第三十九話

「何だ、これは」


 輿は瞠目した。うんの馬が産んだ仔馬は、二つの眼が左右ではなく正面を向いていた。前脚に蹄が無く、代わりに爪のようなものが生えていた。体の前半分が毛のようなものに覆われ、肩の辺りから何か生えていた。口が大きく裂け、まるで嘴のように見えた。嘴のように見える口を開け、ぴい、と鳥の雛のように鳴いた。


鷲馬ヒポグリフだ」


 声と共に、於粟置支侯おぞくちしこうかんの馬が輿の黒馬の横に並んだ。輿は咸の方へ顔を向けた。


「ひぽ……何だって?」


「鷲馬。鷲獅子グリフィンと牝馬が交わることで生まれる獣だ。体の前半分が鷲、後ろ半分が馬の形をしている。この仔馬は鷲馬だ。在り得ざる獣、鷲馬だ」


「鷲馬」


 輿は呟き、異形の仔馬へ目を戻した。仔馬は前脚の爪で地面を掻き、ぷるぷると震わせながらも脚を伸ばし、立ち上がろうとした。震えていた脚が折れるように崩れ、仔馬の体が地面に倒れた。仔馬の前脚の爪が再び地面を掴んだ。仔馬を遠巻きに見ていた女たちの一人が、頑張れ、と拳を握りしめた。匈奴フンヌ単于ぜんう国では、産まれてから数時間以内に自力で走れない馬は、生きることを許されない。烏桓うがんでも、鮮卑せんぴでも、月氏サカでも、遊牧生活の妨げになる馬は、荒野に置き去りにされる。


 また異形の仔馬の体が倒れた。諦めず、また立ち上がろうとする仔馬に、烏珠留うしゅりゅう単于が馬を近づけた。単于の手が矢箙から矢を取り、弓を構えた。脚を震わせて立とうとしている仔馬へ、矢の尖端が向けられた。


 異形の仔馬に怯える母馬に寄り添い、その首を抱いて落ち着かせようとしていた云が、烏珠留単于に気づいた。


「単于」


 云は異形の仔馬の許へ走り、烏珠留単于と仔馬の間に割り込んだ。


「判断が早すぎます。この子は産まれたばかりで、まだ体も乾いていない。もう少し様子を――」


「その仔馬は不吉だ」


 烏珠留単于の弓が、ぎ、と軋んで音を立てた。


「その仔馬は鷲馬だ。鷲馬は、鷲獅子と牝馬が交わることで生まれる。しかし、そんなことは本来、起こり得ない」


 鷲獅子は獰猛な肉食獣で、馬を捕食することもある。捕食する側と捕食される側が交わることは、自然の摂理に反している。それゆえに、鷲馬は在り得ざる獣と呼ばれる。


「鷲馬の誕生は、起こり得ないことが起こる兆しだ。だから、鷲馬が生まれたら、すぐに殺さねばならない。特に、今は大事な戦いの前だ。悪い兆しは、排除せねばならない」


 弦音が鳴り、烏珠留単于の弓から矢が放たれた。矢は云の頭上を抜け、周りで成り行きを見守る人々の間を抜け、後産を攫おうと潜んでいた狐の足許を射貫いた。狐は驚いて逃げ出した。烏珠留単于は次の矢を取り、再び弓を構えた。


「そこをどけ、云」


「どきません」


「その仔馬は殺すべきだ。母馬でさえ、そいつには近寄ろうとしない」


「この子は、わたしと同じです。母馬が育てないのなら、わたしが育てます」


 云の体の後ろで、また異形の仔馬が倒れた。最後の力を振り絞るように、仔馬は地面に爪を立てた。飛ぶには小さすぎる仔馬の翼が、ぱたぱたと上下に動いた。


 馬が地を馳せる音が、烏珠留単于の背中に近づいた。於粟置支侯咸の三男、かくが駆けてきて、北から急使が到着したことを烏珠留単于に報せた。後にしろ、と烏珠留単于は振り返らずに角へ言おうとした。言い終えるよりも早く、角は烏珠留単于へ叫んだ。


 右骨都侯うこつとこうが、勝ちました。


「何?」


 烏珠留単于は弦を引く手を緩めた。角を振り返り、本当か、と訊ねた。角は烏珠留単于に詳細を報告した。北で丁零テレク軍の侵攻を寡兵で食い止めていた右骨都侯須卜当しゅぼくとうが、盧芳ろほうが集めた大いなる湖バイカル・ノールの漢人系漁民の義勇兵と協力し、丁零軍を湖上から奇襲して撃破したことが単于に伝えられた。大勝利です、と角は破顔した。右骨都侯の大勝利だ、と周囲に叫び、転げ落ちるように馬を下りた。云へ駆け寄り、勝ちましたよ、云従姉さん、と云の両肩を掴んだ。大勝利です、大勝利です、と両目を潤ませて云の肩を揺らした。


「須卜当さまが、勝たれた」


 云は呆然と呟いた。周囲の女たちが歓声を上げた。数人が馬を下りて云へ駆け寄り、あんたの男の大手柄だ、と押し倒さんばかりの勢いで左右から抱きついた。その衝撃が云を我に返らせた。痛い、離れろ、暑苦しい、と目の端に涙を浮かべて笑いながら、云は女たちを振り解こうとした。


 云の両目が、不意に大きく見開かれた。


「立った」


 湖面のように潤んだ云の瞳が、異形の仔馬の輪郭を映し出した。鋭い爪を具えた前脚で地を掴み、硬い蹄を具えた後脚で地を踏みしめ、仔馬が大地に立っていた。立った、と輿が声を漏らした。立った、と仔馬を囲む人馬の輪が騒めいた。仔馬が一歩、右の前脚を前に進めた。仔馬が進む先には、仔馬を産んだ母馬がいた。仔馬が一歩、前へ進むと、母馬は一歩、後退した。仔馬が更に一歩、前へ進むと、母馬は更に一歩、二歩と後退した。ぴい、と仔馬は母馬へ鳴いた。また数歩、母馬は異形の仔馬から離れた。ぴい、ぴい、と擦り切れそうな声で仔馬は鳴いた。


 仔馬の首を、云の腕が抱いた。


「わたしが――」


 仔馬の小さな翼に、云の黒髪が触れた。


「わたしが、母だ」


 違う、と叫ぶように仔馬は鳴いた。云を振り払おうと身を捩り、前脚の爪で地面を掻きながら、ぴい、ぴい、と助けを求めるように母馬へ鳴いた。母馬は仔馬に近寄らず、一方で云を心配してか離れもせず、その場で数度、足踏みした。


「云」


 云の後ろで、再び弓弦が引かれた。


「鷲馬から離れろ。それは、生まれてきてはいけないものだ」


 弦を引く右手を、烏珠留単于は目の近くまで引いた。異形の仔馬と、仔馬の首を抱く云の背中を視界の中心に捉えた。云の背中に向けられている矢の鏃の先が、微かに震えた。


「云、そこを――」


「こいつだ」


 輿が叫ぶ声を、烏珠留単于は背後に聞いた。


「こいつが――」


 輿の声と共に、輿の黒馬が脚を前に進めた。


「――この仔馬が、須卜当を勝たせた」


 烏珠留単于の横を過ぎ、異形の仔馬の近くまで、輿の黒馬は進んだ。


「こいつは、悪い兆しではない。勝利の兆しだ。右骨都侯が大勝利を収めたことが、その証拠だ。こいつは、自らの脚で立ち上がり、大地の上を歩いた。おれたちと共に生きる資格が有ることを、こいつは証明した。見ろ」


 輿は右手で径路刀アキナスを抜いた。径路刀の刃を左手で強く握りしめた。左の掌が切れ、血が流れ出た。輿は左手を上げ、流れ出る血を周囲に見せた。


「おれは、齢五つにならずして馬に乗り、十にならずして山羚羊アイベックスを狩り、十二にならずして狼を殺した。匈奴の土地を荒らす賊を討ち、境を侵した丁零や烏桓を退けた。万里の長城を越えて漢へ入り、奴隷にされていた同胞を逃がした。匈奴の戦士がしなければならないことを、おれは、力の限り、してきたつもりだ。だが、この血は――」


 輿の眼が、僅かに赤みを帯びた。


「――おれの掌から流れ出る、この血は、半分が漢人の血だ。匈奴人の猛き血ではなく、漢人の汚れた血だ。それでも、おれは匈奴の戦士か。漢人の血が流れていても、おれは匈奴の戦士なのか」


「匈奴の戦士だ」


 於粟置支侯咸が馬を前へ進めた。


右屠耆王うしょきおうは匈奴の戦士だ。匈奴の戦士であることを、これまで幾度も証明した。その仔馬も同じだ。産まれたばかりの仔馬が乗り越えるべき試練を、その仔馬は乗り越えた。我らと共に生きる資格が有ることを証明した。だから、その仔馬は生きてよい。その仔馬は悪しき兆しに非ず。テングリが我らに授けてくれた瑞獣だ」


 天に感謝を、と咸は声を張り上げて空を仰いだ。咸の三男、角が、天に感謝を、と空を仰いだ。異形の仔馬を遠巻きにしていた女たちの一人が、天に感謝を、と空を仰いだ。女たちと共に仔馬を見ていた匈奴の戦士たちの一人が、天に感謝を、と空を仰いだ。空を仰いで謝意を口にする者が、烏珠留単于の周りで相次いだ。咸は烏珠留単于の方へ馬首を巡らした。


「単于、この仔馬を殺してはなりません。この仔馬は、天からの授かりものです。撐犂狐塗テングリクトならば、天が授けてくれたものは大事にすべきです」


 撐犂狐塗、とは、天の子、という意味の匈奴語で、単于が有する宗教的称号である。匈奴単于国の成立以前に存在していた古代連合王朝の王の称号、天子てんしに由来するであろう称号で、古代連合王朝の後継を自認するかん帝国、及びしん帝国の皇帝も別称を天子というが、帝国のてんは星天を、単于国のテングリは青天を意味している。


「単于、いや、撐犂狐塗。この仔馬が我らと共に生きることを、お許しください」


 撐犂狐塗、と女たちが声を上げた。撐犂狐塗、と男たちも声を上げた。


 風が地を擦り、陽が西の地平に没した。星と月が空を巡り、夜が明けた。東の地平から射す光に半面を照らされながら、烏珠留単于は四千騎を率いて出発した。南へ馬を走らせながら、馬上で乾酪チーズを食べた。南へ馬を走らせながら、四千騎を複数の隊に分けた。冒頓ぼくとつ戦法、と漢人が呼ぶ戦法で新軍を撃滅すべく、戦場となるであろう場所を三方から囲むように隊を配置した。騎兵を下馬させ、地面に伏せさせた。鷲獅子の軍旗を倒し、馬も地に伏せさせた。新軍を包囲の中へ誘い込むために、百騎を南へ進ませた。前夜の軍議で志願した輿に百騎を率いさせた。百騎の先頭に立ち、輿は黒馬を駆けさせた。


 前夜の記憶が、疾走する馬群のように輿の脳裏を過ぎた。軍議の後、不寝番をしていた云と少しだけ話した。帝国から単于国へ云が帰還してから、初めて二人だけで話した。相変わらず、云は輿を兄と呼び、その都度、輿は叔父と訂正した。母、王昭君おうしょうくんの故郷を訪ねたことを云に聞かされた。母の故郷には見たこともない大河が流れていることを教えられた。母が生前、胡琴ウードで弾いていた不思議な曲が、実は母の故郷の歌であり、母を知る老人が歌を聴かせてくれたことを云が話していると、狼が出たという声が遠くから聞こえた。云は弓を掴んで馬に乗り、声が聞こえた方へ馬を走らせた。揺れる馬上で輿の方を振り返り、大声で訊ねた。


 兄上、わたしは綺麗?


「おれは叔父だ。おまえは綺麗だ」


 前夜、云に返した答えを、輿は呟いた。風が鳴り、砂塵が前を遮るように流れた。砂塵が流れ去り、黄旗を翻して進む新軍が南の地平に見えた。


「行くぞ」


 後ろに続く百騎に言い、輿は馬の脚を速めた。新軍の方へ走りながら、百騎は輿を先頭に縦陣を組んだ。新軍が匈奴軍の接近に気づいた。太鼓が鳴り、盾を構えた歩兵が走り出てきた。盾が横一列に並び、その後ろに弓弩兵が整列した。盾の上に乗せるようにして弩が構えられた。輿は矢箙から矢を抜き、弓を構えた。新軍の真正面へ直進せず、弧を描くように進路を右へ曲げた。新軍の前を左から右へ横切るような形で、新軍の弓弩の射程内へ突入した。


 太陽が中天に達した。烏珠留単于は目の上の汗を指で拭い、改めて地平線へ目を凝らした。新軍が輿に誘引され、匈奴軍の包囲の中に入り込む瞬間を、地に伏して待ち続けた。鷲が一羽、太陽を掠めて匈奴軍の上を通りすぎた。鷲の影が彼方へ消え、荒野の岩と岩の間を野兎が走り抜けた。喉に渇きを覚え、烏珠留単于は水筒へ手を伸ばした。獣の胃袋を加工して作られた水筒から、馬乳酒を一口だけ飲んだ。


 地に落ちている影が東へ伸びた。荒野の岩と岩の間を胡鼠マーモットが走り抜けた。水筒の中の馬乳酒が尽きた。烏珠留単于は半身を起こした。囮の百騎を南へ向かわせてから、些か時が経ちすぎていた。敵を包囲の中へ誘引することに失敗したと判断し、軍に撤収を命じようとした。


 南の地平に土煙が見えた。


「来た」


 烏珠留単于は呟いた。負けたふりをして北へ駆ける輿と数十騎を、数百騎の新軍騎兵が追いかけていた。数百騎の後ろには、数千人の歩兵と弓弩兵が駆け足で続いていた。弓弩兵の更に後ろには、軍糧を積んだ輜重の列が続いていた。


「来た」


 烏珠留単于は立ち上がり、地に伏せていた愛馬を起こした。愛馬に跨り、角笛を口に当てた。息を吸い、空高く角笛を吹いた。離れた場所で地に伏せていた於粟置支侯咸が、烏珠留単于の角笛の音を聞いて跳ね起きた。馬を起こし、馬に乗り、角笛を口に当て、吹き鳴らした。咸の三男、角が同様に角笛を吹き鳴らした。他の戦士たちも角笛を吹き鳴らした。連なるように荒野の各所で角笛が吹き鳴らされ、倒されていた鷲獅子の軍旗が起こされた。我に続けと角笛を鳴らす烏珠留単于を先頭に、匈奴軍は地を轟かせて突撃を開始した。


 新軍を指揮していた立国りっこく将軍孫建そんけんが、北、西、東の三方で上がる土煙に気づいた。横にいた補佐官の竇融とうゆうが表情を緊張させた。


「孫将軍」


「慌てるな。やつらが冒頓戦法で来ることは、想定の内だ」


 冒頓戦法は、地平線の向こうに兵を隠して敵を包囲する。地平線までの距離は約十二里(約五キロメートル)であり、弓騎兵で構成された匈奴軍ならば千を数える間に走り抜けられる。冒頓戦法の術中に嵌まり込んだ者の多くは、不意に現れた匈奴軍に混乱し、包囲されていることに惑わされて匈奴軍の兵数を誤認し、僅かしか残されていない時間を右往左往して費やし、迎撃態勢を整える前に匈奴軍の突撃を受ける。


 無論、孫建はそうではない。


「鉦を打て。兵を呼び戻せ」


 時間を無為に費やすことなく、孫建は命じた。鉦が打たれ、三百を数える間に歩兵が呼び戻された。


「輜重から荷を降ろせ。空にした輜重は外へ動かせ。輜重を軍の周りに並べるのだ。輜重を並べて、矢と騎兵を防ぐ壁とせよ」


 軍糧が輜重から降ろされた。角笛の音と馬蹄の轟きが三方から迫る中、兵士たちは空の輜重を押して移動させた。


「急げ。しかし、慌てるな。慌てず、急げ。慌てず、急げ」


 新軍の前面に輜重が並べられた。輿と数十騎を追いかけていた騎兵が戻り、輜重と輜重の間を抜けて列の奥へ後退した。盾を構えた歩兵が輜重の間を埋めた。はあ、はあ、と肩で息をする歩兵の後ろに弓弩兵が整列した。ふう、ふう、と荒く息を吐きながら、弩の弦を引いて矢を装填した。新軍の将校の一人が輜重に跳び乗り、匈奴め、来るなら来い、返り討ちにしてやる、と吼えた。新軍の側面に輜重が並び、背面にも一つ、二つと並び始めた。


 輜重の上の将校の百数十歩前を、輿と数十騎が右から左へ走り抜けた。


「新軍の後背に突撃し、やつらが守りを固めることを妨害する」


 輿の手許で弦音が鳴り響いた。きらりと陽を弾いて矢が飛翔し、輜重の上の新軍の将校の肩を射貫いた。将校が輜重の上から転がり落ちた。肩を押さえて倒れながらも、将校は兵士たちに反撃を命じた。新軍の列から矢が放たれた。矢は風に阻まれ、輿に届くことなく地に落ちた。輿は矢箙へ手をやり、残り少ない矢を掴んだ。


「おれたちは、生きて戻れはしないだろう。だが、おれたちの死は匈奴の勝利に繋がる。おれたちの魂は、冒頓単于の許へ召される。匈奴に勝利を。そして、冒頓単于の許で、また会おう」


 先頭を駆ける輿の言葉に、数十騎は喊声で応えた。未だ防備が整わない新軍の背面を目指し、馬を走らせた。背面を狙う輿らを遮るべく、新軍の弓騎兵が百騎、輜重の間から輿の正面へ走り出た。駆け抜けろ、と後ろに続く数十騎へ叫び、輿は前を塞ぐ新軍の弓騎兵を射た。新軍の弓騎兵は射返しながら輿と数十騎へ突撃した。一騎、二騎と新軍の弓騎兵が矢を浴びて倒れた。三騎、四騎と匈奴軍の弓騎兵も射倒された。双方の距離が急速に狭まり、地を揺るがして土煙が衝突した。輿を含む十数騎が駆け抜けることに成功した。新軍の弓騎兵が反転し、十数騎を追いかけた。十数騎は後方から矢を浴びた。


 輿の肩の横を、頭の上を、ひゅん、ひゅん、と矢が過ぎた。どす、という衝撃を二度、輿は脚で感じた。振り返ると、味方の姿は一騎も見えず、敵ばかりが後ろに続いていた。矢が二本、黒馬の体に突き立ち、流れ出た血が黒馬の後脚を濡らしていた。


 前夜の出来事を、また輿は思い出した。母の故郷を訪ねたことを云に聞かされた。母が胡琴で弾いていた曲が、母の故郷の歌であることを教えられた。狼が出たという声が聞こえた。声の許へ馬を走らせる云から、綺麗かと訊かれた。綺麗だと輿は答えた。云は微笑し、大きく手を振りながら輿へ叫んだ。


 兄上も、とても綺麗だよ。


「おれは――」


 矢が風を切る音が、輿の耳の横を通りすぎた。輿は顔を前へ向けた。まだ輜重が並べられていない場所が見えた。そこへ突撃するために黒馬を急転回させた。矢箙から矢を抜き取り、弓を構えた。輜重を押していた新軍の兵士たちが、突進してくる輿に気づいた。もう匈奴が来たと叫び、恐れ慄いて逃げ散ろうとした。弓弩兵が一人、逃げようとした兵士たちの横を抜けて前へ駆け出た。輿の進路上に立ち、矢が装填された弩を構えた。弓弩兵の指が、弩の引き金を引いた。


 がつん、と弩の部品が動き、弩から矢が放たれた。矢は風を裂いて輿の眉間へ飛んだ。輿の弓から矢が放たれた。矢は弩から放たれた矢に当たり、諸共に弾け飛んだ。


 次の矢を、輿は矢箙から引き抜いた。弦音が鳴り、輿の弓から弓弩兵へ矢が飛んだ。弦音が鳴る直前、歩兵が一人、盾を構えて前へ走り出た。弓弩兵の前へ跳躍し、輿の弓から放たれた矢を盾で受けた。ずさ、と左肩で土を擦りながら歩兵の体が地面に落ちた。弓弩兵の手が弩を投げ捨て、歩兵の右手の矛を掴んだ。歩兵の手から矛を捥ぎ取り、歩兵の体を跳び越えた。矛を前へ突き出し、喊声を上げて輿へ突進した。


 輿は矢箙へ手を伸ばした。連絡用の鏑矢が一本だけ、矢箙の内に残されていた。鏑矢を掴み、弓を構えた。弓弩兵との距離は、既に十数歩まで近づいていた。輿は鏑矢を放とうとした。


 次の瞬間、弓弩兵が体を低くし、足から前へ滑り込んだ。


 輿の弓から鏑矢が放たれた。鏑矢は音高く鳴りながら、弓弩兵の頭の僅かに上を通りすぎた。弓弩兵は前へ滑り込みながら、矛の石突を地面に押し当て、矛の穂先を黒馬の方へ跳ね上げた。


 傷つきながらも疾走していた黒馬の胸に、矛の刃が深く突き刺さり、心臓を貫いた。


 黒馬の重さで矛の柄が折れた。弓弩兵は横に転がり、倒れる黒馬に押し潰されることを避けた。黒馬が転倒し、輿は地面に投げ出された。先程の歩兵が喊声を上げて輿に突進した。佩剣を抜き、倒れている輿へ突き下ろした。輿は径路刀を抜き、突き下ろされた剣を横に弾いて地を突かせた。足を振り上げ、歩兵を蹴り倒した。起き上がろうとした歩兵に組みつき、組み敷いた。歩兵の顎の下へ、径路刀を突き入れようとした。歩兵は輿の手を掴み、径路刀を押し返そうとした。径路刀の刃が小刻みに震えながら、少しずつ歩兵の喉へ近づいた。径路刀の尖端が皮膚に触れた時、輿の横顔に弓弩兵の拳が叩き込まれた。輿は歩兵の上から転げ落ちた。弓弩兵は腰の直刀を抜き、倒れている輿へ振り上げた。


「待て」


 直刀を制止する声が、辺りに響いた。


「その男を殺すな」


 馬蹄の響きが輿と弓弩兵に近づいた。立国将軍孫建の補佐官、竇融が馬を走らせながら弓弩兵に叫んだ。


「その男は、王昭君の子だ。殺してはならない」


 直後、烏珠留単于に率いられた匈奴軍が、一里(約四百メートル)の距離まで新軍に迫った。

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