第三十七話
タリム盆地では、
「時間切れか」
烏珠留単于は馬上で天を仰いだ。馬首を巡らし、タリム盆地から撤退することを指揮下の将兵に伝えた。
「おれたちが兵を退けば、ようやく手に入れた都市を新軍に奪われます。これまでの戦いが、匈奴の戦士たちの死が無駄になる」
「右屠耆王」
単于の馬を追う輿の黒馬の横に、
「敵が匈奴の領土へ攻め入ろうとしている時に、戦士たちを率いて敵を防ぐべき単于が不在となれば、民の心が離れます。おれたちの父の時代のように、匈奴が分裂することも起こり得る。一つに団結していてさえ勝利は遠いのに、二つに分裂すれば匈奴は新に勝てない。匈奴の分裂を防ぐために、今は東へ戻るべきです」
匈奴軍はタリム盆地での作戦を中止し、東へ引き返した。烏塁に籠城していた新軍が動き出した。固く閉じられていた烏塁の城門が開かれ、匈奴軍に与したオアシス都市に黄旗の大群が攻め寄せた。都市が陥落した、親匈奴派の人間が殺された、という凶報を振り切るように匈奴軍は疾駆し、
匈奴単于国の北西部総督、
「負けたのか」
烏珠留単于は呻いた。丁零は匈奴単于国の北に割拠する民族で、右谷蠡王を撃破した後は
「単于」
顔を蒼褪めさせている烏珠留単于へ、須卜当が馬を近づけた。
「おれを大いなる湖へ行かせてください」
「右骨都侯」
「必ずや丁零を大いなる湖から撃ち払います」
「五百騎。それ以上は、大いなる湖の防衛には割けない」
「二百騎で十分です」
「右骨都侯」
「二百騎で十分です」
須卜当は繰り返した。数秒、烏珠留単于は沈黙して須卜当を見つめた。
「おまえの勇気に、天が報いることを祈る」
「感謝します」
須卜当は馬首を返した。走り出した須卜当の馬の横に、
「おまえも行くのか?」
「大いなる湖には友人がいる。助けてやらねえとな」
「足手纏いになるなよ」
須卜当は二百騎を率いて北へ駆けた。大いなる湖へ急ぐ途中、草を求めて移動する兵站用の羊群を前方に見た。羊群の横を駆け抜けようとした時、須卜当の妻、
「須卜当さま!」
云は馬を須卜当と並走させた。手にしていた革袋を須卜当へ投げ渡した。須卜当が革袋の口を開くと、出来たばかりの
「
云は盧芳にも革袋を投げ渡した。盧芳は革袋を受け取ると、ありがとうよ、今日も匈奴一の美人だぜ、と破顔した。云に続いて
須卜当を大いなる湖へ向かわせた烏珠留単于は、左骨都侯の軍と合流するために東へ急いだ。途中、またしても凶報に接した。新帝国と交渉を試みていた
「……そうか」
烏珠留単于は瞑目した。右犂汗王の三人の子、
砂塵を含んだ風が沙漠を過ぎた。助、登、角の騎影が、烏珠留単于に見送られて軍から離れた。三騎の生還を天に祈り、烏珠留単于は軍を東へ進めた。幾日も沙漠を駆け、左骨都侯の軍と合流した。牧民の避難は進んでいるか、と左骨都侯に訊ねた。抜かりなく、と左骨都侯は答えた。烏珠留単于は頷き、新軍の侵攻に備えて兵馬を休ませた。何事もなく十日が過ぎ、二十日が過ぎた。五十日が過ぎ、百日が過ぎた。タリム盆地の親匈奴勢力が駆逐された、という報告が西から届き、大いなる湖の戦況が芳しくない、という報告が北から届いた。大いなる湖へ援軍を送るべきではないかと思い、右屠耆王輿と左骨都侯を呼んで相談した。援軍を送るべき、と左骨都侯は言い、須卜当を信じるべき、と輿は主張した。更に百日が過ぎた。斥候が息を切らして烏珠留単于の馬前に駆けつけた。ついに新軍が攻めてきたか、と表情を緊張させた烏珠留単于に、斥候は報告した。
新軍に捕らわれていた右犂汗王が、助、登、角に救出された。
「右犂汗王が」
烏珠留単于は驚いた。驚きすぎて気が遠くなり、どさりと馬から落ちた。側近たちが驚いて馬を下り、気を確かに、と烏珠留単于を助け起こした。助け起こされた烏珠留単于の口から笑い声が漏れた。
「聞いたか。右犂汗王が助け出された。右犂汗王が助け出されたぞ」
烏珠留単于は笑いながら側近の肩を叩いた。側近たちは顔を見合わせた。数秒の間を置き、歓声を上げた。久しく聞いていない朗報に、皆、気分を昂揚させた。烏珠留単于は斥候へ目を戻した。
「それで、右犂汗王たちは今、どこにいる?」
単于に問われ、斥候は顔を俯かせた。右犂汗王を救出する過程で助が命を落とし、登が新軍に捕らえられたことを、斥候は烏珠留単于に報告した。烏珠留単于の顔から笑みが消え、先程まで歓声を上げていた側近たちが沈黙した。
二日後、右犂汗王と角が烏珠留単于の馬前に現れた。右犂汗王を
陽が落ちて空が暗くなり、風が冷たさを増した。暖を取るために、家畜の糞を乾燥させたものを烏珠留単于は燃やした。於粟置支侯を火の近くに座らせた。
「新軍が、長城に兵を集めている」
烏珠留単于の顎の先から、血が滴り落ちた。
「長城の防衛にしては多すぎる数だ。恐らくは我らの領土に攻め入ろうとしているのだろうが、一向に攻めてこない」
「皇帝は――」
於粟置支侯が口を開いた。
「――三十万の大軍で匈奴を攻め、単于を大いなる湖の北へ追いやり、匈奴を分割して十五人の単于を立てようとしています」
新軍に捕らえられている間に知り得た情報を、於粟置支侯は烏珠留単于に話した。新軍が三十万の大軍を六つに分け、六路から北へ攻め込もうとしていることを話した。新軍が擁立しようとしている十五人の単于の中に、自分も含まれていたことを話した。新軍が三十万人分の食糧を調達することに手間取り、未だに北へ進軍できずにいることを話した。話しながら、一口、また一口と乾し肉を齧り、咀嚼した。
「単于」
風が鳴り、於粟置支侯の双眸に映る炎が揺れた。
「単于、どうか――」
「駄目だ」
於粟置支侯が何を言おうとしたのか、烏珠留単于は察した。
「おまえが行けば、必ず角も共に行く」
「角には、おれから言い聞かせます」
「無駄だ。あんなことが起きた後で、おまえを一人で行かせるわけがない」
「おれが説得します」
「不可能だ」
「説得します」
「
於粟置支侯の名を、烏珠留単于は呼んだ。
「咸、よく聞け」
家畜の糞を乾燥させたものを、烏珠留単于は火の中へ抛り入れた。
「皇帝が新たに十五人も単于を立てようとしていて、おまえが十五人の単于の一人にされようとしていたのなら、恐らく登は、おまえの代わりにされるはずだ。おまえが生かされていたように、登も殺されることはない。焦らずとも、登を救出する機会は必ず訪れる」
抛り入れられた糞が燃え上がり、地面を赤く照らした。夜が更け、火が灰になり、朝になり、曙光が灰を照らした。烏珠留単于は灰の近くに側近たちを集めた。新軍が食糧を集められず、匈奴単于国へ侵攻できずにいることを、共に馬上で朝食の乾酪を食べながら側近たちに伝えた。左骨都侯が口をもぐもぐさせながら、動けない新軍を放置して大いなる湖の救援に向かうことを提案した。於粟置支侯咸が、三十万の大軍で侵攻してくることはなくとも、一万から二万程度の兵力で攻めてくる可能性はある、と反対した。続けて、季節は既に秋を過ぎ、多数の遊牧民が冬を越すために南へ移動していることを指摘した。貴重な製鉄所を守るために大いなる湖へ向かうべきか、それとも新軍の万一の侵攻から遊牧民を守るために留まるべきか、烏珠留単于は食事の手を止めて思案した。勝つためには賭けに出ることも必要と考え、乾酪を口の中へ押し込もうとした時、東から急報が届いた。
新帝国の従属国の一つ、
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