第四十三話

 夜が明けた。朝の訪れを告げる太鼓が打たれ、帝都の城門が開いた。劉秀りゅうしゅうは登庁する隗囂かいごうの馬車を見送ると、今度こそはと太学の講堂へ急いだ。講堂の後ろの方の席で講義を受けた。講義が終わると、朱祜しゅこに声をかけられた。街路の清掃の仕事を見つけたので一緒に行かないかと誘われた。翌日の午後、街路を管理する官吏の下で清掃に勤しんだ。次の日の午後も道路を掃き、その次の日も捨てられているものを拾い集めた。集めたものを荷車に載せ、今が夏季ではないことに感謝しながら城外へ運んでいると、共に荷車を押していた朱祜が口を開いた。


「……昔、いんには――」


 殷、或いはしょうと称される古代神聖王朝には、街路に物を捨てた者は手を斬り落とす、という掟が存在した。掟を定めた者が誰かは明らかではないが、恐らくは王朝最後の王にして稀代の暴君、紂王ちゅうおうであろう。


「今なら――」


 朱祜は不穏な声を喉から絞り出した。


「今なら、掟を定めた紂王の気持ちが、わかる気がする」


「よくないですよ、それは」


 劉秀は朱祜を宥めた。道に物を捨てるよりもよくないことか、と朱祜は返した。劉秀は答えに窮し、これは話題を変えるに如かずと思い、今日の仕事を終えたら市場へ行こうと提案した。市場で何か奢る、まめのはスープは如何か、少量だが狗肉も添える、と畳みかけた。奢る、肉、という言葉に朱祜は心を動かされた。そこまでしてもらうのは悪い、と一応は口にしながらも、どうしてもと言うのなら、と頬を緩めた。それを見て劉秀が安堵した時、劉秀と朱祜が押す荷車を馬車が追い越した。馬車の上には貴族らしき男がいて、ぽい、と車上から何かを道端へ投げ捨てた。ぼこぼこにしてやる、と拳を固めて馬車を追おうとした朱祜を、劉秀は懸命に止めた。


 数日が過ぎた。また劉秀は短期の仕事の誘いを朱祜から受けた。朱祜と二人で獄舎へ行き、医学の発展のために死刑囚の遺体を解剖する医官の手伝いをした。大勢の医官が見守る中、遺体の腹部が開かれた。医官たちが開かれた箇所を覗き込み、手に持つ木簡、床に広げられた布幔に筆を走らせた。劉秀は血と脂で汚れた器具を水で洗い清めた。縄のようなものが遺体の腹部から引き出された。縄のようなものを丁寧に水で洗うよう、劉秀は医官に指示された。縄のようなものを洗う間に、今度は胸部が開かれた。いつの間にか、朱祜の姿が消えていることに、劉秀は気づいた。敢えて朱祜を捜さず、朱祜の分まで器具や臓器を洗い続けた。


 解剖が終了した。生きて動いている臓器を見たい、聖上に嘆願してみよう、と話す医官たちの声を背に、劉秀は建物の外へ出た。地面に座り込み、力無く項垂れている朱祜を見つけた。朱祜へ近づき、終わりましたよ、と声をかけた。朱祜が吐瀉したらしいことを臭いで察した。すまない、と謝る声が、朱祜の口から漏れた。気にしていない、と劉秀は微笑して首を横に振り、朱祜の隣に腰を下ろした。


 南西の空の太陽が、黄土の粒を含んだ風で微かに霞んでいた。劉秀は両の手を口へ近づけ、水仕事で冷えた指を吐息で温めた。懺悔のような言葉を、朱祜の口から聞いた。朱祜が劉秀を帝都の市場へ案内した時、劉子輿りゅうしよの公開処刑が行われていた。また劉子輿が処刑されている、と朱祜は言い、処刑を見物しよう、と言い出した仲間を、もう劉子輿の処刑は見飽きた、と一笑して止めた。本当は、劉子輿の処刑を見たことは一度もない。処刑を見れば、多分、こうなる。そして、憶病なやつだと嘲笑される。


「臆病なんて、思いませんよ」


 劉秀は両手を口から離した。水のように冷たい両手を、じ、と見つめた。七年前、この手で剣や弩を握り、人を殺した。人を殺せることが勇気ではないことを学んだ。七年前に翟義てきぎの義挙に参加したことは、決して他人には話せない。話せないが、あの時に学んだことを何とか朱祜に伝えられないか、と考えていると、朱祜の口が小さく動いた。


「おれには、やはり、紂王の気持ちはわからない」


「それでよいと思います」


 劉秀は朱祜へ目を向けて微笑んだ。


「暴君の気持ちなんて、わからない方がよいです」


 劉秀が常安じょうあんへ来て二十日が過ぎた。午後、劉秀が太学から隗囂の家へ戻ると、劉秀を訪ねてきた者がいることを家内奴隷の老女から告げられた。訪問者から名刺として渡された木簡を、老女は劉秀に渡した。木簡には、鄧禹とうう、という名前が書かれていた。


「鄧先生」


 劉秀は思い出した。南陽なんよう郡で進学の準備をしていた時、新野しんや県の鄧氏に嫁いだ次姉を訪ね、新野県最大の豪族、いん氏が主催する竈神の祭儀に参加した。その際、姉婿の鄧晨とうしんの甥であり、許嫁の陰麗華いんれいかの母方の叔父でもある鄧奉とうほうから、姓名は鄧禹、あざな仲華ちゅうかという人物が常安にいることを教えられた。


「向こうから訪ねてくだされたのか」


 劉秀は鄧先生が通されている部屋へ急いだ。鄧奉の話によれば、鄧先生は儒学の五大経典の一つ、詩経しけいに習熟し、十年に一人の俊英と呼ばれている。どんな人なのだろう、と想像を巡らしながら劉秀は中庭を走り、部屋の出入り口から僅かに見えた背中へ、鄧先生、と呼びかけながら部屋の中に駆け込んだ。


 十三歳くらいと思しき少年が、劉秀の方を顧みた。


「……え?」


 劉秀は思わず声を漏らした。


「…………え?」


 鄧先生が通されているはずの部屋の中を、劉秀は見回した。二度見回しても、三度見回しても、部屋の中には少年しかいない。


「……………………え?」


 劉秀は目の前に立つ少年を見た。鄧先生には仲華という字があり、字は男性の場合は成人した際につけられることが多い。上流社会と接点を持たない未成年者に、上流社会で用いられる字は不要だからであるが、孝宣こうせん皇帝が生後間もない孫に、太孫たいそん、という字をつけたように、未成年者でも字を有することはある。


「……あの――」


 有することはあるが、と思いながら、劉秀は少年に訊ねた。


「――鄧先生、ですか?」


 違います、と少年は微笑んだ。自分は鄧先生ではなく、鄧先生の供をしている者であると答えた。


「あ、何だ、そうですよね」


 劉秀は赤面して苦笑した。鄧先生なら供くらい連れているだろう、と思いながら、鄧先生はどこにおられるのか、少年に訊ねた。公衆便所へ行かれたと少年は答えた。大かん帝国では、便所が備えられている家は豪邸に限られており、豪邸に住めない庶民は公衆便所を使用していた。大しん帝国でも、その辺りの事情は変わらない。


 鄧先生が戻るまでの間、劉秀は鄧先生の供の少年と話した。鄧先生が若くして詩経に習熟し、十年に一人の俊英と呼ばれていることを、劉秀は改めて少年から聞かされた。詩経だけでなく、孫子そんし三略さんりゃくにも通じていると聞かされた。大漢帝国の高祖こうそ劉邦りゅうほうを補佐した謀臣、張良ちょうりょうにも劣らない賢者であると聞かされた。


「張良ですか」


 張良は大漢帝国の建国に貢献した三大功臣の一人で、古代連合王朝の聖王に仕えた三賢者の一人、太公望たいこうぼうと並び称せられる名参謀である。聖王に仕えた太公望、高祖に仕えた張良のように、名君に仕えて歴史に名を刻むことを鄧先生は志している、と鄧先生の供の少年は話した。


「鄧先生は、大きな志を持たれているようだ」


 表の方で門が開く音がした。鄧先生の供の少年が、あ、と声を上げた。中庭の方へ目をやり、鄧先生が戻られました、と微笑んだ。今度こそ鄧先生に会えると思い、中庭へ顔を向けた。


 十二歳くらいと思しき少年が、中庭を歩いていた。


「…………………………………………え?」


 劉秀は鄧先生の供の少年を見た。中庭を歩いている少年を指し、まさか、あの少年が鄧先生なのか、と目で訊ねた。鄧先生です、と鄧先生の供の少年は頷いた。


「え、いや、でも、きみよりも若く見えるぞ」


 お疑いなら試されては如何ですか、と少年は唆すように笑んだ。劉秀は改めて中庭を見た。よし、試してやろうと思い、数度、咳払いをして声を整えた。詩経に収められている数百の詩の一つを、中庭に聞こえるように暗唱した。


「殷商之旅、其會如林――」


 殷商之旅――殷商のりょ

 其會如林――其のつどうこと林の如く、

 矢于牧野――牧野ぼくやつらねり。

 維予侯興――れ興り、

 上帝臨女――上帝じょうてい汝に臨めり、

 無貳爾心――の心にうたがい無かれ。

 牧野洋洋――牧野は洋々たり、

 檀車煌煌――檀車たんしゃは煌々たり、


「……檀車煌煌、檀車煌煌……」


 次の言葉が思い出せない、という風を装い、劉秀は同じ言葉を繰り返した。


「……檀車――」


「檀車煌煌、駟騵彭彭」


 声と共に、十二歳の少年が部屋に足を踏み入れた。迷える仔羊を導くように、少年は続けた。


「駟騵彭彭。維師尚父――」


 駟騵彭彭――駟騵しげん彭々ほうほうたり。

 維師尚父――維れ師尚父ししょうほ

 時維鷹揚――時に維れ鷹揚し、

 凉彼武王――彼の武王ぶおうたすく。

 肆伐大商――おそいて大商を伐ち、

 會朝淸明――會朝かいちょう淸明せいめいなり。


大明だいめいですね」


 十二歳の少年は微笑んだ。大明、とは劉秀が暗唱した詩の名で、千年前に行われた牧野会戦――古代連合王朝の聖王、武王が、古代神聖王朝の暴君、紂王を打倒した戦いを謳い上げた叙事詩である。


「大明です」


 劉秀は少年の言葉に頷いた。


「周の武王は、僕が好きな英傑の一人です。大明が収められているのは、確か、小雅しょうが篇でしたよね?」


「小雅篇ではなく大雅たいが篇ですね」


「そうでした。ところで、大明は、會朝は淸明なり、という言葉で終わりますが、これはどういう意味なのでしょうか?」


「通説では、會朝は会戦の朝、淸明は清く明らかな様で、会戦の朝は清く明らかである、という意味だと解釈されますが、僕の意見は少し違います」


「違う?」


「紂王は牧野会戦で武王に敗れた後、王都へ戻り、王宮へ火を放ち、炎の中で自らの命を絶ちます。つまり、会戦の朝の時点では、紂王は生きているし、殷商も滅んではいない。打倒すべき巨悪が健在であるのに、清く明らか、は些か気が早いように感じます」


「言われてみれば、確かに」


「なので、僕は會朝は会戦の朝ではなく、会戦の明くる日、と解釈すべきだと思います。その方が自然に思えるし、何より、新しい時代が来る、という感じがしませんか?」


「確かに、確かに」


 劉秀は何度も頷いた。これは詩経に習熟していなければ出ない言葉だと思い、目の前の少年が鄧先生であると確信した。床に両膝をつき、両手を胸の前で重ね合わせた。


「鄧先生」


 劉秀は十二歳の少年に深く頭を下げた。


「お会いできて光栄です。試した無礼を、どうか、お赦しください」


「……鄧先生?」


 きょとん、と十二歳の少年は目を円くした。劉秀の後ろにいる十三歳の少年が、何かを堪えかねたように、く、と声を漏らした。十二歳の少年は何かに気づき、十三歳の少年を睨みつけた。


「そうか、きみの悪戯か」


 十二歳の少年は劉秀へ目を戻した。


「お立ちください。僕は鄧仲華ではありません」


「……え?」


「鄧仲華というのは――」


 劉秀の後ろでにやにやしている十三歳の少年を、ぎら、と十二歳の少年は一瞥した。


「――そこにいる悪童です」


「……えぇ?」


 劉秀は十三歳の少年を顧みた。ばれたか、と少年は舌を出した。唖然とする劉秀の前で姿勢と表情を正し、両手を揖礼の形に重ね合わせた。


「話は奉から聞いています、劉文叔ぶんしゅく。十年に一人の俊英、鄧先生こと鄧禹です」


「何が鄧先生だ」


 先生なら先生らしくしろ、という目を十二歳の少年はした。あの少年が鄧禹ということは、と劉秀は十二歳の少年を見た。


「それでは、こちらが鄧先生の供をされている?」


「そんなわけがないでしょう。こんなやつの供なんて」


「そうですよ」


 くつくつと鄧禹が笑声を零した。


「彼は班彪はんひょう。字は叔皮しゅくひ班婕妤はんしょうよの甥です」


「班婕妤? 班婕妤とは、あの?」


 劉秀は驚いた。班婕妤は劉子輿の父、孝成こうせい皇帝の側室で、大漢帝国で最も高名な女流詩人である。孝成皇帝に寵愛されて男児を産むも、男児は幼くして変死し、以後は後宮の争いから距離を置いて詩作に没頭した。そのせいで孝成皇帝から存在を半ば忘れられたが、孝成皇帝の母、王政君おうせいくんからは逆に信頼され、結果的に命と地位を守ることが出来たばかりか、帝国政府が厳重に保管している極秘史料を書き写すことを許された。この極秘史料を基にして班婕妤、及び班婕妤の兄弟は歴史、文学、政治、民俗等の研究を進め、帝国の学界で劉歆りゅうきんに次ぐ名声を得た。


「班叔皮は凄いやつですよ」


 鄧禹が班彪に歩み寄り、隣に並んで班彪の両肩を掴んだ。


「特に史学と軍学に関しては、太学の偉い先生たちにも劣りません。僕が十年に一人の俊英なら、叔皮は二十年に一人の神童ですね」


「僕は神童ではありません。世の中のことを、半分の半分の半分も知らないことは、僕自身がよく理解しています」


 離れろ、と班彪は迷惑そうに鄧禹の手を振り解いた。叔皮は真面目だ、と鄧禹は笑い、仲華が不真面目なのだ、と班彪は返した。劉秀は若き俊才を二人も前にして、はへえ、と肺の底から息を吐いた。

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