第三節 常安の春秋

第四十一話

 大しん帝国の帝都常安じょうあん、旧称長安ちょうあんは、帝国の北西部、関中かんちゅうと呼ばれる地域に存在する。


 関中は東西七百里(約三百キロメートル)、南北二百里(約百キロメートル)の広大な盆地で、王城の地と称される。千年前、古代神聖王朝を打倒した古代連合王朝は、この地を流れる河川の畔で産声を上げた。古代連合王朝が異民族の侵攻を受けて関中を放棄した後は、古代神聖王朝の暴君に仕えた勇者、悪来あくらいの子孫たちが関中を制圧し、古代連合王朝の承認を得てしん公国を建てた。秦公国は後に秦王国となり、六つの王国を征服して大秦帝国となり、陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱で崩壊した。帝国の崩壊後に起きたかん戦争では、関中を本拠地とした高祖こうそ劉邦りゅうほうが覇王項羽こううに勝利し、大漢帝国を誕生させた。


 天鳳てんほう元年(西暦十四年)一月、劉秀りゅうしゅうは生まれて初めて関中の大地を踏んだ。


「これが、王城の地」


 劉秀は呟いた。劉秀の目の前に広がる大地は、足下から地平に至るまで黄土色をしていた。樹木らしきものは見当たらず、頬に当たる風は塩のように乾いていた。劉秀は風を避けるために頭巾を深く被り直した。


「まるで荒野だ」


 荷車を牽いた驢馬を引き、劉秀は黄土色の大地を歩いた。白い息を吐きながら進む劉秀の前を、牛に牽かれた荷車の列が進んでいた。沿道の集落に辿り着き、荷車の列を率いている男が休憩を命じた。劉秀も共に休んだ。驢馬に水を飲ませながら、集落の近くの麦畠へ目を向けた。こんな大地でも麦は逞しく育つ。そのことに何となく安堵しながら別の畠へ目を移すと、数人の農夫が畠の土を農具で砕いていた。荷車の列を率いている男が劉秀に話しかけた。


「あれは何をしているか、わかるか?」


「何かの種を撒くために、土を耕しているのでしょうか?」


「違う。土が塩を噴かないようにしているのだ」


 男は姓名を来歙らいきゅうという。劉秀の亡父、及び養父の従弟で、南陽郡で仕入れた品を帝都で売り、帝都で仕入れた品を南陽郡で売ることを生業としている。


「関中では、地面の土が硬く固まると、微量ではあるが、土の表面に塩が噴き出る。そうなれば、麦も菽も育たない。だから、あのように土を小さく砕き、塩が噴き出ないようにする」


 見ろ、と来歙は劉秀に言い、膝を屈めた。足許の黄土を手で掬い、劉秀に見せた。


「関中の土は粒が細かく、僅かな水で泥となり、僅かな陽射しで硬く固まる」


 風が微かに吹いた。驢馬の鬣が揺れない程度の風で、来歙の掌の上から流れるように黄土が飛んだ。


「関中の農民は、水を撒くたびに畠の土を砕く。雨が降るたびに畠の土を砕く。土は石のように硬いが、砕かねば作物が枯れる。この地では、天の恵みであるはずの雨さえも、畠の作物を枯らす」


「それは、過酷ですね」


 関中の大地が塩を噴き始めたのは、戦国後期、秦王国が六王国征服に邁進していた時代である。当時の秦王国は富国強兵のために関中の森を拓き、農地を拡大していた。古代連合王朝に放棄された後の関中は、王朝発祥の聖地ではなく蛮族が跋扈する魔境と見做されていたが、秦王国は関中を大穀倉地帯に変え、辺境の後進国から西方の軍事大国へ躍進した。しかし、その成功の裏では森林の消失による大地の乾燥化が進み、間もなく秦王国の農業は危機に瀕した。秦王国は乾燥化に対処するために大規模な灌漑工事を行い、大量の水を関中の大地へ流し込んだ。これにより乾いた大地は潤され、秦王国は圧倒的な軍事力で六王国へ侵攻したが、その足下では黄土色の大地が地中の水分を吸い上げ、地表から蒸発させていた。そして、その過程で地中の塩分が水分と共に吸い上げられ、地表の塩分濃度を上昇させた。


「それでも――」


 鉄のすきで掘り起こした畠の土を、槌のような農具で叩いて砕く農夫たちへ、劉秀は目を戻した。


「――こんな大地にも、人は種を撒くのですね」


「どんなに過酷でも諦めず、智恵を絞り、力を尽くす。その不撓不屈の民の心が、高祖を覇王に勝たせた」


 数日、劉秀は来歙らと共に関中の大地を進んだ。秦王国の時代に築かれた農業用水路に沿う道を歩いた。畠の周りに排水溝を掘る農夫を見た。畠で働く父親へ弁当を届ける子供たちを見た。集落の広場で闘鶏に興じる老若男女を見た。帝都が近づき、擦れ違う人や荷車の数が増えた。帝都の城壁と、城壁の外に広がる貧民街が見えてきた。帝都の十二の城門の一つへ近づいた。城門を管理する官吏に、来歙が通行許可証を提示した。劉秀も許可証を官吏に見せ、来歙に続いて帝都に入城した。高さ五じょう(約十二メートル)の青銅製の武人像が劉秀を迎えた。劉秀は驢馬と共に足を止め、帝都の大路を守護するように立つ巨大銅像を見上げ、はへえ、と歎息を漏らした。率いていた荷車の列に指示を出し終えた来歙が、巨大銅像に驚いている劉秀に話しかけた。劉秀が下宿する家へ案内すると伝え、帝都の大路を歩き出した。


 大新帝国の帝都常安、旧称長安は、覇王項羽に破壊された大秦帝国の帝都咸陽かんように代わる都市として、高祖劉邦の命令で建設が始められた。高祖の在位中に国政の中心となる大宮殿、未央宮が台地の上に築かれ、高祖の死後、帝位を継いだ孝恵こうけい皇帝の時代に帝都を防衛する城壁が完成した。その規模は東西十五里(約六キロメートル)、南北十三里(約五キロメートル)に及び、城壁の内側には宮殿、政庁、富裕層の邸宅等が整然と建ち並び、外側には貧民街が無秩序に広がる。戸数は大新帝国が成立した時点で約八万戸、口数は約二十五万人で、帝都に常駐する官吏や兵士、富裕層の私兵や奴隷等も合わせれば、人口は五十万人に達する。絲綢の路シルクロードの沿線国の都市の中では、ローマ帝国の帝都ローマに次ぐ巨大都市である。


 帝国政府の官員の住居が並ぶ区画へ、劉秀は案内された。人や車馬が行き交う街路を歩きながら、これから劉秀が下宿する家の主人が如何なる人物であるか、来歙が劉秀に説明した。


「秀、汝は国師こくしを知っているか?」


「この国を代表する儒学者です。数学者でもあり、天文学者でもあり、暦学者でもあり、最近は史記しきの――」


 史記、とは漢帝国の孝武こうぶ皇帝に仕えた文官、司馬遷しばせんが著した歴史書である。


「――続篇を執筆されていると聞いています」


「汝が下宿する家の主は、国師から直々に招聘され、その属吏を務めている人だ」


「深い学識を具えた人であると拝察します」


「出身は天水てんすい成紀せいき県」


「成紀県といえば、李広りこう李陵りりょうの出身地ですね」


「勇将豪傑を数多輩出した土地だ。一方で、文人は出ないとされる地域でもある。そういう武骨な風土の地に生まれながら、学術を究めることを志し、国師に認められるに至るまで己を磨いた人だ。礼を尽くして接すれば、多くのことを学べるだろう」


 来歙は区画の端まで歩き、足を止めた。この家だ、と劉秀へ言い、目の前の中庭式住居の門を叩いた。門が僅かに開き、家内奴隷と思しき老女が顔を出した。来歙が姓名を告げると、老女は門を大きく開け、こちらへどうぞ、と来歙と劉秀と劉秀の驢馬を中庭へ通した。中庭の正面の主屋へ、先生、と呼びかけ、来歙が訪れたことを伝えた。主屋の中から物音が聞こえた。た、た、と足音のような音が微かに聞こえた。ず、ず、と何かを引き摺るような音が微かに聞こえた。風が吹き、薄雲が陽を微かに翳らせた。ぎ、と小さく音を立て、主屋の扉が開いた。


 開いた扉の隙間から杖が伸び、た、と地面を突いた。


 劉秀は僅かに目を見開いた。た、た、と右手の杖で地面を突き、ず、ず、と右脚を引き摺りながら、来歙と同じくらいの年齢の男が主屋から出てきた。劉秀と目が合うと、男は微笑んだ。来歙が胸の前で両手を重ね合わせ、男に頭を下げた。


かい公」


「来公」


 男は老女に杖を預け、来歙に揖礼を返した。来歙に続いて劉秀も両手を揖礼の形に重ね合わせた。来歙が劉秀を振り返り、男に劉秀を紹介した。


「劉秀です」


「今日から、お世話になります」


 劉秀は深く頭を下げた。男は劉秀に揖礼を返した。


隗囂かいごうあざな季孟きもうと申す」


 風が去り、雲が陽から離れた。劉秀、来歙、隗囂の頭上に冬の陽が射した。揖礼を終えた隗囂に、家内奴隷の老女が杖を返した。隗囂は再び杖をつきながら、劉秀を部屋へ案内するよう老女に命じた。老女に案内されて中庭から去る劉秀を見送りながら、隗囂は来歙に話しかけた。


「真面目そうな若者だ」


「真面目ではありますが、井の底の蛙の如き者です」


「蛙か。蛙は井の底に身を沈めども、その眼は常に上を向いている」


「あれもそうであることを願います」


 隗囂は来歙を主屋へ招き入れた。互いに近況を話し、僅かばかり時世を論じた。少しでも安く品物を仕入れるために天水郡まで足を延ばす、と言う来歙のために、隗囂は紹介状を書いた。その間に劉秀は、老女に案内された部屋に荷物を運んだ。姉たちから贈られた着物を運び、叔父から贈られた筆記具を文机の上に置き、兄から譲り受けた孝経を棚に並べた。劉秀が荷物を運び終えると、空の荷車を牽く驢馬を連れて来歙が隗囂宅を辞した。門を出て見送る劉秀に、皆の期待に応えられるよう努めよ、と来歙は言い残した。


 その日、劉秀は隗囂と夕食を共にした。小麦粉に水を混ぜて練り、発酵させずに焼いたパンが食膳に並んだ。初めて見る無発酵パンに戸惑う劉秀に、隗囂は微笑みかけた。


へいを食べるのは初めてかな?」


 餅、とは無発酵パンのことである。


「この辺りは南陽なんようと違い、米が育たない。他の地域から運ばれてはくるが、口に出来る者は限られる。関中二百万の民は、その多くがこういうものを食べて腹を満たしている」


 隗囂は箸で餅を取り、一齧りした。劉秀も隗囂に倣い、餅を食べた。外側はかりかりと硬く、中はもちもちしていた。不思議な食べ物だ、と神妙な面持ちで口をもぐもぐさせる劉秀に、隗囂は訊ねた。


「劉せいは――」


 劉生、とは、書生の劉、という意味の言葉である。


「――常安に入城したのは今日が初めてと聞いた。初めての常安は如何かな?」


「驚くことばかりです。まず、人が多くて驚きました。えんよりも遥かに多い」


 南陽郡の首府、宛は帝国の第二線開拓地帯の中心的都市であり、大新帝国の六大都市の一つに数えられる。その人口はローマ帝国の宗教都市エルサレム、パルティア帝国のオアシス都市メルヴ、月氏サカ女王国の交易都市タクシラ等に匹敵し、井の底の劉秀の目には巨大都市に見えていたが、常安の人口はエルサレム、メルヴ、タクシラ、宛の四都市の人口を合わせた数よりも多い。


「城壁も宛より高く、建物も大きい。何より、あの秦の金人には本当に驚かされました」


 秦の金人、とは帝都の十二の城門の近くに設置されている十二の巨大銅像である。幼少の頃に長兄から聞かされたことがある秦の十二金人を、自らの目で見られた感動を劉秀が語ると、隗囂は穏やかに微笑み、秦の金人は顔や服装等が同じ銅像は存在しないので、立ち入りが禁止されていない門に置かれている銅像を、出来れば急いで見て回ることを劉秀に勧めた。なぜ急がねばならないのか、劉秀が隗囂に訊ねると、秦の金人を融かして銅貨にするという案が帝国政府内で議論されていることを、隗囂は劉秀に明かした。


「劉生も存じているだろうが、聖上は五年前、漢で使われていた五銖銭ごしゅせんを廃し、新たに小銭しょうせんを発行した」


 五年前に皇帝が発行した銅貨、小銭を隗囂は膳の上に置いた。小銭は漢帝国の時代に流通していた銅貨、五銖銭よりも小さく、小泉直一、という文字が表面に鋳込まれていた。


「更に四年前、幺銭ようせん幼銭ようせん中銭ちゅうせん壮銭そうせんを新たに発行した」


 四年前に追加された四種の銅貨を、隗囂は膳の上に並べた。


「大新帝国は今、これらを鋳造するために大量の銅を求めている。加えて――」


 加えて、秦の金人は大秦帝国の初代皇帝である始皇帝しこうていが、六王国を征服したことを記念して、六王国の軍隊から没収した青銅製の武具を融かして造られた、と伝えられている。始皇帝は戦国乱世の勝者であるが、儒学を弾圧して貴重な書物を焼却し、苛酷な労役で良民を虐げ、同化政策を強行して旧六王国の文化を破壊した暴君とされている。暴君が造らせた記念碑的巨大銅像を保存することは、暴君の非道な行いを肯定することになりはしないか。そのような意見が、帝国政府に招聘された儒学者の一部から出ている。


「秦の十二金人は、来年か、再来年には、銭の山と化しているかも知れない」


 膳の上に並べられている五種の銅貨に、隗囂は視線を落とした。


「劉生は幸運だ。秦の十二金人が、こういうものになる前に、常安に来ることが出来た」


「あの――」


 劉秀は箸を置いた。


「――遅くなりましたが、僕を貴宅に置いてくださいましたこと、感謝いたします」


「気にしなくてよい。わたしは見ての通り、脚が不自由だ」


 動かない方の脚を、隗囂は二度、掌で叩いた。


私属しぞくが一人、介助してくれているが、あの者は老いている上に女であるから、力仕事をさせるのは気の毒だ。若くて健康な男がいればと考えたが、そういう私属を新たに手に入れようにも、私属の売買は禁じられている」


 私属、とは奴隷のことである。大新帝国は始建国しけんこく元年(西暦九年)、すなわち大新帝国が成立した年の四月に、国内で奴隷を売買することを禁止した。皇帝は奴隷売買の禁止を命じた詔の中で、天に逆らう、人倫に悖る、孔子こうしの教えに反する、と奴隷売買を激しく非難し、奴隷という言葉を使うことすら禁じた。


「無論、聖上が私属の売買を禁じたことは善である。私属とて人であり、人が人を家畜のように売買することは、天地の性、人をたっとしと為す、という聖人の教えに背く。しかし、それはそれとして、何とか男手を確保して、あの者に楽をさせてやれないものかと思い続けていた」


「敬老は聖人の教えです。僕に手伝えることは、何でも手伝います」


「黄金の如く貴い言葉だ。わたしは右脚は動かないが、学識は些か有るものと自惚れている。わたしの憂いを劉生が晴らしてくれたように、わたしも劉生の学業を少しは助けられると思う」


 隗囂に仕えている家内奴隷の老女が、温めた酒を運んできた。黒い漆器の杯が、隗囂と劉秀の膳の上に一つずつ置かれた。隗囂の手が漆塗りの杓子を取り、酒壺の蓋を開けて白色の酒を掬い上げた。


「歓迎の一杯、受けてもらえるだろうか?」


「頂戴します」


 酒は苦手であるが、断るべきではないと思い、劉秀は杯を手にした。劉秀の杯に酒が注ぎ入れられた。劉秀は杯を傾けて酒を飲んだ。


 ごふ、と劉秀は咽た。これまで飲んだことがない酒精の強さに体が吃驚した。口を袖で押さえ、えほ、えほ、と咳を繰り返した。


「これは、この酒は――」


匈奴フンヌの馬乳酒も初めてかな?」


 目を白黒させている劉秀を見て、隗囂は笑い声を上げた。

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