第三十五話
万里の長城を越えて大新帝国に侵入した
「捕虜は取るな。家畜も捨て置け。奪うのは鉄と食糧だ」
また須卜当の弓が鳴り、逃げ惑う農夫の脚を矢が射貫いた。農夫の子供と思しき少年が農夫に駆け寄り、農夫を助け起こそうとした。おれに構うな、逃げろ、と農夫は少年を突き飛ばした。少年は農夫から離れず、助け起こして一緒に逃げようとした。馬蹄の轟きが農夫と少年の背中に迫り、その上を通りすぎた。
農村に火が放たれた。地平に立ち昇る無数の黒煙を見て、新帝国の国境警備隊が異変に気づいた。万里の長城の関門を守る城塞から数百の兵が出撃し、黒煙の下へ急いだ。数十騎の匈奴軍騎兵と、匈奴軍騎兵に連行されている農民の列を見つけた。女や子供や老人も連行されている様を見て、新軍の指揮官は怒りに駆られた。数百の兵士が喊声を上げて匈奴軍へ突撃し、匈奴軍は農民を置いて逃走した。新軍は数十人の老若男女を保護した。直後、四方で土煙が上がり、馬蹄の轟きが急速に近づいてきた。長駆して疲労している新軍兵士の頭上に矢が降り注いだ。戦闘は短時間で終わり、鉄の武具を剥ぎ取られた新軍兵士の遺体と、囮に使われた老若男女の屍が、彼方へ駆け去る土煙の後に残された。
大新帝国の北部辺境一帯で破壊、掠奪、殺戮が行われた。辺境を警備していた新軍が撃ち破られ、万里の長城の関門の一つが匈奴軍の手に落ちた。匈奴軍の総指揮を執る
烏珠留単于の狙いは、タリム盆地で生産されている鉄である。鉄は匈奴単于国でも生産されているが、その量は決して多くない。指揮下の騎兵に鉄製品の掠奪を命じているが、戦争で消費される大量の鉄を掠奪だけで賄えるはずもない。何か手段を講じねば鉄が不足することは明らかであり、烏珠留単于はタリム盆地のオアシス都市国家群を制圧することで、鉄を大量、且つ安定的に確保しようと考えた。
左骨都侯を帝国北辺で暴れさせ、帝国の注意をタリム盆地から逸らしながら、烏珠留単于は三千騎を率いて西へ進んだ。途中、補給のために帝国の集落を幾つも襲撃した。帝国の領土に幾度も侵入したことがある
その集落は、小規模ながらも灌漑設備があり、よく手入れされた畠があり、牛や羊が放牧されていた。二十人ほどの若者が働いていた。匈奴軍が土煙を巻き上げて近づくと、若者たちは集落を囲う塁壁の内へ逃げた。数人の屈強な若者が塁壁の陰に伏せ、匈奴軍に矢を射た。数倍の数の矢が匈奴軍から射返された。若者たちは堪らず塁壁の裏に隠れ、その隙に匈奴軍は集落の門へ接近した。門を守るために、若者たちは危険を冒して塁壁の上に身を晒し、匈奴軍の騎兵を射ようとした。輿の手許で数度、弓弦の音が鳴り響き、若者たちは頭を射貫かれて倒れた。少年が一人、塁壁の上に現れ、門を破壊しようとする匈奴騎兵に石を投げた。次の瞬間、数本の矢が少年の体を貫き、少年は塁壁の向こう側へ転がり落ちた。
匈奴軍は門を破壊して集落へ入り、尚も斧や耒耜、投石で抵抗する若者たちを殺した。家屋へ押し入り、物資を掠奪した。豆、麦、乾した肉、
その何者かは、遠目には老いた男のように見えた。棒の先に鉄球がついた
「殺せ」
輿は追いかけてくる老人を敵と判断し、指揮下の騎兵に命じた。一騎が反転し、老人へ馬を走らせながら弓を構えた。弦音が鳴り、老人へ矢が飛んだ。老人は右手の錘を鋭く振り、矢を叩き落とした。匈奴騎兵が次の矢を矢箙から引き抜いた。再び弓を構えるよりも早く、匈奴騎兵の馬と老人の馬が交錯した。交錯する瞬間、老人の左手の錘が横殴りに振られた。
匈奴騎兵が頭を叩き割られ、吹き飛ぶように馬から落ちる様を、輿は肩越しに見た。同じく仲間が頭を割られる様を見た二騎が、反転して老人に挑んだ。二騎から同時に放たれた二本の矢を、老人は双つの錘で叩き落とした。僅かに時間差をつけて放たれた二本の矢も、双錘に叩き落とされた。もう次の矢を放つ間も無いほどに、老人の双錘が二騎に近づいた。二騎は双錘を避けるために左右に分かれた。老人は迷わず、自分から見て右の騎兵を追いかけた。老人の馬が右の騎兵の馬に追いつき、老人の左手の錘が騎兵の後頭部に叩き込まれた。その間に左の騎兵が老人の背後に回り込み、次の矢を矢箙から引き抜いた。弦音が鳴り、老人の背中へ矢が飛んだ。必殺を期した一矢は、背中に目があるかの如く振られた双錘に弾かれた。何かを罵る声が、左の騎兵の口から放たれた。騎兵の手が弓を横へ投げ、新軍から掠奪した直刀を抜いた。馬を反転させた老人へ向けて、騎兵は雄叫びを上げながら突進した。
老人の馬と匈奴騎兵の馬が馳せ違い、騎兵の雄叫びが絶えた。馬から落ちる騎兵を一瞥もせず、老人は匈奴軍の方へ馬首を巡らした。匈奴の戦士が三人も返り討ちにされたことが輿に伝えられた。次は自分が、と志願する戦士たちの声を、輿は制した。
「おれがやる」
輿は馬を反転させた。老人の方へ馬を駆けさせながら、矢箙から矢を引き抜き、弓を構えた。矢を放たず、馬を走らせ続けた。確実に一矢で殺すために、放たれた矢に反応できないであろう距離まで近づこうとした。輿の黒馬と老人の馬が急速に近づき、老人が双錘の一方を肩の上に振り上げた。老人の口から雄叫びが放たれた。輿も咄嗟に雄叫びを返した。輿の黒馬と老人の馬が更に近づき、二つの雄叫びが擦れ違う寸前、輿の手許で弦音が鳴り、次いで老人の錘が轟と振られた。
二つに叩き折られた弓が、輿の左手から飛んだ。
輿の黒馬と老人の馬が馳せ違い、土煙を上げて離れた。輿は疾駆する黒馬の上から転げ落ちた。僅かに遅れて、どす、どす、と老人の双錘が地面に落ち、どさ、と老人が落馬した。
風が鳴り、双つの錘の上を砂塵が過ぎた。輿の黒馬が輿の許へ戻り、倒れている輿の顔を舐めた。輿は右手で黒馬の鬣を掴み、体を起こした。左手の痺れに顔を顰めながら立ち上がり、大きく息を吐いた。
左手の痺れが、勝敗を分けた一瞬を思い出させた。老人が雄叫びを上げた時、反射的に右手が動き、矢を放ちかけた。咄嗟に叫び返し、老人の気迫に対抗した。そうしていなければ、老人が反応できる距離で矢を放ち、次の一矢を射る前に頭を叩き割られていた。
肩を射貫かれて倒れている老人へ、輿は目を向けた。仰向けに倒れている老人の顔を、老人の馬が覗き込んでいた。老人のことを心配しているように見えて、少しだけ胸が痛んだ。
「殺せ」
匈奴単于国の公用語が、老人の口から出た。輿は径路刀を半ばまで抜いた手を止めた。老人の口から匈奴の言葉が出たことに、僅かながら動揺した。また老人の口が動いた。
「早く殺せ」
「なぜ――」
輿は改めて老人の顔を見た。老人は髪と髭が白く、一方で声は意外と若く、日焼けした肌に皺は少なく、それほど老いてはいないように見えた。
「――なぜ、こんなことをした。おまえほどの戦士なら、勝てるはずがないことはわかっていたはずだ」
「おまえたちが――」
向こうへ行け、というように、老人は愛馬の顔を押した。老人の馬は老人から離れず、老人の手を頬で押し返した。
「――おれの家族を殺したからだ」
「家族?」
自分たちが集落を襲い、若者を二十人以上も殺したことを、輿は思い出した。
「そうか。それは、正しい理由だ。おれも、家族を殺されたなら、そうするだろう」
「理解したなら、早く殺せ。おれの家族を殺した手で、おれも殺せ」
「一度だけ訊く。匈奴に降る気はないか。おまえほどの戦士を、殺すのは惜しい」
輿は老人を見つめた。老人の左手が愛馬から離れ、輿に向けて小指を立てた。それがどういう意味かはわからないが、どうやら拒絶されたらしいことを輿は察した。径路刀を鞘から抜き放とうとした。抜き放つことを躊躇した。躊躇した自分に困惑した。数騎の匈奴騎兵が輿と老人の横を駆け抜けた。老人に斃された戦士たちの遺体と、彼らの愛馬が回収された。輿の右手が径路刀を鞘に戻した。老人に背を向け、輿は愛馬の方へ歩き出した。
「おい」
遠ざかる足音を耳にして、老人が輿の背中へ顔を向けた。
「何をしている。早く殺せ」
輿は無言で黒馬に乗り、馬首を巡らした。矢に射貫かれた肩を押さえながら、老人が上体を起こした。
「おい」
「次は殺す」
輿は黒馬を走らせた。おれを殺せ、と叫ぶ老人の声を背後に聞きながら、先を行く数十騎を追いかけた。
その夜、輿は夢を見た。夢の中に女性が出てきた。云に似た美しい黒髪をしていた。輿に背を向けて草原の中に立ち、彼方の地平を見ていた。輿が女性の背中に近づこうとすると、遮るように風が強く吹いた。
破壊と掠奪を繰り返しながら、匈奴軍は西へ進んだ。陽を弾く
「でかした」
烏珠留単于は喜んだ。寝返りを約束した都市国家へ軍を走らせた。砂漠を駆け、荒野を越え、都市国家まで一日の距離まで到達した時、男が一人、匈奴軍の野営地に駆け込んできた。その男は、寝返りを約束した都市国家の王の弟で、新帝国のタリム盆地駐留軍に寝返りの密約が漏れ、王が処刑されたことを単于に告げた。
「そうか。失敗したか」
烏珠留単于は径路刀を抜いた。自らの顔を径路刀で切り、帝国に処刑された王に弔意を示した。径路刀の刃を拭いて鞘に納め、全軍に進路の変更を命じようとした。お待ちを、と処刑された王の弟が声を上げた。寝返りを首謀した王は死んだが、王の計画は生きている。自分が王の計画を引き継いで都市を降らせる、と王の弟は烏珠留単于に伝えた。
翌日、烏珠留単于は軍を率いて進発し、都市国家の城壁に接近した。城壁の上には新軍の黄旗が無数に翻り、数百の兵士が守りを固めていたが、匈奴軍の鷲獅子の旗が城門に近づくと、不意に城壁の内側で喚声が上がり、城門が開かれた。匈奴軍は城門から市内へ突入した。激しくも短い戦闘の後、都市に駐留していた新軍の指揮官の首が烏珠留単于に捧げられた。
多少の齟齬はありながらも、匈奴軍は新帝国のタリム盆地駐留軍に勝利し、軍事行動の拠点となる都市を得た。烏珠留単于は二日、都市の近郊で兵馬を休ませると、近隣の都市国家を攻撃した。降伏勧告に応じず、帝国に与して抗戦した都市の首長を殺した。奪われた都市を奪還しようとする新軍と戦い、敗走させた。敗兵を追い、帝国のタリム盆地駐留軍の本部が置かれている城塞、
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