第三十八話
「
「高句麗の求めに応じる」
烏珠留単于は即断した。すぐに匈奴単于国の南東部総督、
数日後、
新軍の攻撃で左屠耆王が負傷し、数百の騎兵が失われたことが、単于国東部に軍を留めている烏珠留単于に伝えられた。烏珠留単于は報告を聞き終えると、
高句麗の主邑を制圧し、匈奴単于国からの援軍も撃退した新軍の指揮官、
「見ろ。荘討濊が一仕事してくれたぞ。兵は詭道、とは言うが、匈奴軍の振りをして高句麗軍を騙し、高句麗軍の振りをして匈奴軍を騙すとは、大胆なことをする」
どうして荘尤は匈奴軍の来援を知ることが出来たのか、補佐官が孫建に質問した。孫建は書簡に目を戻した。
「烏桓が匈奴の動きを知り、荘討濊に報せた。高句麗が匈奴と手を組めば、烏桓は東西から敵に挟まれることになるからな」
荘尤からの書簡には、離反した高句麗の首長を討ち取ることに成功するも、残党による抵抗が続いていると書かれていた。残党を懐柔して戦いを終わらせるために、高句麗に授けた金印の字句を旧に戻すべきであるとも書かれていた。孫建は苦笑して書簡を文机の上に置いた。
「
孫建は荘尤の進言を帝都
布告書には、高句麗を下句麗と改称することが決定した、と書かれていた。
孫建は思わず壁を殴りつけた。皇帝は清廉、且つ厳格で罪を強く憎むため、帝国に叛いた上に今も抗戦を続ける高句麗に、譲歩するようなことはしないだろうとは考えていた。しかし、この決定は予想よりも遥かに酷すぎた。
「大方、
忌々しいやつめ、と孫建は床を蹴りつけた。十五単于擁立作戦が始動する前、荘尤が兵站の不備を指摘して作戦に反対した時、孫建は
その結果、三十万の大軍は集結から一年を経ても、万里の長城を越えることが出来ずにいる。
「あの
ぎりぎりと孫建が歯を軋らせた時、孫建の補佐官の一人が孫建を訪ねてきた。孫建は咳払いして気持ちを落ち着かせ、補佐官へ顔を向けた。
「おう、
竇
「孫将軍」
「心配するな。それよりも、報告を頼む」
了解しました、と竇融は孫建から離れ、姿勢を正した。孫建に命じられていた調査の進捗を報告した。予定されていた軍糧が後方から届かず、深刻な食糧不足が続いた結果、餓えた将兵の一部が徴発と称して農村で掠奪を働いていること。掠奪を隠蔽するために、軍の高官、及び掠奪が行われた行政区の官吏に、掠奪品の一部が賄賂として贈られていること。贈収賄を隠蔽するために更に贈賄が行われ、虚偽に虚偽を重ねた報告が繰り返されて軍も行政も機能不全を起こしていること等が、孫建に報告された。孫建は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何という有様だ。これが国を護り、民を安んじる官軍の姿か」
「実は、わたしも賄賂を受け取りました。貪官汚吏を演じねば、軍の腐敗を真に知ることは出来ないと思いましたので」
「正しい判断だ」
竇融に賄賂を渡してきた者が誰か、孫建は竇融に訊ねた。戦国期の名将、
「これが、その帯鉤です」
廉丹に握らされた帯鉤を、竇融は孫建に渡した。帯鉤は馬頭を模した形をしており、青銅製の本体にトルコ石が象嵌され、全体に鍍金が施されていた。辺境の農村で手に入るような品ではなく、恐らくは廉丹の私物と思われた。少しの間、孫建は廉丹の帯鉤を見つめた。
二日後、立国将軍孫建に率いられ、約一万の新軍が城塞を出た。国境を越えて匈奴単于国に侵入し、砂塵混じりの風が吹く荒野を北進した。一日、二日と孫建は馬上で揺られ続けた。退屈を紛らわすために補佐官の竇融と話した。竇融が翟義の乱の討伐に従軍していたことを知り、あの戦いに参加していたのか、と顔を綻ばせた。
「どこの隊に所属していた?」
「
「強弩将軍か。当時の強弩将軍は、確か、
「あの時は、叛乱軍の猛攻で潰走寸前まで追い込まれました。孫将軍が敵軍の只中へ突入し、賊兵どもを引きつけてくださらねば、わたしは母と弟妹たちを残して死んでいたかも知れません」
「父は、いないのか?」
「わたしが幼い頃に死にました。残された母を助け、幼い弟妹たちを養うために、わたしは軍に入りました」
「そうか。すまんな、こんなことに付き合わせて」
「孫将軍には命を救われました。それに、幸いにも妹は容姿に恵まれ、
隆新公、とは新帝国の監察長官、王邑の称号である。
「――見初められて、公の
二頭の
「新軍を迎え撃つ」
戦いは兵の数だけで決まりはしない。そう自らに改めて言い聞かせ、烏珠留単于は南へ兵を進めた。途中、補給のために兵站用の羊群に立ち寄ると、羊群を管理している女たちが群れの端に集まり、心配そうに顔を見合わせていた。
「母馬の容態が悪いのか? それとも、仔馬の方か?」
女は答えず、仔馬の方を目で示した。輿は女の視線を追い、地上に産み落とされたばかりの仔馬を見た。
「何だ、これは」
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