおうとした少女を、少女の母は止めた。強盗、或いは人攫いかも知れないと思い、自衛のために用意していた棍棒を掴んだ。他の女たちも武器になるものへ手を伸ばした。反対側の壁へ身を寄せるよう、少女の母は少女へ目で伝えながら、戸外の訪問者に名と用件を訊ねた。訪問者は答えた。


「南陽の朱祜。太学の学生です。傭肆ようしから仕事を紹介されて参りました」


 傭肆、とは労働者に仕事を紹介し、紹介の手数料を取ることで運営されている商業施設である。傭肆から来たという朱祜の言葉を聞き、女たちは武器を下ろした。かんぬきが外され、戸が開けられた。遠方に住む親戚や、匈奴フンヌ単于ぜんう国との戦争に従軍している夫へ宛てた書簡の代筆を、女たちは朱祜に頼んだ。朱祜は戸外に正座して墨を擦り、戸の隙間から漏れる僅かな光を頼りに書簡を代筆した。慣れない手つきで糸を紡いでいた少女が、外は寒いので中へ入るよう朱祜に勧めた。朱祜は文字を書いていた手を止め、男女七年にして席を同じくせず――男女は七歳を過ぎたら適切な距離を置いて接するべきである、という儒学の教えを少女に聞かせた。朱祜の言葉を聞いて、この学生さんは真面目だ、と女たちは笑い合い、あんたは書生で終わるような面相ではない、いつか必ず県の長官になれるよ、と朱祜を励ました。

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