第四十二話
翌朝、
太学に到着すると、劉秀は人を捜した。半年前、
右腕に筆記具と簡冊を抱え、どたどたと騒がしく駆けてくる学生がいることに、劉秀は気づいた。その学生は地を蹴る足に草鞋を履き、後で履き替えるつもりなのか布靴を左手に持ち、食べかけの無発酵パンを口に咥えていた。兄の知人から聞いた学生と容姿の特徴が合致していた。あの人がそうではないかと思い、劉秀は無発酵パンを咥えた学生に話しかけた。
「あの、あなたは南陽の
南陽の朱
「もしかして、南陽の劉
劉秀は話しかけてきた学生を見上げ、かくかくと頭を上下させた。学生は苦笑し、劉秀の隣に腰を下ろした。
「話は聞いている。今朝は悪いことをしたな。今日は珍しく雪か雨が降りそうだから、もし庭で講義を受けることになれば大変だと、つい先を急いでしまった。許してくれ」
言いながら、学生は近くに置かれていた文机を引き寄せ、その上に筆記具を置き、簡冊を広げた。筆に墨汁を含ませ、何も書かれていない簡冊に文字を書きながら、劉秀に話し続けた。
「もう十何年も前の話だが、聖上が
「あの――」
学生が筆を走らせている簡冊へ、劉秀は目を向けた。
「――それは、何を書いているのですか?」
「
「市で売る?」
「学費の足しにするんだよ。孝経は庠序でも使われるから売れやすいし、暗記しているから早く書ける。おれたちのような貧乏学生の心強い味方だな」
「あの――」
劉秀は火の方へ目を戻し、火で温めていた両手を裏返した。
「――言いにくいんですが、そこ、順番を間違えています」
「あ?」
「徳義は尊ぶ
「お? ……あ、本当だ」
学生は小刀を取り、正しくない文章が書かれている箇所を削り落とした。ふ、と息を吹いて木屑を火の中へ飛ばすと、改めて筆に墨汁を含ませた。
「今日の午後、貧乏学生の皆で銭を出し合い、市で簡冊を買う。一度に大量に買えば安くしてもらえるし、一人よりも大勢で押しかける方が値切りやすいからな。劉文叔も書いて売る気があるなら、一緒に行こう」
「お願いします。……あ、その――」
暖を取るために火へ向けていた体を、劉秀は学生の方へ向き直らせた。
「――南陽の朱仲先、で間違いないですよね?」
「そういえば、まだきちんと名乗っていなかったな」
学生は手を止め、筆を置いた。劉秀の方へ向き直り、胸の前で両手を重ね合わせた。
「姓名は
午後、雪が降り止んだ。劉秀は朱祜と朱祜の仲間たちに連れられ、帝都の市場へ移動した。大路の中心を走る
「市で物を買う時は、欲しい物の値段を最初に訊ねては駄目だ。まず他の品の値段を訊いてから、目当ての品の値段を訊く。こちらが何を買おうとしているかを知られると、値を吊り上げられるかも知れないからな。だから、こちらが本当に欲しい物は、出来るだけ知られないようにする」
「なるほど」
「ま、今回は顔馴染から
帝都の市場が見えてきた。帝都の市場は城壁の内側に設けられており、その広さは地方の小さな都市に匹敵し、周囲を壁に囲まれている。市場内は複数の区画に分けられ、区画を通る道の左右に店舗が並び、店舗と店舗の隙間では露天商が商品を広げて客を呼び込んでいた。劉秀が市場へ入る門を潜ると、市場の中心の広場に建てられた三層の楼閣が見えた。楼閣の前では公開処刑が行われており、罪人が斬首される様を見物しようと大勢の男女が群れ集い、良民を害した罪人に罵詈雑言を浴びせていた。朱祜の仲間の一人が通行人を呼び止め、あれは誰の処刑かと訊ねた。通行人は子供を連れた母親で、処刑を見たがる子供の手を引いて広場から離れながら、
「聞いたか。劉子輿が処刑されるとさ」
朱祜が笑いながら広場の方を指した。朱祜の仲間の一人が、これで何度目だ、と口の両端を上げた。劉秀は意味がわからず、両目を瞬かせた。朱祜が劉秀に説明した。
「劉子輿というのは、漢の
孝成皇帝は先年に死去した太皇太后
「あくまでも噂で、本当かどうかはわからないけどな」
噂が流れた当時、孝成皇帝の皇后は皇太后となり、太皇太后王政君と後宮で権力闘争を繰り広げるも、最後は六璽争奪戦に敗れて自殺に追い込まれていた。皇后が孝成皇帝の子を殺したという噂は、王氏一門が政敵を中傷するために流したものであり、劉子輿という幼児が生き延びたという噂は、復権した王氏一門が幼帝を擁立したことを快く思わない者たちが、王氏一門が流した噂に便乗する形で流したものではないか、と当時の中立的な識者は考察している。
「それに、劉子輿はこれまでに十回は処刑されている」
「十回も?」
「一回目は、
朱祜が言う孫将軍とは、
「二回目も似たようなものだ。三回目は人を騙して捕らえられ、四回目は人を脅して捕らえられた」
朱祜の仲間の一人が、人を脅したのは五回目だろう、と異を唱えた。別の仲間が、いやいや、五回目は叛乱を企てた罪で斬首されたはずだ、と主張した。
「とにかく、そういうわけで、劉子輿という男は十回は処刑されている。何度首を刎ねられても、また騒ぎを起こすのだから、劉子輿は本当に懲りない男だ」
今度の劉子輿はどんな顔をしているかな、と朱祜の仲間の一人が広場へ目を向けた。別の仲間が、前に処刑された劉子輿は髭面の大男、その前は容姿端麗な優男で、晒された首を見て女たちが溜め息をついていた、と回想した。これまでに劉子輿を自称する者が何人も現れ、そのたびに官憲に捕らえられて処刑されていることを、劉秀は理解した。処刑された劉子輿たちの中に本物はいたのだろうか、と考えていると、朱祜の仲間の一人が、おれたちも処刑を見物に行こう、と言い出した。朱祜は仲間の提案を笑い飛ばした。
「もう劉子輿の処刑は見飽きたよ。それよりも、早く簡冊を買いに行くぞ。そのために市へ来たんだからな」
劉秀と朱祜と朱祜の仲間たちは、文具が売られている区画へ移動した。簡冊を安く販売している露天商に、十年後の千石、すなわち帝国政府の高官に恩を売る好機が来たぞ、と朱祜は言い、また来たか、と嫌な顔をする露天商に、更に値を安くするよう仲間たちと共に交渉した。おれたちは奇貨だ、奇貨居くべし、という言葉を知らないのか、と朱祜が熱弁を揮う間に、劉子輿の処刑が執行された。劉子輿の首に斧が振り下ろされた瞬間、わ、と群衆が上げた歓声が、劉秀の耳に届いた。楼閣の前に劉子輿の首が晒され、雲間から斜めに射した陽に頬を照らされた。夕食の時間が近づいて群衆が散じ、劉秀も簡冊を抱えて帰路に就いた。
劉秀が下宿先に帰ると、家内奴隷の老女が夕食の支度をしていた。劉秀は夕食の支度を手伝い、種火から火を熾し、竈へ薪を運んだ。男手があると助かる、と老女が劉秀に感謝した。隗囂が庁舎から帰宅した。食事の後、劉秀は宛がわれている部屋へ退き、早速、簡冊に孝経を書いた。陽が没し、辺りが暗くなり、文字を書くことが難しくなり始めた。器に満たした油に灯芯を挿した灯りを持ち、隗囂が劉秀の部屋を訪ねてきた。暗い場所で読み書きすると目が悪くなると言い、隗囂は文机の上に灯りを置いた。
「何を書いているのかね?」
「孝経です。市で売り、学費の足しにします」
「なるほど。しかし、孝経か」
隗囂は考え込んだ。劉秀は首を傾げた。
「孝経が、何か?」
「劉生は、孝経は既に習い覚えているはずだな?」
「はい」
「数ある書物の中から孝経を選んだのは、売れやすく、且つ早く書けるからであろうと推察するが、どうか?」
「仰せの通りです」
「わたしが思うに、学生の本分は学業であり、書物を読むに書くより優れた方法はない。書物を書き写すには読まねばならず、読んだ文章を書くことで二読、三読することになるからだ。然るに、劉生は今、孝経を書き写しているが、既に習い覚えている孝経を書き写しても、学業に資するところは少ないのではあるまいか?」
「それは、そうかも知れませんが、しかし――」
「来なさい」
隗囂は灯りを取り、劉秀の部屋を出た。中庭を通り、主屋にある自らの書斎へ劉秀を案内した。劉秀に灯りを持たせ、簡冊が積まれた書棚を探りながら劉秀へ訊ねた。
「柔は剛に勝つ、という言葉を聞いたことは?」
「似た言葉なら聞いたことがあります」
「柔
三略、とは古代の軍事書で、古代連合王朝の聖王に仕えた賢者、
「――三略は、これの影響を強く受けている」
隗囂は一巻の簡冊を書棚から取り、劉秀へ渡した。
「
老子、とは
「老子は孔子と思想を異にするが、孔子をして龍の如しと言わしめた賢人だ。その教えは広大にして細を漏らさず、世界の成り立ちから政治、戦争、男女の情愛に至るまで多岐に渡る」
男女の情愛、と聞いて劉秀は顔を僅かに赤くした。一方で興味を覚え、灯りを近くの文机の上に置いた。隗囂の目を意識して、殊更に真面目な表情を作り、紐を解いて簡冊を広げた。目についた文章を心の中で読み上げた。
罪は欲するより
「こちらも面白い書物だ」
変なことを期待するな、と叱られた気がして恥じ入る劉秀を横目に、隗囂は書棚から新たに簡冊を引き出した。
「
「母から聞いたことがあります。何というか、凄い言葉ですね」
「国よりも民。数多の王侯
隗囂は更に別の簡冊へ手を伸ばした。
「
孫卿新書は、儒学の系列に属する思想家、
「孟子は人の本性を善と説き、善なるがゆえに、人は誰しも正しい教えを受ければ聖人になれると主張した。孫卿新書は逆に、人の本性を悪と説く。悪であるからこそ、古の聖人が定めた礼法を厳守せねばならないと」
「……あの――」
劉秀は隗囂の説明に違和感を覚え、恐る恐る、という態で口を挿んだ。
「――思ったのですが、孟子と孫卿新書は、一見すると正反対のようですが、実は同じことを主張してはいないでしょうか?」
「……劉生」
「あ、その、失礼しました。僕が浅学で――」
「よくぞ気づいた」
隗囂は顔を綻ばせた。
「その通りである。孟子の
書棚の隅に積まれている簡冊に、隗囂は目を向けた。
「――
韓非は七王国時代の末期、
韓非の論説は、韓非の祖国の韓王国では妄言と嘲られた。韓非は自らの考えを簡冊に書いて王に提出したが、王は簡冊を一読もせずに宮廷の芸人に渡し、皆の前で読み上げさせた。芸人は王の意を酌み、韓非の発話障害を真似て簡冊を読み上げた。その場に居合わせた者たちは手を叩いて大笑いした。韓非の言葉は誰にも届かず、韓非が提出した簡冊は棄てられた。数年後、韓王に棄てられた簡冊は紆余曲折を経て国境を越え、韓王国の西隣の国、秦王国の王都
「
災いは人を信じることから生じる、という意味の言葉である。
「始皇帝は韓非に会いたいと思い、謀略を用いて韓非を咸陽へ呼び寄せた。そして、韓非と数日、熱心に語り合い、その後、韓非を殺した」
秦王国は軍事大国であるが、文化的、科学技術的には後進国であり、他国から優秀な人材を招いて要職に就けていた。秦王国の発展に貢献した文官は、その多くが他国出身者であるが、秦王国出身の人士は他国人に要職を占められていることが不満で、他国人を秦王国から追放するよう王に請願していた。始皇帝は韓非を高く評価していたが、他国人である韓非のために要職を用意することは難しく、仮に用意できたとしても、発話障害を患う韓非が周囲の悪意から自分を守れる可能性は低く、他国への亡命を強いられるであろうことは容易に想像できた。だから、始皇帝は韓非を殺した。優秀な人物は味方にするか、敵になる前に殺す。その戦国乱世の鉄則を、後に乱世の勝者となる男は冷徹に遂行した。
「韓非を殺した後、始皇帝は韓非の教えを基にして秦を治めた」
書棚の隅に積まれている
「秦は更に強大になり、六国を滅ぼした。最初に、韓非の祖国である韓。次に、秦と祖を同じくする兄弟国であり、始皇帝生誕の地でもある趙。趙の次は
「秦が勝利したのは――」
劉秀は顔を俯かせた。
「――韓非が正しかったことを、意味しているのでしょうか?」
これまで自分が学んできたことは、全て無意味なのか。
冬季の冷たい風の音が戸外から聞こえた。下を向いている劉秀の顔を、文机の上の灯りが音も無く照らしていた。一度は逸らされた隗囂の目が韓子へ戻り、隗囂の手が韓子へ伸ばされた。た、と杖が床を打つ音を微かに響かせ、隗囂の影が劉秀に近づいた。
「韓非は、人を信じてならない、という教えを世に広めるために、五十五篇、十万字から成る韓子を書いた。しかし、人を信じてはならないと、人に信じさせようとすることは、大いなる矛盾を含んではいまいか」
あ、と劉秀は声を漏らした。隗囂は劉秀の横で体を屈め、韓子を含む三巻の簡冊を文机の上に置いた。
「韓非は己の矛盾から目を逸らした。幾度、裏切られようとも、今度こそはと人を信じ、教えを説かずにはいられない。そういう己と向き合うことから韓非は逃げた。己から逃げる者が、真理に近づくことはない。漢の
隗囂は杖を両手で握り、自らの体を立ち上がらせた。
「少し話が逸れた。韓非の教えは完全ではないが、その論理の鋭さには目を瞠らされる。老子、孟子、孫卿新書も、それぞれに奥深い教えで満ち、且つ書き写して売れば孝経に劣らない値がつくことは間違いない。劉生が望むのであれば、これらの良書を生に貸し出そう」
「よろしいのですか?」
劉秀は隗囂を見上げた。隗囂は頷き、書棚の方を顧みた。
「書物は人に読まれてこそ生きる。劉生に読まれることで、この棚の良書は新たな息吹を得る。読書を嗜む者の一人として、これに過ぎる喜びはない」
鐘の音が屋外から微かに聞こえた。夜の訪れを告げる鐘が帝都の各所で叩かれ、城門や城内の区画の門が閉じられた。劉子輿の首が晒されている市場の門も閉じられ、歓楽街の路地を照らす灯も次から次へと消された。城外の貧民街では家事を終えた女たちが一軒の家に集まり、一つの小さな灯りを囲んで共同で機織をしていた。十歳になるかならないかくらいの少女が、母から指導を受けながら糸を紡いでいると、不意に戸が叩かれた。糸を紡ぐ手を止め、戸の方へ向かおうとした少女を、少女の母は止めた。強盗、或いは人攫いかも知れないと思い、自衛のために用意していた棍棒を掴んだ。他の女たちも武器になるものへ手を伸ばした。反対側の壁へ身を寄せるよう、少女の母は少女へ目で伝えながら、戸外の訪問者に名と用件を訊ねた。訪問者は答えた。
「南陽の朱祜。太学の学生です。
傭肆、とは労働者に仕事を紹介し、紹介の手数料を取ることで運営されている商業施設である。傭肆から来たという朱祜の言葉を聞き、女たちは武器を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます