第四十三話
夜が明けた。朝の訪れを告げる太鼓が打たれ、帝都の城門が開いた。
「……昔、
殷、或いは
「今なら――」
朱祜は不穏な声を喉から絞り出した。
「今なら、掟を定めた紂王の気持ちが、わかる気がする」
「よくないですよ、それは」
劉秀は朱祜を宥めた。道に物を捨てるよりもよくないことか、と朱祜は返した。劉秀は答えに窮し、これは話題を変えるに如かずと思い、今日の仕事を終えたら市場へ行こうと提案した。市場で何か奢る、
数日が過ぎた。また劉秀は短期の仕事の誘いを朱祜から受けた。朱祜と二人で獄舎へ行き、医学の発展のために死刑囚の遺体を解剖する医官の手伝いをした。大勢の医官が見守る中、遺体の腹部が開かれた。医官たちが開かれた箇所を覗き込み、手に持つ木簡、床に広げられた布幔に筆を走らせた。劉秀は血と脂で汚れた器具を水で洗い清めた。縄のようなものが遺体の腹部から引き出された。縄のようなものを丁寧に水で洗うよう、劉秀は医官に指示された。縄のようなものを洗う間に、今度は胸部が開かれた。いつの間にか、朱祜の姿が消えていることに、劉秀は気づいた。敢えて朱祜を捜さず、朱祜の分まで器具や臓器を洗い続けた。
解剖が終了した。生きて動いている臓器を見たい、聖上に嘆願してみよう、と話す医官たちの声を背に、劉秀は建物の外へ出た。地面に座り込み、力無く項垂れている朱祜を見つけた。朱祜へ近づき、終わりましたよ、と声をかけた。朱祜が吐瀉したらしいことを臭いで察した。すまない、と謝る声が、朱祜の口から漏れた。気にしていない、と劉秀は微笑して首を横に振り、朱祜の隣に腰を下ろした。
南西の空の太陽が、黄土の粒を含んだ風で微かに霞んでいた。劉秀は両の手を口へ近づけ、水仕事で冷えた指を吐息で温めた。懺悔のような言葉を、朱祜の口から聞いた。朱祜が劉秀を帝都の市場へ案内した時、
「臆病なんて、思いませんよ」
劉秀は両手を口から離した。水のように冷たい両手を、じ、と見つめた。七年前、この手で剣や弩を握り、人を殺した。人を殺せることが勇気ではないことを学んだ。七年前に
「おれには、やはり、紂王の気持ちはわからない」
「それでよいと思います」
劉秀は朱祜へ目を向けて微笑んだ。
「暴君の気持ちなんて、わからない方がよいです」
劉秀が
「鄧先生」
劉秀は思い出した。
「向こうから訪ねてくだされたのか」
劉秀は鄧先生が通されている部屋へ急いだ。鄧奉の話によれば、鄧先生は儒学の五大経典の一つ、
十三歳くらいと思しき少年が、劉秀の方を顧みた。
「……え?」
劉秀は思わず声を漏らした。
「…………え?」
鄧先生が通されているはずの部屋の中を、劉秀は見回した。二度見回しても、三度見回しても、部屋の中には少年しかいない。
「……………………え?」
劉秀は目の前に立つ少年を見た。鄧先生には仲華という字があり、字は男性の場合は成人した際につけられることが多い。上流社会と接点を持たない未成年者に、上流社会で用いられる字は不要だからであるが、
「……あの――」
有することはあるが、と思いながら、劉秀は少年に訊ねた。
「――鄧先生、ですか?」
違います、と少年は微笑んだ。自分は鄧先生ではなく、鄧先生の供をしている者であると答えた。
「あ、何だ、そうですよね」
劉秀は赤面して苦笑した。鄧先生なら供くらい連れているだろう、と思いながら、鄧先生はどこにおられるのか、少年に訊ねた。公衆便所へ行かれたと少年は答えた。大
鄧先生が戻るまでの間、劉秀は鄧先生の供の少年と話した。鄧先生が若くして詩経に習熟し、十年に一人の俊英と呼ばれていることを、劉秀は改めて少年から聞かされた。詩経だけでなく、
「張良ですか」
張良は大漢帝国の建国に貢献した三大功臣の一人で、古代連合王朝の聖王に仕えた三賢者の一人、
「鄧先生は、大きな志を持たれているようだ」
表の方で門が開く音がした。鄧先生の供の少年が、あ、と声を上げた。中庭の方へ目をやり、鄧先生が戻られました、と微笑んだ。今度こそ鄧先生に会えると思い、中庭へ顔を向けた。
十二歳くらいと思しき少年が、中庭を歩いていた。
「…………………………………………え?」
劉秀は鄧先生の供の少年を見た。中庭を歩いている少年を指し、まさか、あの少年が鄧先生なのか、と目で訊ねた。鄧先生です、と鄧先生の供の少年は頷いた。
「え、いや、でも、きみよりも若く見えるぞ」
お疑いなら試されては如何ですか、と少年は唆すように笑んだ。劉秀は改めて中庭を見た。よし、試してやろうと思い、数度、咳払いをして声を整えた。詩経に収められている数百の詩の一つを、中庭に聞こえるように暗唱した。
「殷商之旅、其會如林――」
殷商之旅――殷商の
其會如林――其の
矢于牧野――
維予侯興――
上帝臨女――
無貳爾心――
牧野洋洋――牧野は洋々たり、
檀車煌煌――
「……檀車煌煌、檀車煌煌……」
次の言葉が思い出せない、という風を装い、劉秀は同じ言葉を繰り返した。
「……檀車――」
「檀車煌煌、駟騵彭彭」
声と共に、十二歳の少年が部屋に足を踏み入れた。迷える仔羊を導くように、少年は続けた。
「駟騵彭彭。維師尚父――」
駟騵彭彭――
維師尚父――維れ
時維鷹揚――時に維れ鷹揚し、
凉彼武王――彼の
肆伐大商――
會朝淸明――
「
十二歳の少年は微笑んだ。大明、とは劉秀が暗唱した詩の名で、千年前に行われた牧野会戦――古代連合王朝の聖王、武王が、古代神聖王朝の暴君、紂王を打倒した戦いを謳い上げた叙事詩である。
「大明です」
劉秀は少年の言葉に頷いた。
「周の武王は、僕が好きな英傑の一人です。大明が収められているのは、確か、
「小雅篇ではなく
「そうでした。ところで、大明は、會朝は淸明なり、という言葉で終わりますが、これはどういう意味なのでしょうか?」
「通説では、會朝は会戦の朝、淸明は清く明らかな様で、会戦の朝は清く明らかである、という意味だと解釈されますが、僕の意見は少し違います」
「違う?」
「紂王は牧野会戦で武王に敗れた後、王都へ戻り、王宮へ火を放ち、炎の中で自らの命を絶ちます。つまり、会戦の朝の時点では、紂王は生きているし、殷商も滅んではいない。打倒すべき巨悪が健在であるのに、清く明らか、は些か気が早いように感じます」
「言われてみれば、確かに」
「なので、僕は會朝は会戦の朝ではなく、会戦の明くる日、と解釈すべきだと思います。その方が自然に思えるし、何より、新しい時代が来る、という感じがしませんか?」
「確かに、確かに」
劉秀は何度も頷いた。これは詩経に習熟していなければ出ない言葉だと思い、目の前の少年が鄧先生であると確信した。床に両膝をつき、両手を胸の前で重ね合わせた。
「鄧先生」
劉秀は十二歳の少年に深く頭を下げた。
「お会いできて光栄です。試した無礼を、どうか、お赦しください」
「……鄧先生?」
きょとん、と十二歳の少年は目を円くした。劉秀の後ろにいる十三歳の少年が、何かを堪えかねたように、く、と声を漏らした。十二歳の少年は何かに気づき、十三歳の少年を睨みつけた。
「そうか、きみの悪戯か」
十二歳の少年は劉秀へ目を戻した。
「お立ちください。僕は鄧仲華ではありません」
「……え?」
「鄧仲華というのは――」
劉秀の後ろでにやにやしている十三歳の少年を、ぎら、と十二歳の少年は一瞥した。
「――そこにいる悪童です」
「……えぇ?」
劉秀は十三歳の少年を顧みた。ばれたか、と少年は舌を出した。唖然とする劉秀の前で姿勢と表情を正し、両手を揖礼の形に重ね合わせた。
「話は奉から聞いています、劉
「何が鄧先生だ」
先生なら先生らしくしろ、という目を十二歳の少年はした。あの少年が鄧禹ということは、と劉秀は十二歳の少年を見た。
「それでは、こちらが鄧先生の供をされている?」
「そんなわけがないでしょう。こんなやつの供なんて」
「そうですよ」
くつくつと鄧禹が笑声を零した。
「彼は
「班婕妤? 班婕妤とは、あの?」
劉秀は驚いた。班婕妤は劉子輿の父、
「班叔皮は凄いやつですよ」
鄧禹が班彪に歩み寄り、隣に並んで班彪の両肩を掴んだ。
「特に史学と軍学に関しては、太学の偉い先生たちにも劣りません。僕が十年に一人の俊英なら、叔皮は二十年に一人の神童ですね」
「僕は神童ではありません。世の中のことを、半分の半分の半分も知らないことは、僕自身がよく理解しています」
離れろ、と班彪は迷惑そうに鄧禹の手を振り解いた。叔皮は真面目だ、と鄧禹は笑い、仲華が不真面目なのだ、と班彪は返した。劉秀は若き俊才を二人も前にして、はへえ、と肺の底から息を吐いた。
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