第三十六話

 タリム盆地の東、彷徨える湖ロプ・ノールから四千里(約千六百キロメートル)の距離を隔てた帝都常安じょうあんでは、連日、匈奴フンヌ軍による破壊、掠奪、殺戮の被害が大新だいしん皇帝に伝えられた。何万人もの辺境民が虐殺されていることに加え、辺境守備軍の敗走、城塞の陥落、等級二千せきの高官を含む多数の官吏の殉職が報じられた。皇帝は当初、匈奴単于ぜんう国へ詰問の使者を送ろうとしたが、相次ぐ被害報告を受けて使者の派遣を取り止め、匈奴単于国への対応を協議するために群臣を招集した。


 協議が始まろうとした時、三年前の翟義てきぎの乱で活躍した老将、孫建そんけんが発言した。曰く、帝都常安に聞き捨てならない噂が流れている。翟義の乱を起こして処刑されたはずの翟義が、実は匈奴単于国で生存しており、大漢だいかん帝国を再興するために匈奴軍を率いて大新帝国へ攻め込んでいる。国境の新軍が簡単に撃破されたこと、そして、上官を殺して匈奴軍に投降したタリム盆地駐留軍の武官二人が、単于から漢帝国の将軍の称号を与えられたことが、その証左であるという。


「無論、この噂は事実ではありません。翟義は確かに処刑されました。国境の軍が敗れたのは不意を衝かれたからであり、投降した武官に漢の将軍の称号が与えられたという話などは、全くの嘘です。このような嘘が真実のように人の口に上るのは、天が漢を廃して大新を興したにも関わらず、未だに漢の権威を恃む輩が後を絶たないからです。そこで臣、孫建は進言いたします。漢室に連なる者の内、爵位を有する者は庶人に落とし、六百石以上の官職に在る者は免じるべきです」


 孫建の発言を聞いて、群臣の視線が皇帝の側近の一人、劉歆りゅうきんへ集中した。劉歆は当代随一の儒学者、数学者、暦学者、天文学者であり、等級六百石以上の高級官僚であり、漢室に連なる一人でもある。劉歆も爵位剥奪、公職追放の対象になるのか、という群臣の無言の問いに、孫建は答えた。


国師こくしは別です」


 国師、とは劉歆が任命されている官職である。


「臣が問題にしているのは、大新帝国に対して何の功も無く、漢の高祖こうその子孫であるというだけで高禄を食んでいる者たちです。そのような者は漢の天下であれば敬われて然るべきですが、今は大新の天下です。そのことを万民に知らしめ、人心が流言に惑わされることを防ぐために、大新に功無き劉氏は排除すべきです」


 皇帝は孫建の進言を容れるべきか否か、群臣に問うた。国師劉歆を含む大多数が孫建を支持した。皇帝は孫建の進言を容れ、漢室劉氏の剥位免官を決めた。


 議題が匈奴単于国への対応に移された。匈奴軍の攻撃による被害が改めて報告された。匈奴軍に破壊された城塞、匈奴軍に殺害された官吏、匈奴軍に焼き払われた村落の名が読み上げられた。一時間、二時間と過ぎても報告は終わらず、被害の凄まじさに群臣の多くが怒りを漲らせた。ようやく被害報告が終わり、皇帝が匈奴単于国への対応を群臣に問うた。武力で報復すべし、と多数の群臣が声を大にして主張し、戦争は避けるべき、と考えている少数の群臣は沈黙した。皇帝は群臣の主張を容れ、予め側近らと考えていた軍事作戦を発表した。


 帝国全土から兵士を動員し、万里の長城を越えて匈奴単于国へ侵攻する。匈奴単于国の領土の内、大いなる湖バイカル・ノール以南の地域を制圧し、烏珠留単于と単于の支持勢力を北方へ追いやる。そして、制圧した大いなる湖以南の地を十五の小国に分け、それぞれに単于を擁立する。


 動員する兵士の数は三十万。三十万の兵を統率する司令官は孫建、と皇帝は発表した。匈奴単于国を十五の国に分割する、という壮大な作戦に群臣は驚いた。これは歴史的な壮挙であると過半数の群臣が興奮し、作戦に賛成する言葉を競うように口にした。皇帝は多数の賛成を得て深く頷き、直ちに軍を動かすよう命令を発しようとした。


頓首死罪とんしゅしざい


 命令を発しようとした皇帝を制するように、群臣の列の後ろから声が響いた。


「頓首死罪、頓首死罪」


 方形の冠を被り、床を擦りそうなほどに裾が長い衣服を着た男が、同様の格好をした群臣を掻き分けるようにして前へ出てきた。


「頓首死罪、頓首死罪、頓首死罪」


 頓首して死罪を乞う――皇帝に対して畏れ多くも私見を述べたことを謝罪する、という意味の慣用句を繰り返しながら、男は玉座の前へ進んだ。頓首死罪、と恭しく跪き、頓首死罪、と両手を揖礼の形に重ね合わせ、頓首死罪、と自らの額を床に着けた。


「頓首死罪。然れども、一言して死なん」


 死を賜る前に一言だけ申し述べたい、と男は叫んだ。あの者は誰か、と皇帝は左右の秘書官に訊ねた。荘尤そうゆう――三年前の翟義の乱で戦功を挙げた武官であると秘書官は答えた。ならば良将に違いない、と皇帝は言い、荘尤に発言を許した。荘尤は床から額を僅かに離した。


「臣が思いますに、匈奴は辺境で非道の限りを尽くし、如何にも猛々しげに見えますが、所詮は虚勢を張るだけの小国に過ぎません。これを伐つために三十万もの大軍を動かすのは、雀を射るために大弩おおゆみを持ち出すが如きもの。あまりにも過大です」


 そもそも、と荘尤は声を強めた。そもそも三十万の大軍を動かすには、当然、三十万人の将兵に食べさせる膨大な量の食糧が必要である。しかし、帝国北辺の国境地帯では冷害による不作が何年も続いており、現地の官庫に備蓄されていた食糧を窮民救済のために放出しているため、三十万の大軍に十分な量の食糧を供給することが出来ない。


「食糧は、南から運べばよい」


 皇帝の側近の一人である甄豊しんほうが口を挿んだ。甄豊は三年前の翟義の乱では大して活躍できず、活躍した孫建を批判して足を掬おうとするも成功せず、その後も政権内で確たる存在感を示せず、皇帝の著名な側近の中では比較的下位の官職に甘んじていた。そうした現状が甄豊は不愉快でならず、何とか自らの地位を上げようと表でも裏でも動いていた。匈奴単于国への侵攻作戦の立案にも積極的に関与しており、公然と作戦に異を唱えた荘尤に不快感を覚えた。


「大新帝国は広大であり、穀倉は幾らでもある。北の官庫に食糧が無いのなら、南から食糧を輸送すれば、軍糧が不足することはない」


「然らば――」


 荘尤は甄豊へ目を向けた。


「――甄更始こうしに問い申す」


 更始、とは甄豊の官職、更始将軍の略称である。


「匈奴の単于を北へ追い込み、十五の国を建てた上で帰還するとなれば、戦いの期間は少なくとも三百日に及びます。兵士一人が三百日に必要とする食糧は十八こく(約三百キログラム)。それが三十万人分となれば、五百四十万斛(約九万トン)が必要になります」


 五百四十万斛、という凄まじい数字を聞き、群臣が騒めいた。


「五百四十万斛もの食糧を、一体、どのようにして運ぶつもりでおられるのか」


「それは、牛馬を使い――」


「何頭の牛馬を使われるのか」


「それは――」


「牛馬の飼料はどうされるつもりか。どのようにして飼料を集め、どこへ、どのように運ぶつもりでおられるのか。また、仮に食糧を輸送できたとして、長城を越えて匈奴へ侵攻する際は、如何にして食糧を運ぶのか。兵士一人一人に十八斛の食糧を背負わせるのか。それとも牛馬で運ぶのか。牛馬で運ぶのならば、少なくとも二十万頭は必要になるが、如何にして二十万頭分の飼料を集め、運ぶつもりでおられるのか。牛馬の飼料の運搬にも牛馬を使われるつもりか」


「それは、その――」


 甄豊は返答に窮した。周囲を見回し、侵攻作戦に賛成した群臣に目で助けを求めたが、群臣は皆、甄豊から目を逸らした。荘尤は顔を玉座の方へ向け直した。


「匈奴を伐つに、三十万の大軍は過大です。どうか、臣、荘尤をして軽鋭の士卒三万を指揮せしめ、万里の長城の北へ攻め入らせてください。風の如く、火の如く、沙漠と草原を攻め進み、単于を捕らえて常安へ連行します」


 頓首死罪、と荘尤は再び床に額をつけた。甄豊は顔を赤くして歯軋りした。この男の言うことを聞いてはならない、と荘尤を指して喚き、この男は戦功を独占したくて大言を吐いているのだ、自分に兵を指揮させろとほざいたのがその証拠だ、と主張した。群臣は甄豊の主張に同調せず、荘尤にも味方せず、玉座の上の皇帝を窺い見た。皇帝の口が厳かに開かれた。


「荘侍中じちゅう


 侍中、とは荘尤の官職である。荘尤は武官であるが、軍事に関する見識を評価され、侍中、すなわち皇帝の諮問に応答する官職を兼任している。


「単于を捕らえ、常安に連行したとして、その後はどうなる?」


「その後?」


「単于を処刑すれば、それで匈奴の侵寇は終わるのか?」


「それは――」


大司馬だいしば


 皇帝の赤い重瞳が、大司馬、すなわち軍務長官の甄邯しんかんへ向けられた。皇帝が皇帝になる前から参謀役を務めている甄邯は、一礼して皇帝の問いに答えた。


「単于を処刑するのみでは、匈奴の侵寇が終わるとは言い切れません。すぐに次の単于が立ち、その指導の下で侵寇が続くかも知れません。次の単于の座を巡り、内乱が起きるかも知れません。内乱が起きれば匈奴の牧民は困窮し、その一部は盗賊となり、大新帝国へ侵入して掠奪を働くかも知れません」


「孫立国りっこく


 立国将軍の孫建へ、皇帝は目を移した。


「そなたの意見は?」


「匈奴人は粗野で剽悍です。国が乱れ、生活に窮すれば、匈奴人は悉く盗賊となり、辺境の治安を乱すでしょう」


「国師は、如何に思うか?」


「臣が思いますに、匈奴は漢に帰順して以降、忠孝に励んで国境を保守し、南北の和親を維持してきました。今、匈奴単于は長城を越えて各地で罪を重ねており、これを処罰することは当然ですが、これまで和親に努めてきた匈奴の民を、単于一人の罪のために苦しめることは徳に悖ります。匈奴の民の苦しみを和らげ、且つ大新と匈奴の永久不変の和親を実現するために、匈奴の地に新たな秩序を確立することこそ、聖天子せいてんしの――」


 聖天子、とは儒学の用語で明君を意味する。


「――為政であると考えます」


「荘侍中」


 国師劉歆から荘尤へ、皇帝は目を戻した。


「大司馬、孫立国、国師らが述べた通りである。朕の望みは、大新と匈奴の平和共存であり、匈奴を苛むことではない。単に匈奴を伐つのみでは、北方の秩序が乱れ、民が苦しむばかりである」


 その通り、と甄豊が大きく頷いた。そこにいる荘とやらは視野が狭すぎる、燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや、小人物に大人物の大志は解らない、と荘尤を嘲笑した。荘尤は甄豊を相手にせず、玉座の方へ更に声を張り上げた。


「しかし、先程も申し上げましたように、三十万もの大軍を北へ動かすことは、極めて困難です」


「如何に困難であろうとも、恒久平和の実現のために、成し遂げねばならない」


「平和を願うのは臣も同じです。しかし――」


「あの――」


 皇帝と荘尤の間に、恐る恐る、という様子で声が挿し込まれた。皇帝と群臣の目が一斉に声の方を向いた。


大司空だいしくう、何か?」


 大司空、すなわち監察長官の王邑おうゆうに、皇帝は訊ねた。王邑は群臣の列の中から前へ進み出た。進み出る途中、衣服の裾を踏んで躓き、転びかけた。転びかけた拍子に傾いた冠を手で正し、玉座の前で跪いて両手を揖礼の形に重ね合わせた。


「敢えて言上します。大新帝国は聖天子の下、天下の俊英賢才が朝廷に集い、日夜、帝国と臣民の安寧のために励んでおります。如何に匈奴征伐が困難であろうとも、朝臣が協力して努めれば、成し遂げられないことはないはずです」


 その通り、と甄豊が頷いた。王邑は更に語を継いだ。


「また、臣が思いますに、そこにおられる荘侍中は、智勇に優れた人物です。荘侍中を匈奴征伐軍に加えることを、進言いたします」


 何を言われるか、と甄豊が顔色を変えた。この荘という男は妄言して和を乱し、味方の結束を妨げる、このような者を匈奴征伐、十五単于擁立の壮図に加えるべきではない、と強く反対した。王邑は聞こえない振りをして、頓首死罪、と自らの額を床に着けた。


 数日後、匈奴征伐の命令が正式に発せられた。征伐軍の総司令官の孫建に、軍の指揮権の象徴である黄鉞こうえつ――黄金色の斧が与えられ、孫建の下で戦う十二人の将軍の中に荘尤が名を連ねた。十二将軍に率いられる予定の軍が帝国の各地で動き出した。帝国の東、海に面した地域の軍は、海風に黄旗を翻して街道を北上した。帝国の西、険しい山岳に囲まれた地域の軍は、鳥が渡る断崖の桟道さんどう――絶壁に穿たれた穴に丸太を挿し、その上に板を渡して築かれた道を行軍した。帝国の南、大小の河川が縦横に流れる地域の軍は、淡水生の小型の歯鯨カワイルカが戯れる大河を巨船で進んだ。


 匈奴征伐の命令が発せられた翌日、皇帝王莽おうもうは政務の合間を縫い、伯母である太皇太后王政君おうせいくんを訪ねた。王政君は大漢帝国が廃された後、体調を崩すことが増えた。その日も体調が優れず、寝台に横臥して定安ていあん太后に看病されていた。皇帝の来訪が太皇、定安の二太后に伝えられると、定安太后は扇いで冷ましていた薬湯を卓の上に置き、部屋の隅の方に控えた。皇帝王莽が入室し、卓の上の薬湯に気づいた。薬湯の器を取り、仄かに湯気を上げている薬湯を扇いで冷ました。部屋の外を冬の寒風が吹き抜け、部屋の中に置かれている方形の火鉢の火が、ぱち、ぱち、と小さな音を立てた。空の器が卓の上に置かれた。王莽は改めて寝台の近くに跪き、両手を胸の前で重ね合わせて深く一礼した。


「一日も早く快復されることを、天に祈ります」


「近頃は――」


 頭を転がすようにして、王政君は王莽の方へ顔を向けた。


「――そなたも、体調が優れないことが多いと聞いた。きちんと休んでいるのか?」


「天下には、救いを待つ窮民が数多おります。わたしが一日休めば、民の救済が一日遅れます。それを思えば、とても休んではおれません」


「立派なことだ」


 王政君は王莽から目を逸らした。立ち上がるよう、手で王莽を促しながら、少しの間、皇帝と二人だけにするよう、定安太后に頼んだ。定安太后は皇帝と太皇太后に一礼し、女官たちと宦官たちを連れて退室した。立ち上がり、娘を見送る王莽の背中に、王政君は話しかけた。


「善い娘だ。あの子を見ていると、過日の新都侯を思い出す」


「娘には、これまで苦労をかけてきました。これからは、何も背負わず、何にも煩わされず、一人の女として穏やかに生きてほしいと、そう考えていたのですが」


「そなたには、わかるまいよ」


 王政君は息をついた。大漢帝国が滅びて大新帝国が成立し、新たな時代の到来と共に年号、暦法、地名、度量衡等が改められたが、王政君は今も帝都常安を長安ちょうあんと呼び、暦も大漢帝国時代のそれを引き続き用いている。そのような王政君の姿勢を一部の官僚が問題視し、王政君から太后位を剥奪すべきと王莽に上奏したが、王莽は激怒して上奏文を床へ投げ、上奏した者を死刑に処している。


「これを――」


 病床に臥す伯母のために持参したものを、王莽は王政君に見せた。


「――ご覧ください」


「……それは?」


「南方から献上された鳥です」


 伯母のために持参した鳥籠の扉を、王莽は開けた。鳥籠の中にいた小型の鸚鵡オウムを、自らの手に止まらせて鳥籠の外へ出した。王政君は鸚鵡を見た。


「その鳥が――」


 その鳥がどうかしたのか、と王政君が甥に訊ねようとした時、鸚鵡が鳴いた。


 天地ノ性、人ヲ貴シト為ス。人ノ行イハ、孝ヨリ大ナルハ莫シ。


 王政君は僅かに目を見開いた。驚いているらしい王政君を見て、王莽は穏やかに目を細めた。


孝元こうげん孝成こうせいの二帝が――」


 王政君の夫に当たる皇帝の諡号と、王政君の子、あざな太孫たいそんの諡号を、王莽は口にした。


「――儒学の振興に尽力されて以降、儒学は世に遍く拡がり、今や鳥獣でさえも儒学の聖句を唱えるようになりました」


 父子ノ道ハ天性ナリ、と鸚鵡が鳴いた。父母、之ヲ生ム、續クコト、焉ヨリ大ナルハ莫シ、と鸚鵡は続けた。


「この鳥の声を聞いていると、日々の政務の疲れが癒されます。太皇太后にも、是非、聞いていただきたいと思い、御前に連れて参りました」


 順ヲ以テスレバ則リ、逆ナレバ民ハ焉ニ則ルコト無シ、と鸚鵡が鳴いた。王政君は鸚鵡へ手を伸ばした。父母を喜ばせようと、熱心に儒学を学んでいた幼い太孫を思い出し、鸚鵡の羽に触れようとした。


 鸚鵡の脚の片方が、紐で鳥籠に繋がれていることに、王政君は気づいた。


「匈奴と、戦争をするそうだな」


 王政君の手が、鸚鵡から離れた。


「三十万の大軍で匈奴を伐ち、十五人の単于を立てると聞いた」


「辺境の臣民を守るためです」


「戦争などせずとも、臣民は守れる。単于に持たせる金印の文字を旧に戻せばよい」


「それは出来ません」


「なぜだ」


「匈奴は武力を濫用し、大新帝国の臣民を虐殺しました。もし匈奴の要求を容れ、単于の金印の字句を戻せば、今後、大新帝国に要求を突きつける国は、匈奴の成功に倣い、大新の民を殺戮するようになるでしょう。悪しき前例を後の世に遺さないために、今は毅然として戦いに臨むべきです」


「今さら言うても仕方がないが、金印の文字を変えなければよかったのだ」


「孔子曰く、天に二日無く、民に二王無し」


 空に太陽が一つしか存在しないように、人民の指導者は一人でなくてはいけない、という意味の儒学の言葉である。


「王は一人でなくてはなりません。二人も三人も王がいれば、世が乱れます。しゅうが衰微して七王が乱立した時、各地で戦争が繰り返されたこと、また大漢の孝景こうけい皇帝の治世中、呉楚ごそ七国の乱が起きたことが、それを証明しております。匈奴を大新と対等の国と認めることは、二王を並び立たせるに等しく、天下太平を妨げます」


孝宣こうせん皇帝は、匈奴を大漢と対等の国と認めたが、争いは――」


「争いは起きております。匈奴は大漢の庇護下にあるはずの烏桓うがんを攻め、大勢の牧民を拉致しました。大漢と対等であるという驕りからの振る舞いです。また、西方の諸王の間でも争いが絶えず、争いに敗れた王が匈奴を頼り、大漢の下から離脱するということも起きています。これらは全て、民に二王無し、という儒学の教えが守られていないからです。この過ちを放置すれば、大新にも災禍が及ぶやも知れず、それを未然に防ぐためには、儒学の教義に適う秩序を新たに――」


 ごほ、ごほ、と咳をする音が立て続けに響いた。は、と王莽は我に返り、寝台へ体を寄せた。鸚鵡が王莽の手から飛び立ち、病メバ則チ其ノ憂イヲ致シ、と鳴きながら鳥籠の上に止まり、喪エバ則チ其ノ哀シミヲ致シ、と鳴いた。


「太皇太后」


「大事ない。少し疲れただけだ」


「申しわけありません。このような話をするつもりは――」


「気にするな。始めたのは、わたしだ」


「医官を呼びます」


「莽」


 人を呼ぶために寝台から離れようとした王莽の衣を、王政君は掴んだ。


「昔、孝宣皇帝が言われた。政治は、王道と覇道を使い分けることが肝要であると」


 王政君が言う王道とは、儒学の教義を順守した統治のことであり、覇道とは、力による支配のことである。


「孝宣皇帝は、覇道に父を殺された。母を、兄を、姉を、そして、妻を殺された。誰よりも覇道を憎み、王道を求めておられた。それでも、孝宣皇帝は、孝宣皇帝は――」


 その時の情景を、王政君は脳裏に蘇らせた。病に倒れ、もう余命幾許もない孝宣皇帝の許を、王政君は二歳の太孫を連れて訪れた。昨日、教えたばかりの儒学の聖句を、寝台に横たわる孝宣皇帝の傍で唱えさせた。太孫が聡明な子であり、必ずや王道で帝国を治めるであろうことを、孝宣皇帝に伝えるためにそうした。太孫は何度も間違え、その都度、王政君に正されながら聖句を唱え終えた。孝宣皇帝の病み衰えた手が上がり、太孫の頭を撫でた。太孫は無邪気に笑んだ。孝宣皇帝は穏やかに微笑み返した。孝宣皇帝の口が微かに開き、次の瞬間、孝宣皇帝の目の端から涙が零れた。


「あの時の――」


 王政君の病み衰えた手が、王莽の衣を放した。


「あの時の、孝宣皇帝の御顔が、近頃は妙に思い出されてならない」


 眠るように王政君は目を閉じた。礼ハ敬ウノミ、と鳥籠の上の鸚鵡が鳴いた。故ニ其ノ父ヲ敬エバ則チ子ハ悦ビ、其ノ兄ヲ敬エバ則チ弟ハ悦ビ、其ノ君ヲ敬エバ則チ臣ハ悦ブ、之ヲ此レ要道ト謂ウナリ、と鸚鵡は鳴き続けた。

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